第十八手 ――何を掴んだの?
――なんで、教師になろうと思ったんだっけ? ――
目が覚めた先の白の天井をボーっと眺めながら、その日の朝にそう思ったのは。どうしてだろうか?
紀藤はベッドから起き上がると、洗面所に向かう先で、母とすれ違った。
「どうしたの? 朝から随分思いつめた様な顔ね? 」
それは、生まれてからずっと一緒に過ごした者だからこそ、すぐに分かった事。
「ううん。大丈夫。ありがとうお母さん。」
本当の事を言うには、あまりにも事情を長く話さなければならなくなる。
それ以上に、大人……社会人として。親に頼る。という事を彼女は拒否した。
紀藤は鏡で己の顔を見る。
――酷い顔――
この最近、上手く眠れない。その理由も明らかだ。
――逃げ出したい……――
その気持ちに気付くと、彼女は頭痛を起こす程首を振るった。
――馬鹿………バカバカバカ……私は、何を考えているんだ……
今日を逃したら、明日からは学校が休日になる……――
背筋が伸びる程の冷水を顔に浴びせ、彼女は引き締めた表情で鏡の己を見た。
――大丈夫……! 私のクラスの子は……皆本当にいい子だわ………
すぐに………そう……きっと話せば……解ってくれる‼ ――
瞳が合った鏡の向こうの相手は……それを肯定する様に微笑んでいた。
――――――
誰よりも早く職員室に向かうと、彼女は掃除を始めた。家に居ても落ち着かない為、朝食も口にせず、来てしまった。
身体を動かしていると、思いを忘れて、時間が過ぎるのも早い。
次々と同僚が姿を見せ、同期の教員が掃除を手伝ってくれる。
「さて………」暫くすると、同僚の一人が『手仕舞い』という風に雑巾をパタパタと靡かせた。
「あ………すいません。あと、そこの机……まだなんです……」
紀藤のその言葉と共に、視線の先の机を同僚達が見た。そこは、机の上に隙間が見えない程プリントやら資料で埋め尽くされている。何やら使用済みのちり紙なども、転がっており。端的に言うと『ゴミ溜め』の様であった。
「汚ぇなぁ……ここ、誰の机だよ。」男性の同僚が、眉を顰めて言うと、隣の女性が答える。
「生物の
その言葉に更に先の同僚は、眉間の皺をより深く刻む。
「ああ。じゃあ、自分で片付けてもらっていいんじゃね? 」と言いつつも、もう足は完全に自分の机の方に向かっていた。
それを見て、皆掃除を終了する。
何を思うでもなく。紀藤もそれに倣って、掃除道具の片付けを始めた。
「あ。」
丁度、その正面に、小太りで自分と同じくらいの年齢の男性教員が向かっていた。
「お、おはようございます、足立先生。」
しかし、彼は黒光りした重い前髪から、意も言えぬ視線を送るだけだった。
「ひゃ~、足立、相変わらずキモいですな~。」
席に着いた時、友人でもある同僚の女性教師が、顔を近づけて言う。
「そもそも、若手教師の行事とかも一人だけ参加せんし。んで、あんな態度だと、頭きちゃうよね。皆辞めてほしいって、思っちゃうよね。
…………?
紀藤先生? 聞いてる? 」
不意に、自分の名前が呼ばれたので、解りやすく彼女は肩を揺らした。
「………ご。ごめんなさい………何の話だっけ? 」
「………もういい。」
そう言うと、隣席の同僚は、視界を正面に戻してしまった。
悪い事をした。と思ったが、紀藤はすぐに思考を切り替えた。
そして、すぐに、離れた席に居た初老の男性の元に行く。
「
紀藤のその声に、苑田と呼ばれたその清潔そうな、綺麗な背広を着た歳の割には随分と細身な男性が顔を挙げた。
「紀藤先生。如何されたんですか? 」
苑田は、紀藤のクラスの副担任だ。しかし実質は担任である紀藤をサポートする為に副担任になっているベテランの教員である。紀藤も、いや紀藤だけでなく、若手の教員は決して少なくなく、彼に仕事の悩みを打ち明けている、信頼される上司だ。
「本日、一時限目の道徳の時間を、私に譲っていただけませんか? 」
その言葉に、彼は静かに、そして唸る様に頷いた。
「それは、例の………苫米地さんの件ですね? 」
言葉を全て聞くまでもなく理解したのは、やはり、経験値の賜物か。
「解りました。勿論、構いませんよ。私も
そう言うと、紀藤は懐かしい笑顔を向けられる。
何を隠そう、この苑田は紀藤の学生時代の恩師でもある。
その笑顔で、紀藤の心中に決意に近い、勇気がそっと灯る。
一時限目開始のチャイムが鳴ると、紀藤は教室を見渡した。そして、息を一度大きく吸い込むと意を決した様に言い放った。
「一時限目の道徳の授業を変更して、今日は皆とお話ししたい事が有ります! 」
そして、その言葉の後。教室を包む静寂の中。彼女は不安そうに、狼狽えている一人の少女を見据えた。
「このクラスで、見過ごしておけない問題が発生しています。」
その言葉で、クラスの空気がただの静寂から不穏なざわめきを生み出していく。
「今日はその事で、皆と話し合いの場を持ちたくて、苑田先生に授業を代わって頂きました。」
教室中がはっきりとざわめく。
気付くと、由紀が何かを訴える様な視線を送っていた。
――大丈夫。この話が終れば、苫米地さん。貴女には普通の学園生活が待っている! ――
「このクラスで、ある子が非常に思いやりに欠けた行動を受けています。
この度、先生はその事をある人から聞き、そして知りました。
とても。
とても、残念でした。」
そこで、言葉を区切ると、紀藤は教室を見渡し、視線を一瞬地面に外し、深く息を吸った。
「苫米地さんを、いじめていた人達は、正直に名乗り出なさい。
そして、今日、苫米地さんに今までの行為を謝って。
この問題を、終わりにしましょう! 」
力強い。
それは、まるで紀藤の願いと祈り。そして、教師としての信念と。人としての道徳が、形となって現れたかのようで。
それは、時間にしては僅かだった。
重苦しい教室の空気と。その中の何人かの生徒は『クラスメイトをいじめていた』という事実を思い出した罪悪感とで、押し潰されそうになっていたからだ。
そんな中、一人の女子生徒が立ち上がった。
クラス中の視線がその女子生徒に集まり、そして紀藤は眉を引き締め、彼女を見据える。
「どうしたの………? 遠藤さん………」
派手な化粧と、着くずした制服の女子生徒。
由紀から『主犯』と聞かされていた、その少女、遠藤は。
紀藤の言葉で、にっこりと微笑みを浮かべて見せた。
「せんせー、一体どうしたんですかぁ? 突然。そんなことぉ。
苫米地さんが、クラスでいじめられてる?
