第三十四手 悪魔の取引
――こら、もう放っておいたら、
間違いなくキヨは、落とし前に始末されてまう……
やとしたら…………手は一つしか……――
そう、敬治が思考を凝らしていた時だった。
「ぎゃーわーーーわーーー」と、集落の方がまるで火事場の様な騒がしくなる。
「ひぃいい! 」清川は敬治の胸から跳び起きると、バスの後ろの席に隠れ、ガタガタと震える。
直後「ドガン」と、まるで岩石でもぶつかったのかと言う程の音と同時に、バスのドアが爆発でもしたかのように弾け飛んだ。
「おらぁああ! 清川‼ どこじゃあ! 」その怒号と同時に、見覚えのある男達が蟻の群れの如く、中に押し寄せてくる。
「どけ、敬治。清川がここに逃げたんわ、もう調べが付いとる。」
気づけば、敬治は、その先頭に居た痩せた狼の様な男……三郎の前に立っていた。
――手は、もうこれしかない…………! ――
「清川は、後ろに居ます。」
その言葉を聞くと「どけやぁ! 」と三郎は鬼の形相になり、敬治の肩を押す。逞しく成長した敬治の身体でも、その力には抗えず吹き飛ぶ。
「おらぁああ! 清川ぁあ! 見つけたど‼ わりゃ、こら‼
逃げて、どげな目にあうか、解っとんか、おどれこら‼ 」
清川の姿を捉えた三郎が、怒号を巻き上げ、清川の襟首を掴み、顔を起こさせる。
「ひいいいいいいいいいいいい! 」
恐怖に堪えきれず、情けない悲鳴が車内に響く。
「わいをッッッ‼ 」
「…………あぁ? 」
清川の首根っこを掴み、正に三郎が鉄拳を放とうとしたその時だった。
敬治のその大声に、三郎も状況を忘れ、敬治を見る。
その眼は、血走っており、さも御伽噺に出てくる物の怪であった。
「わいも………三吉兄さんのところに………連れてって下さい……」
「…………」三郎が、掴んでいた清川の襟を離すと、腰が抜けたのか、清川は椅子から転げ落ち、ズボンから湿った音を鳴らした。
「カシラのとこに行って、どうするつもりなんや………? 」
その睨みに、敬治の血の気がみるみる引いていった。しかし、ここで引っ込めてしまえば、清川が始末される。敬治は相手にその怯えを悟らせぬ様、はっきりと声をあげた。
「決まっとるやろ。」
「わいが、指して、その相手から敗け分、倍にして取り返したる。」
三郎は、その言葉に、溜息を吐き、目に手を当てて、首を振った。
「阿保か。もう、決着はついたんや。お蔭で、うちはそいつらに呑まれそうな事になっとる。下手したら戦争になるやろう……そんな状況で『もう一回』なんて、恥知らずな話。出来る訳無いやろうが。諦めぇや。」
――………ば、万事……休すか………――
敬治が、三郎のその言葉に、絶望を抱き、三郎が「おら立て」と清川を連れ出そうとしたその時だった。
「ホンマか、その話…………のう……敬治ぃ? 」
「‼ 」
「! 」
バスの中に、聞き覚えのある声。思わず、そこに居た者全員が息を呑んだ。
「お前なら、勝てるか? 」
バスの中に居た若い衆が、まるでモーゼの十戒の様に、端に身体が潰れる程押し付ける。
そこから、現れた影は、無論。ここではモーゼと同じ程の力の象徴である男。
「三吉兄さん………」
「敬治。無駄な話はしとうない。お前なら、勝てるっちゅうのはホンマやな? 」
ゆっくりとこちらに近付く三吉を見た途端、敬治は己の身体の異常に気付く。
――足が竦んで動けへん⁉ ――
敬治には、まるでその近付く影が大蛇に見えたのか。はたまた、人を食う凶か。
「
やがて、鼻がぶつかる程の距離で、最短距離で瞳を覗き込むようにして、三吉が確認をとる。
「…………やる…………そのかわり………」
三吉は、微動だに………瞬きすらせずに、敬治を睨むでもなく、無表情で覗き込んだままである。
「わぁっとるわ。お前が勝ったらキヨの事は……チャラ……や。」
敬治が、大きな鼻息を一度吐く。それを見ると、キョロっと一瞬だけ眼球を下に向けた三吉が続ける。
「せやが………負けたら………
お前とキヨだけの責任では済まんぞ………組は半壊状態になるやろう
…………
ここのガキ………全部銭に化けてもらう事になる………」
――⁉ ――
敬治の表情が明らかに変わった。
「当然やろう?
女は勿論。
男も肉体労働出来ん様なちっこいのは、
変態どもに売る事になるやろうな。
それでも………やるか?
