第三十五手 二人の卒業式

 布団の掛かっていない箇所が、凍っているかの様に冷たい。

 由紀は、固まった瞼を開けると、既に部屋の中は灯りを点けなくてもはっきりと見える程だった。どうやら、陽がとうに昇っている様だ。


 ぼ~っとする頭を掻くと、痛みが走る。怪我を忘れていた。彼女はゆっくりと手を降ろし、時計を眺める。

 「うそ……十一時⁉ 」こんな時間まで眠ったのは、風邪で体調を崩した時くらいだ。まだ、冬休みだったのがよかった。

 由紀は、布団を身体から降ろそうとした時、昨夜の事を思い出した。


 ――ママ………愛子ちゃん………――

 考えると、胸とお腹がきゅーっと痛くなる。

 「………おしっこ……」

 起床を渋る自分の脳に納得させる様に、由紀は呟いた。


 廊下に出ると、リビングから物音がした。どうやら、誰かいるらしい。

 水道の音と察するに母親の様だ。由紀は、トイレに入ると、一旦気持ちを落ち着かせた。


 「………お……おはよう……ママ………」

 おどおどとしたその挨拶に、母親は手を止める。


 「おはようじゃないでしょ? 由紀。もう、お昼前よ……」

 そのいつもの様子に、由紀は満面の笑みを浮かべた。

 「…………ママ……! 」

 「もう、朝ご飯は片しちゃったから、お昼ご飯、早めに作るわ。

 少し待っててね。」

 「うん! 」

 眠って起きたら、今までの母親の姿がそこにあった。

 由紀にとっては、それがどれ程に嬉しかったか。



――――――


 時は、少しだけ過ぎる。

 一月行く。二月逃げるとよく言うものだ。

 三月。すっかりと頭の傷も癒えた由紀は、在校生として、卒業式のリハーサルに参加していた。由紀の学校では、四年生と五年生が在校生として卒業式に参加する様になっている。五年生が選んだ送り出しの歌を皆で練習していた。


 「でも、面倒くさいよな。なんで四年まで出なきゃいけないんだろな。」

 「こらっ‼ 高木い! 私語するな! 」山内が、高木の肩にパンチを喰らわせて無駄口を封じていた。「折れたっ! 」と高木が肩を大げさに擦っている。

 

 皆が、笑ってしまうその光景に気も向かず。由紀はじっと前を見つめた。

 そこで頭一つ飛びぬけて目立っている、茶髪の少女を見つめる。


 ――愛子ちゃん……――

 あの日以来、二人は口を利いていない。

 学校の渡り廊下などで会い、由紀がもじもじとしていると、向こうが足早に去ってしまう。

 長谷川が、それを複雑そうに見て由紀に「気にしちゃ駄目よ」とだけフォローを入れてくれるのが救いだった。

 あと、三日後には達川は卒業し、その足で東京に行ってしまう。


 この三日間。卒業式までに仲直りが出来なければ。一生このままだと由紀は予感していた。

 だからこそ。

 何か、行動したかった。でも、六年生に近づくなんてとてもじゃないが、無理だ……

 

 そんな、由紀の様子に、二人が気付いていない筈もなく。


 「ねぇ、愛ちゃん。いい加減謝りなよ。確かに由紀ちゃんがした事は私も間違ってると思うよ? でも、あんな大怪我をさせたら、そりゃあ、謝らなきゃだめだよ。」

 達川は、その話になると、ぷいっと目を横に向ける。

 「もう! 」


 達川も謝りたかった。でも、手を出してしまった罪悪感と、由紀が手加減を自分にした。という怒りが、行動を鈍らせる。

 実際、誰かが叱ってくれたら楽だったのに。長谷川も爺さんもこの事に対しては自分を強く非難しない。だからこそ、より達川は苦しんでいた。

 誰かに「早く謝れ! 」と無理矢理にでも謝らされたら、どんなに楽だろうか。

 達川は、早く東京に行って、この気まずさを消し去りたい。とすら思っていた。だが、それは即ち由紀との関係が壊れたまま、下手をすればもう会う事も無くなってしまう事を意味している事も解っていた。

