第十七手 伸ばした手は――
「いじ…………め? 由紀が? 」
転校について、詳しい話を聞いた後、重苦しそうに紀藤の言った言葉を聞いた彼は、思わず持っていたコーヒーカップを落としそうになった。
その反応に、若干、顎を引き、紀藤は申し訳なさそうな表情で応える。
「はい。由紀さんから強く、口止めをされていますので、彼女には言ってほしくないのですが、保護者の方にご報告しない訳にはいきませんでしたので………
本当は、もう少し、早くご報告するべきだったのですが、私も現在、いじめている生徒を把握している最中でして……それで……この度、転校の話まで出て来たので、私はつい。それが原因なのかと………」
しかし、由紀の父親にはその言葉が届いていない。
「何故…………
父親として、親バカと言われるかもしれませんが………
由紀は、いじめられるような性格ではないと……思います。
確かに、おとなしい面がありますが、女の子としては、そう珍しくないと……
そ、それに、家で少ない時間ながらも、毎日顔を合わせていたんですよ?
そんな様子は、一つも。」
その言葉に、紀藤は口を一文字に結んで「ごく」と唾を飲んだ。
「その………」
「非常に、申し上げにくいのですが………」
何故かは解らないが。
彼は、この光景を知っている気がした。
まるで、先が何故か見える。夢と気付いていない時の悪夢の様な感覚。
「いじめの原因は、由紀さんのご家庭の事情が絡んでいる様です。
そして………
由紀さんは、それをお父さんに知ってほしくなくて…………
一人で…………耐えていたのだと。私は認識しています。」
目の前の若い女性のその言葉で、一瞬彼は、地の位置を見失った気がした。
「俺に………由紀が……? 」
もう一度、目の前の女性は息を呑んだ。
「由紀さん…………とても、お父さん思いの娘さんです………
きっと、お母さんの事を――」
その言葉の途中で、テーブルが揺れる程の衝撃と大きな音が鳴る。
紀藤は、思わず、全身を強張らせた。
ハッと、彼は両手に走った痛みで我に返る。
「すいません。驚かせてしまって………」
それだけ言うと、彼はよろよろと、立ち上がる。
「と、苫米地さんっ‼ 」
慌てて、後を追おうとする、紀藤を彼は手で制した。
「すいません、今日は少し、気分が優れないので………申し訳ありませんが、後日……詳しくお聞きかせ下さい……」
紀藤は、その冷たい視線に、絶句し立ち尽くした。
そして、その頼りない足取りで喫茶店を後にする彼の姿が、人混みに消えていくのをじっと見つめていた。
夕方前。
その部屋に居たのは、部屋の主ではない。
彼は、ゆっくりと、そこに綺麗に整えられていた教科書を見ていた。
教科書のページに、雨粒の様に、水滴が落ちる。
『死ね』
『不倫女に棄てられた娘』
ここまで。
ここまで、子どもとは残酷になれるのだろうか。
そして。
あの、弱気な娘に。
この現状を。
我慢させていたのは………
――あの件で、皆お前に気をつこうて仕事にならんのじゃ
――由紀さんは……お父さんに知ってほしくなくて……
一人で耐えてたのだと思います
「ははは………
君の言う通りだった。
僕は……
僕は、君の気持ちはおろか。
娘一人の苦しみさえ、読み取ってやれない。駄目な父親じゃないか。
何が、由紀が居なけりゃだ。
何が、頑張る理由だ。
僕が頼りないから。由紀にすら気を遣わせて………
いや………
由紀…………君は…………君は……僕を…………」
まるで、演劇の練習の様に、彼は誰かに聞かすかのように、その独り言を続けていた。
やがて、部屋が暗くなる頃。
ゆっくりと、その部屋を出て居間に向かった。
「あれ? 何処にいたの? お父さん。」
気付くと、目の前でエプロンを来た由紀が心配そうにこちらに振り向く。
「え……⁉ 」
慌てて時計を見ると、3時間以上経過していた。
その間に、由紀は帰宅して、もう夕食の支度に入っていたのだ。
「大丈夫? 引っ越しの事で少し疲れたんなら、お部屋で休んでてね? 」
そんな、自分にも、娘は普段と変わらない態度で接してくれる。
本当に、いじめなど受けているのかと、疑う程に。
途端、先の娘の部屋の光景がフラッシュバックして、
それを気付かれない様、両手で口を塞ぎながら、彼は彼女の後姿を見つめていた。
――そうか………由紀………君は……僕を………
『哀れんでいた』んだね…………――
彼は音もなく立ち上がると、愛しき我が娘の背後へと近づく。
由紀はそれに気付かない。まな板の野菜に、集中して包丁を落していた。
やがて、手の届く位置まで着くと、彼は両手を由紀の首の位置に合わせた。
その狂気から正気を取り戻したのは、間もなくの事である。
――この匂い………――
鼻腔に舞入るその芳香は。
彼の瞳に映る愛娘に、重なる人影を、象る。
「わっ‼ びっくりしたぁ‼ お父さん、何で、何も言わずに後ろに立ってるの? 」
何気に振り向いた由紀が、背後の彼に気付き思わず飛び上がりそうに、その身を伸ばした。
「え………あ………ああ。」
先の自分の物とは思えなかった思考を、否定する様に、両手をすぐに後ろへと隠した。
「なに? 手伝ってくれるの? 」
そう言って、微笑む由紀の顔を見た時、思わず瞳の奥が焼ける様に熱くなる。
「ああ………何をすればいい? 」
――ボクハ、ナニヲスレバイイ? ――
辺りは、すっかりと寝静まる深夜の刻。居間の灯りも点けず、彼は、昼間に見つけた思い出の頁を見つめていた。
楽しき記憶は。思い出という封の心の中に………
この後、彼が考え、起こした行動は。
あまりにも、身勝手で。
あまりにも、無責任で。
あまりにも。
「? お父さん? 」
いつも通りの時間。
朝食と、昼食の弁当を作る為、起きてきた由紀がそう尋ねたのは、居間のテーブルに物が置いてあったからだ。
彼女はそこに近付くと思わず笑みが漏れた。
同時に胸の奥が凍った様な痛みを帯びたのは。それが、もう二度と戻らぬ時を司っていた事を知っていたから。
――お父さん………昨晩、ご飯の後、これを見てたのかな? ――
そう思った時には、もうそれを閉じてなるべく視界に入れない様にしていた。
それは、先に得た現実への理解を。
もし。
もし、願えば。
取り戻す方法が見つかるのではないか?
と。
僅かでも考えてしまったその思考を切り離す為だ。
――今日、何か朝から予定があったのかな? ――
部屋にも父親が居ない事を確認した彼女は、そう思った。
そして、それを不思議には思ったが、時間を見て、普段の行動を再開した。
だって。
この時は、まだ。
今日が彼女の中では『日常』だったのだから。
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