V.
午後七時過ぎ。外はすっかり暗くなっている。予報では今晩からまた雨が降るらしい。なかなか雪に変わらない。どうせならそちらのほうが嬉しい。
店内ではUKロックが流れ始め、レディオヘッドやクーパー・テンプル・クルーズの曲が流れている。
「あーお尻痛い」
マナがゆらゆらと座り直しつつ、ぽつりと言い漏らした。
唐揚げおにぎりは絶品だったらしく、しきりに店長に「美味しい」と連呼していた。その後、いつの間にかマナは眠っていた。食後は眠くなりがちだが、彼女はその魔力に惹かれるがまま、あっさり寝てしまうのだ。
ノラはコップやお皿を横に避けて、机に突っ伏して眠るように誘導した。口をあんぐり開けて、空を仰いで眠るさまは僕も見たくないから、ありがたい。
その後、ノラはこれまで通り読書を嗜んでいた。吉本ばななの『TUGUMI』。これまでの作品とは、かなり毛色の違うものだった。
そして、ようやく目覚めた瞬間に、マナは「お尻が痛い」と言ったものだから、つくづく遠慮を知らない人間だ。
「そろそろ出る?」
と言うノラに、
「いや、私は平気だけど」
慌てて取り繕ってはいるが、ノラからすれば選択肢は一つしか無いだろう。思いっきり本音を漏らされたわけだから。
「また明日、来ればいい」
コートを手にとって、彼女は立ち上がった。マナもそれを見て、帰り支度を始める。伝票をノラが取り、彼女に何か耳打ちしている。それを聞いて、マナはぱっと笑顔になり、僕を呼びつけた。
「いやあ、ノラって太っ腹だねえ。奢ってもらっちゃったよ」
得意げに話しているが、何とも情けない。どうしてこんな妹に育ってしまったのか。ノラはジュリアを手招きし、支払いをしている。
「それを言うためだけに呼んだのか」
「そうだけど――あ、ラテアートね、友達に好評だよ」
「ラテの方が優先順位が下なのか……」
しかし好評と言われて悪い気はしない。その調子で、このお店も繁盛しないものだろうか。いや、でもマナの友人となると、皆お喋りなのだろうか。
だとしたら、店の雰囲気には合わない。出来れば、話の種になる程度にとどまってほしいものだ。
ありがとうございます、というジュリアの声で、僕とマナは出口の方を振り返った。ノラは財布をしまい、ストールに口元を埋めていた。
ジュリアはジュリアで、
「煙草、どこに置いたっけ」
とバックヤードの方へ入っていった。見送りは僕がやれ、ということだろうか。三文芝居とはまさにこの事だ。
「ありがとうございました。またのご来店、お待ちしております」
僕は努めていつも通り、お決まりの言葉で彼女らに微笑みかけ、扉を開く。外はすっかり冷え込んでいる。思ったよりも早く、雨になりそうだ。
「ま、明日も来るんだけど」
マナがにやりと笑うが、
「明日は定休日だよ」
僕がさらりと答える。ファントマイルは週に一度だけ定休日がある。それから年末年始やお盆にも臨時休暇がある。でないと店長が過労死してしまう。
「定休日……」
ノラは少し残念そうに眉を曲げたが、すぐに目線を戻し、
「それじゃあ、また」
と、ほんの少しだけ笑みを浮かべ、さっと外へ歩いていった。マナはそのあっさり加減に驚きつつも、
「それじゃあ兄さん、先帰っておくね。あ、ノラは私がちゃんと見送るから」
そうして、慌てて彼女の背中を追いかけていく。コケるなよ、と冗談を飛ばしつつ、二人の姿をしばし眺めた。
何だかよく分からないが、二人が仲良くなったようで何よりだ。やはり同性同士のほうがすんなり行くのかもしれない。
明日は、マナと二人でノラの家に遊びに行ってみようか。そうだ、カラオケに誘ってみよう。
「楽しみだな」
そう呟いて、暖かな店内へと戻る。これまでは休日の過ごし方が分からなかったが、マナのおかげで新しいライフサイクルが作れそうだ。彼女に感謝するなんて、滅多にない事だ。帰ったら褒めてやろう。
ノラとは変わらず交流を続けて、女性とのコミュニケーションに慣れていこう。そして贄の選定も進めていけばいい。その結果、再びノラを選ぶ可能性もある。というか、今はその可能性のほうが高い。
今の僕には、ゆっくり考える時間が必要だ。たかだが一週間に満たない時間で、僕は気が急いていたのかもしれない。
改めて、彼女のことを知っていこう。それから悩んだって、遅くはないのだから。
まずは、明日。明日、ノラを誘う口実を考えておこう。そのためにもマナに知恵を授かることとしよう。
「ウルっちー、手伝ってくれい」
ジュリアの声で、僕は店員としての仕事に戻っていった。
店内には、ボーアの『Duvet』が流れていた。ダウナーな歌声に、暗く救いのない歌詞が、なぜか心地よかった。
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