Chapter 6: 3055

I.


 僕はその姿をはっきりと直視できなかった。だから彼女がどんな最期を遂げたのかを、後から思い出そうとしてもうまくは行かなかった。ただ、頭部からは大量の血痕が溢れ出していて、手足はそれぞれおかしな方向にねじ曲がっていた。

 そして、思わず触れた彼女の指先が、驚くほどに白く、何の温度も感じなかったということだけだ。



 前髪はぐしゃぐしゃにはだけていて、どんな表情をしていたのか、見降ろすだけでは見ることができなかった。実際、見たくもなかった。

 野次馬たちは、僕が彼女の友人か、はたまた恋人なのかと思い込んだのだろう。わずかに距離を取り、遠巻きにそれを傍観するだけだった。



 誰か、救急車を呼んだのか。お前が今しがたポケットに仕舞った携帯は、本来の役割――つまり通話機能――を果たすために出していたのか。それとも、何の利益にもならない写真撮影に興じていたのか。

 誰も何も言わない。近づこうともしない。それは当然だ、あまりに恐ろしい光景なのだから。ならばなぜ、ここにいるのだ。悲鳴をあげて逃げ出すほうが自然じゃないのか。

 なぜ、人々は他人の死に好奇心を見出すのだ。


「兄さん」


 マナの声で、我に返った。無意識に、僕の右腕が拳を作っていた。爪が突き刺さり、僅かに血が流れている。


「連絡はつけておいた。一族の手のものが処理してくれる」


「処理? ノラは廃棄物や野良犬とは違うんだぞ」


「ごめん、そんなつもりじゃ……とにかく、手荒な真似はしない。それだけは確かだから」


 一旦、戻ろう。それがマナの言える精一杯だったのだ。事実、僕はひどく冷静さを欠いていた。出来ることなら、目の前にある野次馬の一人ひとりを丁寧に食べ尽し、「悲鳴をあげて逃げ出す」光景を作り出したい気分だった。



 ノラを、一人にはしたくなかった。しかしこのままでは何も出来ない。触れることすら恐ろしい。ならばせめて、見ず知らずの警官よりも、息のかかった者に任せるべきなのだろう。

 たった一日で、住居の移転も死者の隠蔽も可能なのだから。それは父さんが語った贄の昔話からも明白だ。


「ノラ……どうして、どうして」


 マナに腕を引っ張られながらも、僕はその血の海から目をそらせないでいた。しかし、抱きしめることも、無意味な延命措置をすることもなかった。

 そういう意味では、僕もまた、周りを囲む野次馬たちと、そう変わらない愚かな生き物なのだろう。



 アパルトメントまで、どうやって戻ってきたのか。あまりよく覚えていない。ふらふらと両足は覚束ないし、目は虚ろなまま目の前の景色を認識しようとしない。

 階段の前に着いた時、マナの膝や掌には、いくつも擦り傷がついていた。何度も転倒し、その度僕を起こして引っ張ってきたのだろう。それに対する謝罪も感謝も、言葉にする気力がない。



 かん、かん、と渇いた鉄の音が響く。一歩ずつ進むたび、どんどん、ノラから遠ざかっていくのを感じる。部屋に戻って、恐らくベッドに横たわって、それからどうするだろう。

 眠れるだろうか。夢に彼女が出てくれるだろうか。その時、涙は出るだろうか。そのどれもが、何の意味も価値もないように思えて、なら、どうすれば良い?


「ジュリアさん……」


 呟いたマナの言葉に、僕も顔をあげた。ジュリアが、踊り場で待っていた。足元にはいくつもの吸い殻が落ちていて、彼は僕らを見るなり、それらを一つひとつ拾い上げて携帯灰皿に押し込んだ。


「ウル、マナ……」


 小さく呟き、彼は僕の肩を担ぎ上げる。


「マナちゃん、先に戻っていてくれないかな」


 彼女はジュリアの身なりを上から下まで見て、腰の辺りで視線を止める。そして一つ息を吐いてから、


「わかりました」


 抑揚のない、冷たい声色。彼女は速やかに扉を開き、中へと戻っていった。部屋の鍵は、恐らくかけていない。


「ウル、少し歩こう」


 ウル。そう呼ぶ者は、これまで二人しかいなかった。

 店長は「ウル君」と。

 マナは「兄さん」と。

 ジュリアは「ウルっち」と。



 父さんと、それからノラだけが、僕をありのままの名前で呼んでくれていた。そのうちの一人が、もういない。それを穴埋めするかのように、ジュリアはいつもの軽口を捨てて、僕をそう呼んでいる。



 大丈夫、と吐き捨て、僕は彼の手を振りほどいた。彼はそんな不躾な態度にも沈黙を貫き、僕の少し先を歩いていく。

 辿り着いた先は、喫茶店ファントマイルだった。

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