感想戦 終盤 悪魔降臨
「名前を変えるという事は、相当な理由が必要となります。貴方の場合、清一。という名前は、特に家庭裁判所が定める理由に対して、当てはまるとは……」
清一は、黙って何か紙をその場に落とした。
「これは? 」
「医師の診断書です。私は幼い頃、実母と内縁者に虐待を受け続けていました。名前を呼ばれる度、その思い出がよみがえり、自律神経に異常を来すという診断を受けました」
「なるほど」
そう言うと、その職員は封を開け、診断書を眺める。
「しかし、それにしても、新しい名前が、現在の養父と同じ名前。というのは、まずいでしょう。これこそ。3の項目の『同姓同名者と間違われて不便』に当てはまる」
清一は、かりかりと、文字を書く。
「なれば、読み方を変えます。『きよずみ』から『きよすみ』へ」
「そういう問題ではないんですがね……」
「現在の養父は、私を虐待から救ってくれた恩人です。どうしても、彼と同じ名前が欲しいのです」
職員は困った様に頭を掻いた。
「養父の名前を……どうしても、将棋の世界に残したいんです。お願いします」
もう、てこでも動かない様なその強い意志に。職員と、更にその上司は遂に折れた。
『
その手続きが終わると、その足で向かうのは、一時間も電車に揺られた先。
昔から続いている由緒正しき将棋道場『
「一局、お願い出来ませんか? 」
集まった子どもや、老人達に指導指しをしていたその男に、清澄は無礼にも言い放つ。
「おい、君、失礼じゃないか」
そう言って、近くに居た若い男が、清澄の肩を押そうと手を伸ばすが、清澄は素早くその手を捌いた。
「おいおい、止せ止せ。まだ子どもじゃないか。ん? 指導指しなら、そこに座りなさい」
そう言って、その初老の男性は席に促そうとするが、清澄は首を振った。
「僕を、奨励会に推薦してほしい」
「本指しか⁉ 」
周囲に居た者達が、一斉に騒めきだす。
「面白れぇ。よりによって、あのガキ、別当名人を指名しやがった‼ この道場で、ダントツの実力者だぜ? 」
指導指しをしていた面子も、一気に野次馬と化した。
「やれやれ」
そう言って、別当は眼鏡を拭く。
「別当先生のお手を煩わせる訳にはいきません。私が、お相手になりますよ……」
そう言って、離れた位置に居た若い男が近付いてきた。清澄はその男を値踏みする様に見た。
「確か、貴方は、B級2組の
男は、清澄の言葉に、眉を跳ねさせた。
「へぇ~俺を知ってるんだ。ただの勘違いしたアマチュア棋士って訳じゃないのかな? 」
「ですが、残念ながら、僕の目的は貴方ではない」
石橋のこめかみに、雷の様な血管が浮いた。
「心配すんな、100万に1も無いが、俺に勝てたら、俺が奨励会に推薦してやるよ」
清澄は、冷めた笑いを浮かべた。
「いりませんよ。貴方程度の実力の肩書では、自分が頂点に立つ時に何の利用も出来ない」
石橋が、鬼の表情に変わり近付いたが、それを止めたのは別当だった。
「ははは、いいでしょう。でも、ここまでプロの先輩を馬鹿にしたのだ。私に敗けたら、もう二度と奨励会を目指さないくらいの覚悟は、あるんだね? 」
清澄は、強い視線を持った。
――むぅ、この小僧……只者ではない。
対局が始まると、全員が息を呑む光景がそこに在った。
「よし。もう十分だ」
中盤に差し掛かった所で、別当は立ち上がり対局を中断した。
野次馬になっていた観客は、思わず驚いてその意味を探った。
「明日、早速推薦しよう。将棋会館の場所は、知っているかね? 」
清澄が首を横に振ったので、別当は石橋の肩を叩く。
「悪いが、石橋君。明日、彼を将棋会館まで送ってあげてくれ」
呆然と、盤面を見つめていた石橋は、冷や汗を落しながら、顔を挙げた。
――信じられない。あのガキ……
この対局を、続けていれば。敗けていたのは……果たして。
奨励会に入った清澄は、快進撃を続ける。
時代は、山本、鵜飼、漆畑の3強に古豪と言われた別当が前線を駆け巡っていた。将棋界は『新しい波』を求めていたのだ。
必然――古葉清澄の存在は。瞬く間に将棋界に響き渡る。
新世代の麒麟。それが、彼の通り名となる頃。彼は四段に昇格。つまり。プロ棋士の門をくぐる事になる。
だが、その進撃に、遂に重き門が立ち塞がった。
「よろしくお願いします」
新人で無敗のまま、行われたプロ三戦目の相手は。
現名人、竜王、棋聖の三冠を持つ最強の相手。山本幸三。
四時間に渡って繰り広げられた闘いは、山本強し。という見出しが付けられる、圧倒的なものとなった。
古葉清澄――初めての完全敗北である。
だが、それで絶望する様な決意ではない。
