III.
「突然ごめんね、暇だったから」
キャリーケースには、ありったけの服とありったけの美容グッズが詰め込まれていた。
ノラのシンプルでユニセックスな、人によってはボーイッシュだとかロックだとか言われそうな装いとは対象的に、彼女は実に女性的な服を好んでいる。
フリフリしていたり、ほわほわしていたり。
「いつ出発したんだ?」
屋敷からここまで、電車なら数時間かかる。ちょっと遊びに、という距離では決して無い。
「今朝方。大丈夫、父さんにはちゃんと言ってある」
昼前にした、父との電話を思い出す。彼が庭に出たときに聞こえた声は、マナではなく別の誰かだったわけだ。
妹の事だ、電話があることを予想して、それらしい引掛けを用意しておくぐらいのことはやりかねない。
「にしても、兄さんの一人暮らしねえ。なんというか、殺風景だね」
余計なお世話だ、と目をそらす。確かに小洒落た家具や雑貨が置いてあるわけじゃない。
冷蔵庫とかテレビとか、必須と言っていいもの以外となると、本棚と猫のカレンダーくらいだ。
マナはというと、僕とは対象的な感性だ。とにかく色々なものを置きたがる。無駄にラックを並べたり、小さなサボテンを飾ったり、後は僕が見ても何に使うかわからないものばかりだ。
掃除の時大変だろう、と思うのだが、その手間をこそ嗜んでいるようにも思えた。
とはいえ、整理整頓は出来ても、色々と雑な性格であるのも間違いない。
彼女はキャリーバッグを開き、次々と私物を出し始める。大量のコスメグッズは良いとしても、青汁の粉末やサプリメント、とどめの小顔ローラーで僕はため息をついた。
床がどんどん埋め尽くされていく。
「お前、住み着くつもりかよ」
「え? 一週間くらい泊まるつもりなんだけど」
あっけらかんに返される。一方的に突撃してきておいて、更には泊まり込みまでする魂胆とは。慎重かつ一匹狼なノラとは正反対の性格と言える。
「あ、そうだ。父さんから聞いたんだけど、今バイトしているんだよね?」
「そうだよ」
「どこ?」
「まさか、連れて行けってことか」
こくり。妹というやつは、皆こうなのだろうか。
ワガママというか、自由奔放というか、こちらの都合は度外視だ。しかし何の予定も無いのもまた事実。
「仕方ないな、貴重品だけ持っておきな」
脱いだばかりのコートを再び羽織り、鍵を取り出す。マナはきゃぴきゃぴと跳ねて喜んでいる。
そのたび、鮮やかな黒髪が柔らかく揺れる。やっぱり、伸ばしているんだな。
キャリーケースの中に、白いニットが入っているのを見つけて、それを彼女の頭にぼすんと乗せてやった。
「冷えるから、それ被っておきな」
ニットをかぶり直して、彼女は少し顔を赤らめる。たぶん、部屋の中にいて身体が温まってきたからだろう。そう思っておく。
ファントマイル。本日二度目の来店だ。午後三時過ぎ、やや客足の増える時間帯だが、幸い混み合ってはいなかった。
とはいえ、席が全て埋まる日などこれまで二度ほどしか見たことがない。
そういえば、僕はこの店の名前の由来を知らない。恐らくジュリアも同じだろう。
ファントムとマイルの組み合わせであるのは明らかなのだが、それが何を意味するかはさっぱりだ。
「ねえ兄さん、店長さんってゲーム好きなの?」
唐突にそんな事を尋ねるものだから、僕は露骨に呆れた顔をして彼女を見てしまった。それを見て、マナはむっとした顔で看板を指差す。
「ファントマイル、でしょ。『風のクロノア』じゃん」
「なんだそれ」
マナの説明では、昔発売されたゲームの副題に、ファントマイルという単語が使われているらしい。
しかし、店長がゲーム好きという話は聞いたことがないし、そういう話を振ってきたこともない。お店に関連することか、他愛ない世間話や小説の話くらいのものだ。
「多分、違うと思うよ。気になるんなら、訊いてみたら」
からん、と扉を開き、ふわりと暖かな空気を感じ、寒さで縮こまった肩の力が抜けていくのを感じる。
「いらっしゃ――またかよ、ウルっち」
数時間前と同じように、ジュリアはカウンターでまったりしていた。店長も椅子に腰掛け、休憩しているようだ。
