第十一手 大力

 「いやぁ~助かったよ。苫米地。おかげで商談がまとまりそうだ。」


 そう言って、肌寒い風が吹いているのに、その肥えて禿げた中年男性はハンカチで汗を拭っていた。


 「いえ。課長がわざわざ赴いて下さったおかげです。」

 そう年齢が変わらない相手なのに、由紀の父親はにこやかに微笑み、そう返した。


 「俺が出世したら、後釜の課長には、お前を推すよ。

 いや………

 俺なんかが推さないでも……お前の頑張りは上にも伝わっているだろう……

 本当にお前の仕事に対する姿勢には頭が下がるな。

 どうだ? 昼飯、蕎麦でよければ、奢らせてもらうよ? 」

 


 「………では? ご厚意に甘えさせて頂きます……」

 そうして、歩き始めた直後だった。

 上司の携帯が賑やかな電子音を奏でる。


 「はい…………は?

 ええ。今、外に契約を取りに………

 はい。ええ‼ そ、そうです‼ 苫米地と一緒です!

 ……………はぁ?

 は、はい。畏まりました。」


 

 何やら、不穏な様子の着信だった。由紀の父親は上司の様子を伺う。すると、彼はすぐに申し訳なさそうに、振り返った。


 「すまん。苫米地。

 何やら、会社にすぐに戻れって、電話じゃったわ。

 悪いけど、わしは先に戻るから。

 お前、飯ゆっくり食ってから、戻れや。ほれ。」


 そう言うと、5000円札を差し出した。由紀の父親は慌てて手を横に振り、それを遠慮する。


 「い、いえ‼ そう言う事でしたら、私も会社に戻りますので。」


 すると、上司の男は笑ってその手に金を握らせる。


 「今日の仕事は、充分すぎる程の成果じゃ。

 苫米地。偶には、ゆっくり美味いもん食って、英気を養えや。」


 そう言って、肩を優しく叩くと、上司はタクシーを止めて、その場を去った。


 ――美味い物か………

 いや。そう言えば、最近、由紀に物も買ってやれてなかったな。

 食い物は、この間、建が持って来てくれたし………

 何か、女の子が喜びそうな物でも、買って帰るか……――


 目を閉じると、愛しい娘の喜ぶ顔が瞼の裏に浮かぶ。



 

 ――――――



 「ど…………どういう事ですか‼ 人事部長⁉

 なんじゃあって、いきなりそんな話になるんですか⁉ 」


 先程の由紀の父親と営業に行っていた上司の男が、思わず声を荒げてしまった。


 彼が居る場所は、社長用の応接室。会社関係者でも上の者しか入る事すら許されない部屋。

 

 「こちらとて、全く解らんよ。

 突然すぎる事でな。

 むしろ、あの会社が、何故うちのいっかしの営業社員に対して………」


 眉を顰めて、茶を啜り、人事部長と呼ばれた、白髪の男がそう言う。


 「仕方が無かろう。

 理由は全く解らんし、意味も知らん。

 だが、うちの様な地元の中小企業が逆らえる相手ではないんだ。

 解ってくれ。

 呑めんのんなら、君にも出て行ってもらうしかないんだよ。」



 暫く、睨み合っていた二人に終止符を打つように、少し離れた一人掛け用ソファに腰掛けていた壮年の男性が立ち上がると、由紀の父親の上司に、まるで挨拶の様な口調でそう言った。


 その言葉に彼は、顔に一層汗を滲ませ、歯を食いしばった。


 何故なら、その言葉の重みはあまりにも大きいからだ。

 「社長…………

 いえ………解りました………苫米地には………わしから伝えます……」






―――――



 「プップー」

 そのクラクションの音に、由紀の父親は振り返った。

 「あ………」

 その先には、高級外車の傍で、上品な老紳士がこちらに帽子を振っている。


 「お、大下社長。」頭を下げると、彼は大股で、その老紳士に向かう。



 「東京に戻る事になりましてね。

 最後のご挨拶に伺いました………

 それで…………

 どうですかな?

 お気持ちは変わりませんか? 」

 

 優しそうに微笑むその老紳士に、どう返事を返せばいいのか。彼は、暫し地面からその言葉を探した。


 「………すいません………

 やはり、私自身が………娘と一緒に居たいんです。」


 「ふーっ」

 その言葉に呼応するように、老紳士は大きく溜息を吐く。


 ――愚か者め――


 「そうですか………

 しかし、気持ちは変わるものです。

 例えば…………

 例えば、お父様のお仕事に何か変化が生じたり。

 予期せぬ事が起きたりした時は………

 一切ご遠慮なさらずに、お渡しした名刺の番号にご連絡下さい。

 いつまでも、私達は、由紀様をお待ちしておりますので……」



 我が娘に対して、そこまでの熱意。

 思わず由紀の父親の愛想笑いが引き攣った。


 「では。」

 そう、短く言葉を切ると、大下は車に乗り込み、車道へと戻っていった。

 その車が見えなくなるまで、彼は頭を下げ続けていた。それは、謝罪の意味もあった。

 彼の熱意を感じてもなお、娘を手放したくないという。父親として……人としての自我。



 ―――――



 「信じられない…………それは、本当の事なの? 」

 生徒指導室で、机を挟み、長谷川と紀藤が向き合っている。



 「本当です。今日に至っては、私の目の前で同級生と思われる男女に、ボールを投げられて怪我を負っています。

 どう控えめに見ても、あれはいじめです。

 クラスでの彼女の様子はどうなんですか? 」



 その言葉に、すぐには返さず、紀藤は口元に手を当て、必死で由紀のこれまでの様子を思い返していた。


 ――教科書………出さなかったんじゃなくて………出せなかった……? ――


 「先生⁉ 聞いてますか? 」

 

 長谷川の必死な声に、紀藤は頭を抱えた。


 「確かに………その傾向は………あったかも………

 でも………私のクラスの子達は、皆………いい子で………

 そんな………」


 そのもどかしい態度に、長谷川は語尾を強めた。


 「由紀ちゃんも、先生の生徒じゃないんですか⁉

 今、はっきりとしているのは、由紀ちゃんがいじめられてるって事でしょう⁉ 」

 その強い言葉を正面から受け止めつつ、紀藤は辛そうに表情を歪めた。


 「あなたを疑う訳じゃない。

 苫米地さんの様子………

 あなたの言っている事で、確かに辻褄の合う部分もある……」


 長谷川が「じゃあ、なんで? 」と話の腰を折る。


 紀藤は、しっかりと長谷川の長い付け睫毛越しに視線を重ねる。


 「苫米地さんから、はっきりと言ってもらわないと、いじめと特定出来ないの。そして、長谷川さん………あなたが見た生徒達がうちのクラスの子かどうかも、確定している訳じゃない………」


 その返事に、長谷川は苛立ちを強める。


 「何ですか⁉ じゃあ、由紀ちゃんはこのままですか⁉ 」


 「落ち着いて。長谷川さん…………

 もちろん、苫米地さんに詳しい状況を確認して、

 そういった行為が本当にあれば、教師として私が必ず解決します。

 ただね?

 こちらも、確証を持たないと、動く事は出来ないの………」



 真剣なその眼差しの意味を読み取り、長谷川もジッとその視線を受け止める。

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