第十六手 アルバムの向こうには
「行ってくるね。お父さん。」
由紀が振り返ると、父親は小さく手を振った。
あれだけ、せわしなく仕事に勤しんでいたのに、今後は、異動による時間調節の為、殆どが昼から夕方の僅かな出勤となっていた。その為、彼は今日も由紀を見送る。
だが、出勤したとしても、行うのは引継ぎの社員への申し送り位だ。
引っ越し等の重大事への配慮とも言える。
しかし、何となく今日は、その重大事に関わる気が起きない。
いや、今日だけではない。
彼の胸には、まだ信じたくない事実。として、あの日の上司の言葉がどこかに引っかかったままになっていたのだ。
――さて…………偶には家事でも手伝っておくか――
と、思っても何から手をつけたらいいのか解らない。
仕方なく、彼は自分でも出来る事を考える事にした。
――掃除………くらいかなぁ――
居間は、娘である由紀の行き届いた管理のおかげで、スッキリと片付いている。すぐ横に立てかけられた掃除機があるが、床の埃も特には見当たらない為使用の必要は無さそうだ。
と、なると。
――自分の部屋くらいかぁ………――
と、普段眠る事にしか使っていなかった為か。
彼は、初めてしっかりと自分の部屋を外光から照らされているのを見た。
――何だ。思ったよりも散らかってないな。――
それでもおかしい。着た服とか、気を付けてはいるが、少しはその辺に投げていた筈だ。と思った所で、心の中にある顔が浮かぶ。
――由紀………か。――
本当に我が娘ながら、感心する。
自分が彼女と同じ年齢。13歳の頃なんか、友人と遊んだり、読書に図書館に入り浸ったりして、自分の事以外等、考えてもいなかった事だ。
彼女は、本当に13歳を満喫出来ているのだろうか?
そう思った時に、ズキンと頭と胸が痛んだ。
――あの事で、皆もお前に気をつこうて、仕事にならんのじゃ
――由紀……も……僕のせいで………無理………してる……よな………――
本棚の前に立つと、一冊の厚い本を手に取る。
ふっ……と、幾つかの埃が宙を舞った。
くしゃみを堪えながら、表紙を捲った。
この家に来てから、一度も開かなかったその本は。
「懐かしいな………」
振り返るのが辛く、仕事の忙しさに立てかけて、ずっと閉まっていた、思い出の集本。
彼は、ベッドに腰掛けて、ゆっくりと、そのページを眺める。
――由紀………――
中盤頃から、若い男女の写真から、赤子の娘の写真が多くなる。
――そうさ、君は小さな頃、甘えん坊だった。
なのに、涙を本当に信頼した人以外には見せない、ママの頑固さもしっかりと持っていたね……――
時間を忘れて、思い出に更けてしまった様だ。最後のページを捲った時には、朝食を摂った筈の腹が空腹を伝えてくる時間となっていた。
――何か、食いに出るか……――
そう思い、立ち上がった時、最後に挟まっていた写真がひらひらと、秋を告げる落葉の様に床に落ちる。
彼は、腰を屈んでそれを拾った。
そして、その裏に、写っていた人物を見て、思わず微笑んだ。
………そこで、彼は頭を一旦切り替える事にした。
――由紀の、転校の手続きとかもあるし………のんびりとしている暇なんてないな……そういえば、まだ今の学校に報告もまだだった………――
昼食の前に、済ませようと彼は、すぐに由紀の学校に連絡を入れる。
最初の受付に名を告げると、間もなく担任教員に繋げてくれた。
「引っ越し……ですか⁉ 」
驚かれるとは、思っていたが、受話器の向こうの女性はちょっと大袈裟な程、反応していた。
「…………あの……苫米地さん………それは、本当に『お仕事の都合』なのですか? 」
そして、唐突にそんな事を言われたので、彼も言葉を失う。
「どういう意味でしょうか? 」
その返答に、彼女の声がしどろもどろになる。
「いえ………その……………もし、お時間がよろしかったら、午後は、私の授業が無いので、少しお会いしてお話出来ませんか? 」
一瞬、何故? と疑問を抱いたが、転校手続きの事を詳しく聞くのに、確かに電話では不都合だ。と思い、彼は2時に、学校近くの喫茶店で会う約束をした。
――――
「退職ですって? 」
受話器の向こうで、大下は驚きを表に出さぬ様、冷静な口調で尋ねる。
「ええ。苫米地は、当社から退職する事になりましたので、もう当社には、関係は御座いません………その為、詳細などはお伝えする事がもう出来ません………」
「本当に…………ご退職を? 」
その言葉に、相手の男は少し間を空けた。
「はい? 仰られる意味がよく、理解致しかねます。
間違いなく、苫米地は当社を退職いたしました。
これ以上の事はもう、関係者以外には、お伝え出来ません。」
「そうですか、解りました。」
そう言って、粗ただしく閉話ボタンを押した。
「どうだった? 大下。」
ぎくり。と、そのスマートな肩が揺れる。
背後から、優雅に近づいてきた古葉は、表情には何も出さずに、キセルに火をくべた。
「も、もう少々、時間が必要なようでして……」
「ふぅー」とその言葉に、まるで返答の様に、キセルの吐気が周囲に漂う。
「珍しい。お前が、手間取るとは。」
「も、申し訳御座いません。」
もう一度、二人を隠す様に、キセルの吐気が包む。
「謝るな。
大下。お前は、俺が信頼する、数少ない他人だ。気に止む事はないし。
お前が失敗る事など、考えていない。」
そう言うと、古葉は老紳士の肩を、優しく、一度、二度。と叩き、すれ違う様に離れていった。
――そ、そうだ‼ 私は、あの日に誓ったんだ。
この今の地位と権利を得る事が出来た。そのきっかけを与えて下さった
古葉清澄という、男に。
全てを捧げ、崇拝すると………‼ ――
大下は、すぐに携帯を掛け直すと、次々に興信所、市役所の顔が利く者へ、連絡を入れる。
「そうだ。名は、苫米地由紀。その名で住民票を切り替える者が居たら、すぐに連絡を入れてくれ。礼は出来る限りさせて頂く。」
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