――流石は、名人。だが、最高点が解っただけでも、収穫はあった。
それは、相手だった山本の後日の会見でも語られている。
「古葉君? ああ。息子さんの方ね。ええ。この間勝てたのは、経験の差があっただけですよ。これから、色々な棋士と、色々な将棋を指して。
次に、対面した時……彼の本当の実力が解るのでしょうね」
東京の外れ。新幹線の駅は無いので、高速道路を2時間走らせて辿り着く、海辺にあるその施設は、重病者のみが入れる特殊な病院である。
一番特殊なのは、保険が利かないという事。つまり、高額医療のみが行われる。
「お帰りなさいませ。清澄様」
そう言って、近付いたのは、皺一つないスーツに身を包んだ老紳士。
「大下さん。様付けは止めて下さい。父は? 」
それを言われると、大下は深々と頭を下げる。
「失礼致しました。清澄さん。お父様なら、今日もお変わりなく、お元気で御座いますよ。今日は、目を二回も動かされていたんです」
「ただいま、父さん。清一だよ……」
窓から爽やかな潮風が流れ、部屋の消毒剤の臭いはほぼ感じない。
高額病院なだけはある。現在最高の医療がここにはあった。
この病院を紹介してくれたのは、大下であった。大下はあの後間もなく、例の液晶部品を完成させ、それは、世界各地で大きな評価を得た。
この病院でもその部品を使った内視鏡が大量に仕入れられている。そのつてで、大下は清澄にそれを伝えた。恐ろくべきは、清澄、いやその時は清一か。彼の先見の明。という所だろう。
「今日はね。山本名人と対局だったんだ。父さんも、2回対局してるよね。
はは。私も負けちゃったよ。でもね、次は勝つよ。
また、その時は報告に来るから……応援しててね? 」
家路についても、清澄に眠る時間はない。山本の棋譜を含め、過去の棋譜を読み漁り、手を研究する時間を優先するからだ。
古葉清澄は、ある記者に言われた事がある。
長らく出ていなかった、若き名人の器の人物。天才だ。と。
清澄は、その言葉が好きではなかった。
清澄の将棋は、父の清澄から――そして、己の努力によって手に得た。
何も持っていなかった自分が、遂に手に入れた物だ。
才能だなんて――持っていなかった。
清澄は否定する。その力は――何よりも欲していた……絆から得たモノだから。
そうして数年後。
着々と、その階段を昇っていた清澄は。
その本物を遂に目の当たりにする。
自分よりも一回り以上年下のそいつは、中学生らしい。驚くべきは。将棋を始めて僅か一年という歳月。そして。奨励会にも属していない。アマチュアという事。
それでありながら、名人と並ぶ最高峰のタイトル、竜王の本戦に名を連ねて来た。
次の彼の相手は――清澄であった。
――面白い。
だが、当日相手は目の前に現れなかった。
後に判明したのは、将棋連盟が現棋界の期待の星である古葉清澄がアマチュアに不覚を取るのを恐れたと言う。
清澄の自尊心は、砕かれそうな程傷つけられた。その相手こそが。
――阿南……善治。
長き長きに渡る二人の因縁の幕開けであった。
だが――本当の絶望は……怪物はその後にやって来た。
『湖南』で別当の代わりに指導指しを頼まれ、それを行っている時。その男はやって来た。
「じゃまぁ、するぜぇ? ここにはプロが来るって聞いてねぇ? 」
真っ赤な逆立った髪に、力士を思わす程の恵体。
「指導指しですか? でしたらこちらにお名前の記入を」そう言ってにこやかに近づいた店員に、彼は手を振った。
「あんや、おりゃただ強いヤツと指したいだけじゃ。この道場には、プロがしょっちゅう来よるって、聞いたんでね? んで? どいつが、一番強いヤツじゃ? 」
その場に居た全員が清澄に視線を送った。
「お前か」
それだけ言うと、ドカドカと大きな足音を立てて男は清澄の向かい側に座った。
「何者だ」
「将棋指すんに、名乗る必要なぁの? 」
周りの者達が「失礼だぞ」と騒ぎ立てるのを、清澄自らが手を挙げて制した。
「確かに」そうして微笑むと、駒を盤上に並べ始める。
――数分後。
清澄は、将棋を指して、初めてその感情を覚える。
『恐怖』ただただ、純粋な恐怖。己の心理が、脳裏が、その全てが相手の掌で転がされる感覚。同時に清澄は理解する。
伝説の――誰も成し遂げられていない『七冠』とは……
こういった……化け物が……
「ありがとうの。確かに、お前さん。ここ10年くらいの間に指した奴の中では、抜群じゃったわ。名前、訊いとこうかの? 」
だが、呆然としている清澄から返事は無い。
仕方ない。と言った感じで、男が立ち上がった時。
「古葉だ――古葉清澄」
搾り出す声だった。
「古葉じゃな。よし、覚えとこ」
