II.
通話を切ると、僕は不意に昨日の会話を思い出した。そういえばノラは、今日も店に行くと言っていた。また開店と同時に訪れているのだろうか。
休みだと伝えそびれた。それを詫びようと思って。そう言えば誰も気にしないだろう。
ついでにどこかへ行こうと誘って、うまく行けば今日にでも。
そうとも。全ては彼女を喰らうためにやって来たことだ。
一目見て、興味が湧いた。それは確かだ。
変な人だし、明らかに他の人間とは生き方が違う。
だからなのか、純粋に僕の好みがそうだったのかは分からないが、これはきっと恋なのだろう。
だから、彼女に話しかけた。適切な距離で、迷惑がられないように、そして客と店員という関係を早めに改められるように。僕は彼女に警戒されない人柄を演じた。
もう少し先でもいいかと考えていたが、別に掟があるわけでもない。
父は数週間で果たした。なら僕は、それを三日で成し遂げる。早ければそれに越したことはない。
「行こう」
コートを羽織り、ブーツの紐を強く結ぶ。もし彼女を食べることができたら、
ジュリアのうざったい声が聞けなくなるのは寂しいかもしれない――いや、そうでもないかもしれないが、あの店に行けなくなるのは惜しい。
でも、僕には責務があるのだ。アパルトメントの扉がいつもより重く感じる。鍵をかけて、階段を降りる。
昼前だというのに、恐ろしく寒い。白に染まる息を楽しみながら、僕は喫茶店目指して歩き出した。
からんからん。扉を開くと、
「いらっしゃいませぇ」
ジュリアの、いかにもやる気のなさそうな声が返ってくる。と同時に、あれ、と彼が首を傾げる。
「どったの、ウルっち。今日は休みでしょ」
ちょっとね、と曖昧に答え、店内をぐるっと見回す。よく見る常連客が三人ほど見られるが、彼女の姿はない。
おかしいな、開店時に来たとしたら、まだ帰ってしまうような時間でもない。まだ訪れていないのか。
「ああ、ノラさん? もう帰ったよ」
カウンター越しに、頬杖を突きながらジュリアが答える。店長はいつも通り、しっとりと業務をこなしている。
「帰った?」
聞き返すと、
「うん。ウルっち公休だよって伝えたら、回れ右して帰っちゃった」
俺じゃ駄目なのかなあ、と軽口を叩く彼を無視して、僕は「お疲れ様です」とだけ告げ、店を後にした。
彼女の住まいは昨日知った。だからマンションまでは難なく辿り着けたが、問題はそこからだ。
入り口のダイヤルキーを前にして、僕は顔を覆った。
彼女の部屋番号が分からない。つまり、インターフォンを鳴らすことができない。
マンションは見たところ、十数階建てといったところか。
この規模なら、一階につき十数個の部屋があるだろう。選び抜けるはずがない。
このまま突っ立っていても、住人に怪しまれてしまうだろう。
諦めて自動ドアをくぐり、呆然と空を見上げた。ここ二、三日、天気はずっと晴れだ。
ベランダから、もくもくと煙草の煙でも出ていればいいのに、と思ったが、流石にそんな奇跡は見られない。
ポケットに手を突っ込み、仕方なく家に帰ることとした。レンガ道を抜け、駅前まで戻り、ついでに本でも買って帰ろうか、と思案したその時だった。
「いた!」
聞き慣れた声がする。改札へ続く階段から、どたどたと足音が聞こえる。
それは地面に降り立つと、大きなキャリーケースをどすんと下ろし、まっすぐに僕の元へと駆けてきた。
「兄さん、久しぶり!」
髪の毛、随分伸びたなあ。
一年半ぶりに会った妹、マナへの第一印象がそれだった。
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