じろじろと僕を見つつ、ジュリアの視線はその背後に立つマナへと切り替わった。
目を見開いて、彼は一転、にやりと笑みを浮かべる。ああ、ウザいモードに入った。
「あらやだ〜。ウルちゃんったら、また違う女の子捕まえたの〜?」
オネエ口調で詰め寄る彼は、やはりウザい。面倒くさい。説明するのも尺だが、明日も明後日も会うのだ、誤解は解かなくてはいけない。
「妹だよ。遊びに来たんだ」
扉を閉めて、空いている席へと腰掛ける。これは無意識だったのだが、僕はノラがいつも座る席を選択していた。店の奥、壁際の端っこ。
「何だか、軽い人だね」
それはマナなりに、精一杯オブラートに包んだ言い方だったのだろう。思わずくすりと笑ってしまう。
ぬっ、と僕を睨む視線を無視して、メニューを彼女へ手渡す。
色々と銘柄はあるものの、飲み物自体はコーヒーか紅茶かの二択と言ってもいい。
よもや、オレンジジュースを選ぶとも思えないが、しかしそこも万全の体勢だ。果汁百パーセントのものを使っている。
「ねえ兄さん、このウインナーコーヒーって、ウインナーが入ってるの?」
大真面目な質問に、「またか」と「何だか懐かしいくらいだ」という感情が同時に湧いた。
ノラも、最初に僕に話しかけたのがこの質問だった。ウインナーコーヒー。知名度無いのか。ちょっと悲しくなってくる。
あの時と同じように説明してやると、彼女は良かった、と安堵の表情を浮かべた。
「流石にウインナーが浮いてたら、ちょっとね……」
その反応は、ノラと逆だった。しかしまあ、あれは彼女が変わり者というだけなのかもしれない。やはりコーヒーにタコさんウインナーは似合わない。
結局、彼女はラテアート付きの「No.2」という銘柄を選んだ。ブラジル産、苦味は程々に酸味も控えめな、非常に飲みやすいものだ。
僕はカンヤムという紅茶に決めて、ジュリアにそう伝える。
「え、ラテアート? ウルっちやってよ」
常連客がほとんどである当店では、ラテアートが頼まれる事は稀だ。
一応、二人で練習した時期もあったのだが、彼は全く持ってセンスがなかった。
これではジュリアが全くの役立たずと思われかねないので、彼の名誉のために付け加えておく。
ブレンドの配合はとても上手い。銘柄同士を組み合わせ、独自の味わいを引き出すのは紅茶やコーヒーの醍醐味だが、彼はその配分が抜群に上手い。
ただしラテアートはとてつもなく下手だ。
「客にやらせるなよ」
とはいえ、店長にやらせるわけにもいかない。
元々ラテアートは、僕ら二人がサービスとして始めようと提案してのものだ。
恐らく難なくこなすだろうけれど、何だか気が引ける。許可をもらって、僕は私服にエプロンを付けてカウンターに立った。
花ならプルメリアが好きだと言っていたから、その形にクリームをなぞらせる。
ものの数分でそれは出来上がり、ついでに僕の分と一緒に席まで持っていった。客使いの荒い店だ、と苦笑いを浮かべる。
「ほら、出来たよ」
差し出すと、彼女は大喜びでスマートフォンを取り出した。
ここ数日で、久々にお目にかかった気がする。ケースにはデコレーションがしてあって、やや小ぶりなフォルムは彼女の小さな手によく馴染んでいる。
「兄さん、上手い! 友達に自慢する」
友達、か。僕ら一族は、人を喰らうという点以外は人間と何も変わらない。
彼女はごくありふれた学生生活を満喫しているらしいし、事実友達をよく家に呼んでいた。あの屋敷があるのだから、鼻高々なのだろう。
ノラとマナが対照的だと言ったが、それは僕とマナにしたって同じなのだ。僕はマナほど、柔軟に馴染めなかった。
「冷めないうちに飲みなよ」
促すと、彼女は勿体無いなあ、と尻込みをする。ラテアートを崩さないよう慎重に口にしたが、それはあっさり形を崩し、ただのクリームと化してしまった。
どんなに綺麗なものでも、一瞬で壊れてしまう。そういう儚さがあるから、僕はそれを作ろうと思ったのかもしれない。
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