そんな事、ないですよ。紀藤クラスは、皆仲良しですもん。」
今、この時、この教室内で。
最も似つかわしくない、おっとりとした、そのトーンの言葉に。
多くの者は、不気味さを隠せず、思わず身震いする。
「遠藤さん…………残念ですが………
先生は、もう、この問題の証拠も見ているの。」
その言葉に、間髪入れず言い返す。
「でも、せんせーさっき『ある人に聞いた』って、言いましたよね~?
って事は、苫米地さんがいじめられてるって、その人が勝手に言ってる事かもしれませんよ。その証拠ってのも、その人の用意した物だったら、本当の事か解りませんよね? 」
まるで、きゃぴきゃぴとした、無邪気な様子だが、その瞳は、真直ぐに自分を見ている。紀藤は、こめかみに嫌な汗を流した。
「苫米地さんの教科書です。
彼女の教科書は、中の文章が読めない位、誹謗中傷の落書きで埋め尽くされていました。」
その返しに、今度は遠藤はケタケタと、声を挙げて笑った。
その様子。何人もの生徒が息を呑む程に、異質であった。
「そんなもの。やったのがクラスの人だなんて、解らないじゃないですか~
むしろ、部外者がやった可能性の方が高いですよ。」
「どうやって? 」
質問の言葉に随分な余裕があった為、遠藤は少し怯んだ。が、すぐに態勢を整えると、言い返した。
「どうやってって………放課後に? 忍び込んで? 」
「苫米地さんは毎日教科書を持って帰っているわ。」
「じゃあ、体育の時間とか。教室を離れた時に。」
紀藤は、気付かれない様に息を吐いた。
「皆が授業で出ている時に? わざわざこの教室の。苫米地さんの机の、苫米地さんの教科書を狙って? 難しい話だわ。」
遠藤は、一瞬表情を強張らせたが、すぐに再度発する。
「そっかな~? 結構うちのクラスって、よそのクラスの子入ってくるよね。ご飯の時とか。ねぇ、高橋さん? 」
「え⁉ 」
突然話に入れられた事で、クラスの女子で一番学業の成績のいい高橋は思わず、驚きの声を挙げた。
何故自分が。と思ったがすぐに理解した。
遠藤は、少しでも自分の発言力を高める為に同調者を得ようとしているのだ。そして、小学校の頃から遠藤を知っている高橋は、しばしこの言葉の裏を思考した。
――話を合わせろ――
間違いなく、そういう意味合いだと読み取る。
歯向かえば………火を見るよりも明らかだ………
「は………はい…………頻回に別のクラスの生徒が入っているのを………私も見た事が有ります。」
眼鏡の奥の瞳が揺れる。
なるべく動揺を隠す様に言った言葉だが、語尾が若干震えていた。
高橋の視線と紀藤の視線が重なった。
思わず高橋は、横に視線を反らす。
そこには、俯き、今にも泣きだしそうな由紀の席が見える。
由紀と高橋は少しだけつながりがあった。
親しい間柄に関係が移った事は無いが、同じ小学校であったし、隣のクラスだった時はそう言えば、高木が六年生の女子に呼ばれる時の伝言役を頼まれた。
途端。高橋の胸に言葉に表せない気持ち悪さと、痛みと。そして異質なリズムの動悸が起こる。
高橋が巻き込まれた事を目の当たりにした教室の生徒達は、皆自分も巻き込まれるのではないかという不安で、視線を落としてただただ、時が過ぎるのを待っていた。
その異様な教室の様子に穴を開けたのは廊下から聞こえてくる。
まるで、壁を壊すかの様な激しい音だった。
「苫米地‼ 苫米地さん‼ 」
その音が足音だと判明したのは、引き戸を思いっきり開けた苑田の顔が、汗でびしょびしょにまみれていたからだ。
「苑田先生? 」
何事かと近づく紀藤を、苑田は片手で制する。
「すいません。今は説明している時間がありません。
苫米地さん‼ すぐに、私と一緒に来て下さい‼ 」
狼狽えている由紀の近くまで、苑田は早歩きで近付くと、やや乱暴に彼女を立たせる。
「ごめんね。苫米地さん………でも、大変な事が起きているかもしれないんだ。だから、すぐに行こう。」
何事が起きているのか理解は出来なかったが、その目はとても重要な事が起きている事を語っていた。
由紀は頷くでもなく、苑田に手を引かれ、教室を後にした。
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