第二十手 慟哭という名の凶器
学校。
とは。一度行くと、終わるまでその敷地内を出る事等、在り得ないと思っていた。
少なくとも、由紀が体験した7年の間には、今までそれが無かった。
個人の乗用車に乗るのも久方ぶりだ。
父親が持っていた車と比べると、随分とスマートなその車の助手席で、由紀は何故自分がここに連れて来られたのかを考える事にした。
コロンの様ないい香りが、エアコンの温かい風と共に由紀を包む。
その香りに慣れる頃まで、必死で考えたが見当もつかない。
ちらり。と苑田の様子を伺ったが、こちらも今まで見た事も無い程の形相で車を運転している。とてもじゃないが、声を掛けられる雰囲気では。無い。
見慣れた道を更に進むと、そこはもう、由紀の知らない道であった。
「ごくり」と、隣から大きな音がした。
見ると、苑田の顔色が蒼白して、額には幾つも汗の粒を浮かばせていた。
車は、そこで左折し、ある建物の敷地に入る。
まるで、小学生の頃、家族でよく行っていた大型スーパーの駐車場を思わせる程、そこは広かった。
そこに慎重にバック駐車で車を入れると、苑田は天を仰ぎ、そして「ふー」と大きく息を吐いた。
「あの………先生………ここは? 」
その落ち着きを見計らって、由紀は遂に尋ねた。
しかし、すぐには返事は返ってこない。苑田はゆっくりと目を閉じると、何かを呟き、そして、由紀の方を向いた。
「苫米地さん。今から、君はある人に会って、その人が君の知っている人か、確認してほしいんだ。いいかい? もし、知らない人だったならそれで、この話は終わりだ。」
由紀にはその言葉の真意が理解出来ない。そもそも、情報が少なすぎるのだ。それも、これはわざと情報を隠している。苑田の態度に由紀はそう感じた。
「あ………」
車内から出ると、すぐに大きな看板が見える。
警察署。
――警察? ――由紀のその心の自問は、自身を疑問で埋め尽くしていく。
全くもって、自分がこの場所に来る理由が見当たらない。
まさか、いじめの事を、ここで話せと言うのか?
由紀の鼓動が不安でその速度を早める。
「こっちだ。来て。苫米地さん。」
しかし、立ち止まる事は許されなかった。余裕のない様子で苑田は由紀の手を引きその建物へ入って行く。
「うあ………」
中は、外よりも全然古臭い印象だった。少し煙草の様な臭いが籠っている。
「苫米地さん、少しここで待っていて。」
そう言うと苑田は、由紀を入り口に待たせ、正面の受付口の様な場所に向かった。
濃い青の制服に身を包んだ大きな男性が、近付く苑田に気付いて立ち上がると、苑田はそのまま何かを話していた。
暫く話していると、受付の警官が、後ろで業務をしていた警官達に何かを伝えた。
そして、そのまま指を動かしながら、苑田に何かを伝えている。
「苫米地さん。こっちだ。」
振り向いた苑田は、手招きで由紀を呼ぶ。
訳も解らず、由紀は駆け足で近付いていった。
すると、待つでもなく、苑田も動き出した。付いてこい。という事だろうか?
「カッカッカッカッカ」幾つかの階段を降り、そして薄暗い廊下を、これも幾つか抜けた先。いつからだろうか? 床の質が変わり、そこでは普通に歩くだけでも大きな足音が鳴っていた。そして、更に歩いたその先。そこは………
先までの外からの明るさが入ってくる場所とは違う、電灯の光に頼り切った様なその廊下。それは、由紀の脳裏に苦い思い出を甦らせる。
――あの日の………前のお家みたい………――
暖房も入っていないそこは、人気も無い為か、死んだように外よりも冷めた空気を地に這わせている。
「カッ」
足音が止まった。苑田の背中から、顔を出すと、給食室の入り口の様な扉の前で、数人の警官がこちらを待っていたかのような素振りで頭を下げた。
「そちらの女の子が? 」
「ええ。」
警官と苑田は短く、何かを確認すると、一斉にその視線が由紀に集まった。
「ひっ⁉ 」
全員の目が、一切の余裕がない。思わず悲鳴が出る様な眼差しだった。
「早速ですが、こちらへ。」
そう言うと、婦警が、両開きのその、金属製の扉を開いた。
「…………」
誰も、何も言ってくれない。
ただ、自分に「入って……」と目で語ってくるのみだ。
由紀はその中に、おどおどと、小さな歩幅を何度も動かし、ようやっと入る事が出来た。
なんだろうか?
