第二十一手 うちの兄ちゃん

「はぁ‼ はぁ‼ 」荒ただしい息遣いと「カンカンカン」と重い音が、固い靴底を通してその廊下に響く。

「ダァン」と、大きな音をたてて、戸が開くと、中に居た者達が一斉にその方向に振り向く。

 そこには汗まみれの男性が立っていた。スーツにネクタイ姿のまま。正に、突然の事だったというのが解る様子だった。

 その男性は、息を整えるのも忘れ、切れた息のまま、その場で唯一顔を知っていた少女のもとに駆け寄った。


「由紀‼ 」

 いつも、大人しくも、名を呼べば笑顔を向けてくれたその少女は、その声に一切の反応を見せる事も無く、唯々その瞳は遠く、虚空を見つめ続けている。


「苫米地さんのご親族さんですか? 」

 警官の男にそう声を掛けられて、ようやっと、彼。建は我に返った様に冷静さを取り戻した。

「え? あ、は、はい。それで……兄貴は……? 」

 警官は頷くと、少し離れたその者が横たわっているそこへ彼を誘う。

 丁度、その時だろうか。苑田の胸から明るい電子音がその場に響き、場の空気を止めてしまった。


「学校から……? ごめん、苫米地さん。少し離れるよ? 大丈夫? 」

 しかし、彼女から反応はやはりない。

 苑田は、近くに居た婦警に目を向けると、婦警は頷き、由紀に近付く。それに合わせて、苑田は退室した。




「……間違いないです……兄貴……です」

 一気に青白くなった顔色のまま、建は吐き気を抑える様に、口に手を当てた。


「そうですか。ご協力ありがとうございます」

 そう言うと、その警官は、後ろの警官から何かを受け取る。

「ご遺体の近くに置いてありました。娘さん当てと、ご家族当ての物、二つ発見しましたので、お渡ししておきます」

 渡された変哲のない茶封筒。そこに、見覚えのある字を確認した時、思わず建の膝が笑う。


 次に戸が開いた時、慌てた様子の壮年男性が姿を見せた。

 その男、苑田は、そのまま建に近付くと頭を下げた。


「すいません、私、苫米地さんのクラスの副担任の苑田。と申します。

 大変、ご失礼なのですが、学校の方でトラブルがあった様で……

 すぐに、戻らねばならなくなりまして……」

 建は、慌ててその大きな体を折り曲げた。


「ああ……すいません‼ 由紀を連れて来て下さって、そのまま傍に居て下さったんですよね? 後は、私が由紀に付いておきますので。どうぞ、お仕事に戻られて下さい」

 苑田は、その言葉に申し訳なさそうな表情で頭を下げると、放心状態の由紀の肩を励ます様に2度、3度と叩いた。



 

 建が由紀に近付くと、傍に居た婦警がその場を離れる。

「由紀。これ……兄貴……お前の……パパから」

 由紀の手に掴ませる様に『由紀へ』と書かれた茶封筒をそこに手渡す。

 だが「ぱさり」と、なんの引っかかりにも掛からず、それは地に落ちる。


「由紀……」

 建は何も言わず、拾い直すと、今度は落ちぬ様、由紀の学生服のポケットにそれを入れた。


「おっちゃん、今から兄貴が首吊った所に行って、お巡りさんらと一緒に掃除してよう思ようるんじゃが……由紀はどうする? 」


 周囲の警官がその発言に「ギョ」としたが、建には確かな理由があった。

 一つに、彼自身が今この現実を受け入れる事が出来ていないという事だ。まるで、突如夢の世界に落とされた様な感覚。

 己が両脚が、地を浮いている様な、奇妙なその感覚を拭う為、その厳しい現実を目の当たりにする事を、彼は選択したのだ。

 それを、由紀にも提案したのは、恐らくは彼女にとっても、今それが必要だと判断した為だ。

 だが、由紀は微動だにしない。少しの間それを見守ると、建は彼女の横に腰掛けた。

 そして、彼女の表情を窺う。視線は相変わらず前を向いて、前を見ていない状態。今、由紀は現実に存在し、現実から逸脱している。

 余りにも痛々しいではないか。

 余りにも、不憫ではないか。


 建は心で嘆いた。

 何と、声を掛ければそれは届くのか。

 自分も、信じれない気持ちと、叫びたい衝動を忘れる程の。

 それは、願いだ。

 ちっぽけな。しかし、余りにもその答えが程遠い。


「由紀。おっちゃんは、行くな? 」

 建は立ち上がると、泣き出しそうな顔で由紀を見た。

 由紀は、対照にその表情は、何も宿らない。

 せめて、由紀が泣いていれば。建も少しは救われたかもしれない。この痛みを和らげる事が出来たのかもしれない。


 ――なぁ、兄貴。由紀は本当大人しいなぁ、全然泣かんが。

 赤ちゃんってのは、もっと泣くもんなんじゃなぁんか? ――


 ――解ってなぁのぉ……由紀ちゃんはな? ――


 現場では、数名の警官が、現場を検証し、また遺体から出た汚れ等を隈なく掃除していた。

「手伝いますわ」

 建の様に、自殺者の家族がその作業を手伝う事は、そう珍しい事ではない。警官の一人が何も言わずに頷くと、ビニール袋と手袋を彼に手渡す。


「この方は、とても、他人ひとに気を遣う方だったんですね? 」

 ある警官に言われて建は「何故ですか? 」と思わず聞き返してしまった。


「いえ、自分の後の事を考えて、下にビニールを敷いておられたんですよ。片付ける我々に手間が掛からぬように――と、配慮をされたんだと思います。ですから、そう思ったんですよ」


 その言葉を聞き、ようやっと建は溢れだす涙に、正直に答えた。

 ――そうなんです。うちの兄ちゃんは。

   とっても、優しい人でした――


 信じたくなかったその解答は。

 自分が知っている、その人と、間違いなく同じ行動をとっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る