II.

 裏口に周り、彼はポケットから鍵を取り出した。店長しか持っていないはずのものだ。今日は定休日なのだから、彼が預かる理由なんてあるはずもない。



 質素な扉を開け、中へと手招きする。薄暗いバックヤードは冷え切っていて、彼はまず電気ストーブのスイッチを入れてから椅子に腰掛けた。

 ソファは、つい最近ノラがそこに寝ていた場所は、あえて何も置かれていなかった。僕はその気遣いに甘えること無く、彼の向かい側に座る。


「事情は知ってる」 


 彼はそう切り出して、パーラメントに火を点けた。


「どうやって」


「店長から」


 そう、とだけ返す。こういう喋り方、どことなく彼女に似ている。僕は、彼女の生きていた世界に染まりつつあるのかもしれない。


「慰めたり、忘れさせようとしたり、そういう事はする気がない」


「じゃあ、どうして――」


「俺に出来ることは、ただ話を聴くことと、これをお前に渡す事だけなんだ」


 彼はポケットから、一つの封筒を差し出した。マナがさっき注視していたのは、これだったのだろう。

 堅苦しい茶封筒には、宛名も差出人も書かれていない。封には糊付けがされておらず、中からは一枚の便箋だけが入っていた。大学ノートのように、罫線が引かれてあるだけで、何か可愛らしい絵やカラフルな色使いが成されているわけでもない。

 ただ、ボールペンで淡々と書き連ねてあるだけのもの。その希薄さが、ノラの面影を思い出させる。



 二つ折りにされたそれを開き、そこに書かれている文字を少しだけ読んだ。


「ジュリア、これはいつ受け取った?」


「昨日、会計の時だ。お金と一緒に、これを渡された」


 その時のことを思い出す。ノラはマナに何かをささやき、レジへと向かった。そして僕でなくジュリアを呼んだ。その選択自体は、特別おかしなものでもない。

 事実、僕はマナと会話をしていて、遠慮したのだと思っていた。だが、見方を変えれば明らかな事だ。それこそ、とんだ三文芝居なのだ。



 ノラが意図的に、そう仕向けた。僕をマナの方へと意識を向けさせ、その隙にジュリアへ手紙を託した。その後ジュリアは、素早くバックヤードへと戻っていった。それは僕に見送りをさせるためのいらぬ気遣いなどではなく、手紙を保管しておくためだったのだ。

 改めて、そこに書かれた小さな丸文字を追いかける。ノラが遺した、唯一の言葉を――。




 ――ウル、貴方のために初めて手紙を書く。多分、長くなる。だから読むのが面倒なら、今のうちに捨ててほしい。

 私は前々から、死ぬ時どうして人は手紙を書くたがるのだろう、と疑問に思っていた。内容はどれも似たりよったりだし。好きとか嫌いとか、それを伝えた所で何が変わる?



 訂正。間違えた。修正ペンが見つからないから、このまま続ける。

 変わる。それはさっき分かった。だから私も、ラブロマンスの真似事のように、こうして貴方に書いている。

 一つ勘違いしているかもしれないから、先に言っておく。私は口下手でも喋るのが苦手でもない。むしろ思ったことは殆ど口にしてきた。だから嘘を吐いていたり、何かを我慢してきたわけじゃない。そこは安心してほしい。



 気づいたのは、これから死にゆく私をもう一度見つめ直した時、もう何物もつかめない場所に行くのだと決めた時、私は。



 私は、「何かを遺したい」と思った。部屋にあるのは、そのへんで売っている普通のものばかり。絵は描かない。工作もしない。つまり、私が死んだあと、遺るものはその辺りで売っているものばかり。



 私、私だけのものなんて、何一つ無い。私の生活を築いてきた破片たちは、コンビニやショッピングモールで全て手に入る。

 それがひどく、虚しく思えた。

 だからこうして、お互い何の得にもならない、古臭い遺書を選んだ。



 言葉。それが全て。

 私はあの店で沢山の本を読んでいた。特に理由はない。まあ楽しい話が多かったけれど、泣いたり笑ったりするほどのものじゃない。だってあれは、全て創られたものだから。



 貴方に教えてもらった歌は良かった。たとえ言葉が分からなくても、意味のない音であっても、価値のあるものだったから。

 悲しく、色彩の欠けた自然を教えてくれた。

 見たこともない世界と、見たくもない現実を教えてくれた。



 だから私は、あの店を気に入っていた。言葉が無くても、全て正しく成立していたから。

 でも、言葉があるから。遥か昔に死んだ者であっても、未だその存在をこの世界に知らしめている。

 言葉があるから、私は貴方と出逢えた。



 何か言い残すつもりで書き始めたけれど、何を言おうとしていたか分からなくなってきた。変えの紙もない。読みづらくてごめん。



 でも、書きながら、今

 今、私は貴方に伝えたいことが沢山浮かんできている。

 でも、うまく言葉に出来ない。

 凄く寒い。手が震えてきた。うまく書けない。

 だから一言だけ。

 短い間だったけれど、ありがとう。

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