 それは絶対に嫌だ。それは…………

 考えれば、考える程、色々な気持ちが達川の胸を高速で交錯していく。

 「あ~~もうっ! 」そう言うと、茶色のその頭髪を掻く。

 その様子を呆れた様に、しかし心配そうに長谷川は見る事しか出来なかった。


 「そうだ。」

 突然、長谷川は手を叩き、ある事を達川に提案した。



―――――― 


 とうとう、卒業式当日。

 結局この間に由紀は、達川とも長谷川とも接触出来なかった。

 気の重い溜息を吐きながら、朝食を摂っていた時だった。


 「ちょっといい? 二人とも。」

 母親がおもむろに由紀と父親を見て、口を開いた。父親が、その様子にテレビの音を消す。

 「どうしたんだい? 」

 父親がのんびりと尋ねると、母親は穏やかな口調で言った。

 「今日。話したい事が有るの。あなた、確か今日は半日勤務でしょ? 由紀も卒業式が終ったら、すぐに帰ってくるわよね? 」

 由紀と父親は目をあわせた後、母親に頷く。

 「何だい? 今話してもいいじゃないか。」

 父親が笑いながら、そう言うが。

 「帰ったら、ちゃんと話すから。」とだけ言って母親は黙ってしまった。

 仕方なく、由紀も父親も朝食を摂ることにした。

 「今日は、寒いと思ったら、広島も上の方は雪みたいだなぁ……」

 テレビの天気予報を、見ながら父親がそんな事を呟いていた。


 




 「卒業生。起立。」

 広い体育館に凛とした教師の声が響く。

 非常に冷気を帯びたその館内に、由紀は身震いをしながら、式を見守る。

 「達川……愛子! 」

 「はい。」気怠そうに返事をした達川が、舞台にあがって賞状を受け取る。

 「ん! 」

 「! 」偶然かもしれないが、目が合った。

 すぐに、目線を外され、達川は足早に舞台から降りて行ってしまう。


 「長谷川……絵美菜! 」

 「ハイっ! 」

 長谷川は、やはり明るく甲高い元気な返事をした。

 ――クマちゃん……――

 賞状を受け取った長谷川が、何だか大人びて見えた。


 

 そんな卒業式が終ると、五年生は外に出て卒業生を送るアーチをかける事になっているので、四年生は体育館の片付けを教員と一緒に行う。

 「苫米地。これ、持ってくぞ。」

 「あ、ありがとう高木君。」

 高木が由紀が畳んでいたパイプ椅子を持ち上げると、舞台の方へ運んでいく。


 「由紀ちゃん。」

 声の方向を見ると、入り口玄関に長谷川が居た。辺りを気にしながら手招きしている。

 「く、クマ………長谷川さん? 」何となく気をつかってしまった。

 「由紀ちゃん。今日学校終わったら、ちょっと時間ある? 」

 長谷川も焦っている様で、特にその様子には気をつかわない。

 「え? 」

 「今日さ。この後、愛ちゃん家で、遊ぶ約束してるの! 由紀ちゃんもおいで! 」

 「えぇ⁉ 」

 由紀は、驚いた。しかし、即座に気が付く。長谷川は、自分と達川の仲直りのきっかけを作ろうとしてくれている。


 『今日は、話したい事があるから、学校終わったら、帰ってくるのよ。』今朝の母親の言葉が頭をよぎる。が。


 「い、行きます! 」

 その返事を聞くと、長谷川は満足そうに笑って

 「じゃあ、学校終わったら、愛ちゃん家ね‼ 」そう伝えると、手を目一杯振って、運動場の人混みへ消えていく。


 ――ママ、ごめんね――


 母親には、帰ってから謝ろう。由紀はそう考えていた。

 それよりも、仲直りの機会が遂に巡ってきた事の方がすぐに頭の中を満たしていく。

 ――どう言えば、愛子ちゃん……許してくれるかな? ――


 片付けがあらかた済むと、四年生は簡単な帰りの会を開いて下校となった。


 窓の外を見ると、どうやら六年生も、もう下校した様だ。五年生が運動場の装飾を片付けている。

 ――よしっ――

 急ぐ必要なんて、無かった。

 でも、由紀は歩幅を精一杯広げて、息を切らしながら。向かった。

 少しでも、早く。

 二人に会いたかった。本当はずっと話がしたかった。


 「はぁはぁはぁはぁ‼ 」

 由紀の細かく荒げた吐気が、白い円を幾つも作る。

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