そして、清澄は「ふん」と鼻を鳴らした。
「確かに、お前の将棋は凄かった。だがな? プロの壁は、高いんだ。お前が、俺に勝てたとしても……『名人』には絶対に勝てない‼ 」
それは、負け犬の遠吠えと言われても差し支えない。だが、言わなければ清澄の自尊心は保てない領域だった。
それを聞くと、目を細めただけで、男はその場を立ち去って行った。
――その僅か三日後。
「阿南‼ 」
将棋会館の廊下で待ち構えていた清澄は、阿南に詰め寄った。
「どういう事だ⁉ 何故、山本先生が、突然引退など‼ 」
阿南は、目を細め、ずれた眼鏡を直した。
「……誰にも言うなと、言われています……」
その反応で、清澄は悟った。
「あの……大男か? 」阿南の表情が一気に変わる。
「……まさか……ま、負けたのか? 名人が……アマチュアに? 」震える手を阿南の手が引きはがした。
「……相手が、命を賭けていたから……自分も命と同価値の将棋界を捨てるのが、フェアだそうですよ。本当、バカげてますけど、先生の決めた事ですから……古葉先生? 」
だが、阿南の言葉を全て聞く事もなく、清澄はふらふらとその場を後にした。
その後、清澄は大きな
支えていた柱が折れたのだ。
七冠。その重さ――そこに立つべきに必要な……圧倒的な力……
――何故、奴の棋力が……阿南の棋力が……名人の棋力が……私にはない?
次の期で、清澄は初めて階級を降格させる。
全てが。
今まで積み重ねた物が。崩れていく。
これが――本当の、挫折。
その時の様子は、後の大下を以て「痛々しく見ていられなかった」と語られる。
そんなある日――清澄が久方ぶりの勝利を収めた瞬間。対局相手が泣き出した。
「どうした? 」清澄が尋ねると、彼は涙を拭った。
確か、自分の後に入った彼は、その後もC級から抜け出せず苦労していた者だった。
「今日負けたら……引退を決めてたんです。
あ……いえ、古葉先生はお気になさらないで下さい……上に立つ人は……古葉先生の様なお人だったんです。僕の様な……平凡な人間には……いえ……プロになれたんです……次の仕事でも……この事を……誇りに……」
そこで、彼は堪らなくなったのか、駆け出していった。
――いや、私こそ、平凡な男なんだ。だから……努力して……そして……
翌週。清澄は、その対局が始まる前から半ば勝利を諦めていた。何故ならば相手は……
「よろしくお願いします」
「では、阿南8段対古葉9段、対局開始して下さい」
――だが。
「参りました」
そう、目の前で頭を垂れたのは、自分ではない。
――阿南に勝った? 何故?
勝利を、自分で理解出来ない状態程、不可思議なものもないだろう。
その通り、清澄もまた、困惑した。
まるで、自分だけでない。誰かの力が乗り移った様な――一手一手。
そうして……清澄の推測が、そこに行きついたのは……必然だったのかもしれない。
――間違いない。
「ありが……とう……ございました……最後の相手が……古葉先生だなんて……これ以上の光栄は、棋士としてありません……」
――棋士として、道を断絶させた相手の棋力が。
「ふ~、やれやれぇ。弟子の君にこんな序盤戦で敗けるとは……わしも潮時かねぇ」
――私に、蓄積されている‼
丁度、桜が散り――新たな芽吹きの香りが夕やみに沿って病室に流れていく。
「清澄さん――聴こえますか? 」
ベッドの上の、最愛の人は、瞳を閉じたままだが、清澄……清一はしゃがみ込むとその手を掴む。まるで枯れ木の様に細い。そして、氷の様に冷たい。
それを己の頬に当てた。
「清澄さん――昔、貴方は言って下さいましたね? 私には才能がある。と。私は本当に才能がある者を目の当たりにして……そして理解しました。私には才能は無い。
でもね、清澄さん。
願っても、力は与えられません。何故なら――将棋に神など存在しないからです」
そして、清澄のその細い手を、温める様に両手で包み込む。
「だけど――悪魔は居ました。
私は……その悪魔と契約してでも……貴方との約束を……果たしてみせます。
それでも……褒めて……くれます……か? 」
季節は、春を越え、緑の芽吹きの香りが風と共に病室に夏を告げる。
その後、古葉清澄は、大下の援助を受け『東京都江戸川区棋神門』を創立。全国より有望な少年少女棋士を集め、その実力をアマチュアを通り越す程の高め――そして……
「阿南……そして、あの大男。
俺の前に……立ち塞がるなら……奴らも……」
見下ろす東京の街の灯りは……まるで、夜空に輝く星々の様であった。
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