キヨの為に………ここのガキ全員の命を賭けれるんか? 」
――‼ ――
思わず、嘔気をもよおし、両手で口を押えた。
止めて下さい。その言葉が、まるで胃袋の中身と一緒に溢れ出そうになる。
三吉は極道だ。やると言ったら必ずやる。懇願など言っても無駄だ。
敬治は、選択を迫られていた。
『こいつは、キヨって言う。中々将棋が強かったさかい。
わいの分まで稼いでもらお思うて、ミナミから拾ってきた。
こいつも………今日から、ここの仲間やで。』
敬治は、涙ぐんだ瞳で清川を見た。
「……………構いまへん……」
「サブッ! 向こう方の宿泊先に、連絡を入れぇ! 取れ次第‼ 向かうぞ! 」
敬治の返事を聴くと、それ以上は何も言わない。三吉が足早にバスから出て行くと、中に居た男達もそれに続いてその場を去っていく。
敬治は、尋常ない疲労感で、その場にへたり込んでしまう。
「馬鹿なガキやで。お前は、賢いと思うとったが、俺の見込み違いやったようやな………」そう、吐き捨てる様に言うと、三郎も、もう振り向く事も無く、外へ消えていく。
「敬治兄ちゃん‼ 」
ひまわりを含め、子ども達が入れ替わる様にバスの中に入って来た。
「大丈夫や。話はついた…………
すまんな、ひまわり………わい、ちょっと今夜出る事になったわ。」
「大丈夫なん⁉ ホンマに、大丈夫なん? 」
その心配そうにすり寄る少女に、敬治はその心を読ませない様、いつも通り微笑んで見せた。
「大丈夫やぁ………
わいが将棋で敗けた事なんか、
将棋教えてくれたお前の兄やんくらいしかないやろ?
心配しぃやの、ひまわりは………」
しかし、彼女も子ども達も、表情を硬く強張らせたままだ。
敬治は、深呼吸をし、顔を挙げる。
「心配いらへん! ひま‼ 返った時には、また味噌汁頼むで‼ 」
沈黙の後、ひまわりが不器用な笑みを見せる。
「夏なんやから、汁なんかよう作らへんよ………」
「ほうか、じゃあ………………」
何か、気の利いた言葉を探すが、それ以上言葉が出てこない。
「敬治‼ 」
その沈黙を破る様に、清川がふらふらと後部座席から足を引きずる様に近づいてくる。
「……すまん……わいなんかの為に……すまん……! 」
そう言うと、情けない声を出して泣く。
「もうええ。キヨ。それよりも、相手の事を教えぇ。一体どんな囲いを使ってくるんな? 」
その言葉に、清川は虚空を見つめた。何かを考えているのか。大麻の影響か。
敬治がひまわりに目配せすると、彼女は小さな子達を引き連れバスから出て行く。
最後に、心配そうに敬治の方を瞳だけ向けて、見つめる。
――敬治兄ちゃん。なんかね?
ひまわりは……なんか……嫌な予感するんよ? ――
とうとう、その気持ちは口に出さず。彼女は、敬治の傍を離れた。
「そんで、話の続きや。お前に勝ったちゅうんは、どんな将棋を指すねん? 」
二人きりになった廃バスの中は、先程までの密集状態の残り香で、すえった空気を帯びていた。
「解らんねん………」やがて、清川から返った言葉はその短文だった。
「解らんて、どういうこっちゃ。
お前は何で負けたんなら? とりあえず、棋譜を教えや。」
敬治は立ち上がると、廃バスの前からボロボロの手作りの将棋盤を取り出してきた。
「初手から、投了まで。ちょっと見せてみい。」
――――――――
出来上がったその盤面を見て、敬治は言葉を失った。
そこにあるのは、確かに言葉で伝えるには表現しにくい盤面である。
穴だらけの陣形があるわけでもない。駒が悉く奪われた悲惨な光景でもない。
「………六十手……届かず……や。」
その清川の言葉も聴こえない程、敬治は胸の高鳴りを感じた。
そして、それは恐怖や不安による負の高鳴りではない。
高揚。
将棋を指す者として、その棋譜は正しく理想の産物。敬治はその意味を理解する。
――無駄が無いんや――
浮世離れしたその流れ。一手一手全てが相手の指す手を、全て読み切って封じた形。見た者は暫し、その妖しくも心を奪う幻影に見惚れるしかなかったろう。
「妖怪や………」
そこで、ようやっとその清川の恐怖を帯びた言葉で意識を取り戻す。
「あ………あいつは人やない‼ ………あいつは、妖怪なんや……敬治‼ 」
清川は再び正気を失い喚き声をあげながら、敬治の胸に泣き崩れる。
「読むんや。」
「読む? 」敬治はその言葉を深く問う。
「あいつは…………」
「人の………『心』を…………読みとるんや……」
敬治は深く息を吐くと、清川の肩を優しく叩き落ち着かせようとする。
――人の心を読む……あほらしい………
ただ、この相手は相当な使い手であるのは間違いないやろうな………
となると――
敬治の身体が小刻みに震えだす。
「武者震いや。」それを清川に気付かれた時の為、前もって口に出した。
――おもろいやないか。妖怪とやらが相手か。
だが、それでも。
わいが殺される訳あらへん……… ――
敬治は、歯を思いっきり噛みしめ笑う。今回は背負う物が大きすぎる。その重圧をかき消す様に。普段よりも繰り返し。繰り返し。敬治はそう、自分に言い聞かせたのだ。
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