第十手 攻撃

 「はっはっ。」


 廊下を走ってはいけない。それは、小学生時より承知の上だったが、由紀はその事をふまえた上で駆けていた。


 本日。五時限目の授業は、英語。

 前回の授業で「次回の授業は資料を多めに用意しますので、日直は授業の前に取りに来て下さい」と担当教師が言っていたのを思い出したのは、五時限目のチャイムが開始しても、教師が教室に姿を見せなかったからだ。


 まさか、自分が日直の時に当たるなんて。

 由紀は、そう恨み節を思いながら、職員室に急いだ。


 最後の階段を降りようとした時、丁度昇ってくる英語教師の姿が見えた。


 「あっ‼ 」

 由紀の声に、彼も顔を挙げる。


 「…………貴女が、今日の日直さんですか?

 私は、ちゃんと先日の授業の終わりの時に言ったはずですが? 」

 淡々と話しながら、彼は由紀の横を抜けていく。

 慌ててその後を追う。


 「す、すみませんっ!

 ……………あの………資料運ぶの、手伝います。」

 しかし、英語教師は、振り向く事も無く、階段を登り続ける。

 「いえ、本日は予定を変更して、小テストを行う事にしましたので、もう結構ですよ。

 次は、忘れない様に気をつけて下さいね? 」











 放課後。

 長谷川は、今日は一人で。先日とは違う待ち人を乞うていた。

 下校する知り合いの生徒に「どうしたの? 」と尋ねられる度、愛想笑いを浮かべて、通り過ぎる生徒を見逃さない様、周囲に気を配る。


 その時だった。

 校門から少し離れた運動部の更衣室の裏に、とぼとぼと俯きながら歩く人影を視界に捉えたのは。


 ――以前だったら、きっと、もっと確証を持てただろうな。――

 長谷川は、近くでその人物を確かめるべく、早歩きで近付く。大腿部までの短いスカートがひらひらと散る花弁の様に揺れる。


 ――由紀ちゃんだ。――

 お互いの距離が縮まり、その者の顔がはっきりと見えた時だ。

 俯いている由紀の背後から、何かが飛んできたのは。


 「由紀ちゃん‼ 危ない‼ 」

 慌てて駆け寄る長谷川だったが、その叫びの間もなく、それは後頭部に直撃して、由紀は前のめりに倒れた。

 一瞬、何が飛んできたのか理解出来なかったが、由紀に衝突した時のゴムの響く音と、ポンポンと跳ねて転がるそれを確認して、それがゴム製のボールだと長谷川は確認した。


 由紀の傍に辿り着くと、肩を貸して、無事を確認する。前のめりに転んだ時に、両手と右頬を擦り剥いた様だ。じわりと、血が滲んでいたので、ハンカチを取り出し長谷川はそこに当てる。


 「クスクスクス……」

 由紀の少し背後から、その笑い声は聴こえた。

 長谷川は、その方を向くと、そこには数名の男女生徒がにこにこと、こちらを見ていた。

 

 「あんた達がやったの‼ 」

 長谷川のその言葉に、少し驚いたようだった。

 彼らはそそくさと校舎の方へと姿を消していく。


 「待ちなさい‼ …………? 」

 追いかけようとした時、長谷川は自分の袖が由紀に掴まれていた事を知った。


 「い……いいんです………クマちゃん……長谷川さん……」

 「いい? 」思わず、即座に彼女は聞き直してしまった。


 「何が、いいの? 由紀ちゃん? 今、女の子の由紀ちゃんが、明らかに男の子がわざと投げてきたボールに頭を狙われてたんだよ?

 こんなの、良い事じゃない。

 普通の事でもない。

 由紀ちゃん。今から私と職員室に行って、先生に話そう。私が言ってあげる。」


 由紀は、目を伏せたまま、その言葉の途中からずっと首を横に振っている。


 「ううん………これはしょうがないんです………私がドジだから……

 今日、日直の仕事を忘れて、皆に迷惑掛けちゃって……

 だから………

 仕方が無いんです……」


 「違う‼ 」

 由紀が、その返答に肩を揺らす。

 そして、初めて長谷川と瞳を交らわせた。


 「違う‼ だからって、あんな事されるのは間違ってる‼

 おかしい‼

 ……………

 由紀ちゃん…………

 悲しいと思うけど………これは、もう、先生に言って止めてもらう様に注意してもらわないと、絶対に終わらないよ……

 あの日も…………何か、あったんでしょ?

 だから……………トイレなんかで、一人で泣いてたんでしょ?

 話してよ………

 私を力にしてよ…………」


 由紀は、その言葉を聞くと、身体を起こし、手の中で血が付いたハンカチを見つめる。


 「………長谷川さん、ハンカチ。ありがとうございます。

 洗濯して、お返ししますので…………」


 そう言うと、逃げる様に、由紀は一礼して……長谷川の前を去った。



 「由紀ちゃん‼ 」追いかけようとしたが、それよりも由紀の反応がショックだった。

 長谷川は、その離れて小さくなっていく姿が、視界から消えるまで見ている事しか出来なかった。









 「苫米地由紀さんの、クラスの先生はいらっしゃいますか‼ 」

 この出来事の数分後。

 長谷川は、興奮を隠せない様子で職員室を訪れていた。

 

 「…………? わ、私がそうだけど……

 あなた………? 三年生?

 苫米地さんが、どうかしたの? 」


 一年担任の場所から、紀藤が作業を中断して、ゆっくりと近づいてきた。




 「お話、したい事があります‼

 今から、少しお時間頂けますか‼ 」


 その声は、職員室全体に響く程の大きさだった。

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