昔、どこかで嗅いだにおいがする。と、由紀は思った。
嗅覚の次に、視力が情報を伝える。
――灰色……――
その部屋の第一印象であった。次に何となく『倉庫』という言葉が、この場所に合うな。と思った。そう言えば扉の上に『保管室』と書いてあった。
何かを『保管』する場所なのだな。と、由紀は思っていた。
直後。
見慣れた物が視界に入る。
真っ白い。まるで新品のシーツがそれを隠す様にかかっている。
ベッドだ。シーツで隠されていても、これまでの生活で見た事の有る情報を由紀の脳内は解読して、それを当てた。
その頭元だろうか? 祖父母の家で見た事の有るお仏壇に置いてある物が、机の上に置かれていた。
その机にもベッドのと同じ程の白いシーツが掛かっている。
同時にこの部屋のにおいの元も解った。
――そうか、これ。線香のにおいだ………――
由紀はそこまで行くと歩を止めた。何となく。目の前のベッドにある『それ』がこの不可思議な状況の答えなのだと。彼女は気付いた。
それに、倣う様に、一目で見ると『怖い』印象の一重瞼の若い男性警官が、そのベッドを挟み、反対側に立った。
「いいかい? この人の顔を知っていたら…………私達にその人の事を教えてほしいんだ…………大丈夫かい? 少し落ち着いてからにする? 」
怖い印象のその警官は、とても優しいトーンの声をしていた。
いや、それよりも。
気になる言動が出て来た。
――………人………? ――
何故だろうか?
シーツの膨らみ具合からそれは、由紀にとって簡単に理解出来た筈だ。
しかし、何故だろうか。
由紀には『それ』が『人』だと。どうにも思えなかった。
由紀の表情を、一重瞼の警官は必至で窺っている。
でも、由紀は小さく頷く。なんの躊躇いも無しに。
そして、彼はゆっくりと手に持ったそれを引き始めた。
ゆっくりと、隠れていたそれの顔が姿を見せる。
――なんだろう――
由紀の心臓が………不規則な波形を………象る。
最初その顔を見た時。
――誰だろう? ――と、由紀は感じた。
よく、テレビドラマ等では、死体を見たその者の親類が泣き叫んだりするシーンがある。が。現実では一瞬でそれを判断する事はとても難しい事だというのが、経験者の意見だ。
人は死ぬと、体温を失う。心臓が止まり、血の循環が失われるからだ。
皮膚の明るみの元はほとんどが血液によるものである。それが無くなった後では、全くその表情の印象は違う。
そもそも………生きていた『彼』と、死んだ『彼』は
同一人物であっても、同じ人間。ではないのだ。
無い。
そこに、確かに感じれていた………
『それ』が無いのだ。
何処にも。
その場の空気が止まる。
警官達と、苑田は由紀の反応を必死で見守る。
その……知らない筈の男性の顔が。
角度や………蝋燭の火に照らされて………
由紀の何かが。
彼女に何かを叫んでいる。
それは慟哭だ。
悲しみと。恐怖と、困惑の。
思わず、耳を塞ぎその場に塞ぎ込んでしまう程の。
「え…………? 」
「お………と……さ……? 」
ぶるぶると、由紀の全身が震えた。
遥か遠くから、聴こえていたその慟哭が。
その声が。意味が。理由が。
由紀の中で、繋がっていく………!
「お父さん⁉ お父さん⁉ お父さん‼ お父さん‼ 」
そこに横たわる『もの』に、狂った様に由紀は飛びついた。
彼女からしてみれば、しがみついた様なものだ。
その意味が解った時、彼女の世界は裏返った。
天と地も、黒と白も。光と影も。
「! 」
傍に居た警官と、苑田が必死で由紀の両脇を抱え、それから引き離す。
「はなじでぇ‼ はなじでよおおおおぉぉ‼
お父さん‼ おとおおおおさあああああああああああああん‼ 」
見る見るうちに、由紀の顔が。まるで別人の様に歪み、涙で濡れる。
それは、もう何かが壊れた如く、溢れ続ける。
「苫米地さん………‼ 」
苑田の掴む腕を、由紀は引き千切らんとばかりに爪を立てた。
スーツの下から、彼の皮膚は血を滲ませたが。
「おどうさあああああああぁああぁああああああああん‼
いやだあぁああああああああ‼ なんでえええぇぇええええぇ⁉ 」
どんな、刃物よりも。
その悲痛な泣き声は、その場に居た彼らを切り刻んでいく。
誰もが、その痛みに……歯を食いしばって……いた
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