第三十一手 氷の言葉
「冗談じゃ有りませんよ!
謝って済む問題じゃありません! 由紀は女の子なんですよ!
顔に傷が残ったら、どうしてくれるんですか‼ 」
病院の受付口。由紀が救急車で運ばれたと聞いて、飛んできた彼女の母親は、烈火の如く怒りを達川の爺さんに浴びせていた。
「母さん、先生の言うには、傷も残らないとの事だし、もういいじゃないか。」
由紀の父親が、それを諭す様に、言葉を掛けた。達川の爺さんは、ただただ頭を下げて謝罪の意を二人に見せ続けている。
「あなた‼ 何を言っているの⁉ あなたは、何も思わないの⁉
由紀は二つも年上の子に暴力を振るわれたのよ⁉ 」
父親は、その怒りに震える肩を優しく支えた。
「落ち着きなさい。ここは病院の受付だ。
そんなに大声を出したら、他の人達に迷惑だろう。」
その冷静な言葉は、母親の怒りの炎を更に激しく燃やした。
「あなたが! そんなだから! 」
その先の言葉が遮られたのは、二人にとっても僥倖なものだった。由紀が入っていた診察室が開き、診察医が、両親を呼んだのだ。
「レントゲンとCTの結果も、出ましたが。骨……脳にも異常は有りません。痛み止めと化膿止めのお薬を出しておくのと、一応、二十四時間は安静にして………もし、何か変化がありましたら、すぐに、受診をお願いします。」
声に、緊急性のものもない。落ち着いたトーンで、医師は両親に説明していた。
由紀は、おでこの辺に包帯を巻き、そして、右頬に湿布を貼ってもらっていた。覗いた肌の部分が浅黒く変色しているのが痛々しい。
「
母親が身を乗り出して、必死の形相で医師に詰め寄った。
一瞬、医師は身を強張らせたが、安心する様な微笑みを浮かべると、優しく語る様な口調で返答する。
「はい。縫った箇所も二針ほどですし。恐らく、一週間程で、抜糸出来ると思います。何も異常が無ければ、一週間後に診察予約を入れておきますので、その時にまた傷の具合を見せて下さい。」
その言葉に、母親はようやっと溜飲を下げる。
「じゃあ、帰るわよ。由紀。」
「うん、ママ。」
診察口が開いた瞬間。由紀は、身体全体で驚いた。
そこに居たのは、頭を下げたままの達川の爺さん。
「おじいちゃ………」
近づこうとする由紀の肩を、母親が掴む。
「マ……! 」
思わず、「ひっ」と由紀は息を呑んだ。
冷たい。
冷たい瞳で、母親は何かを語っていた。
――近寄るな――
やがて、父親が達川の爺さんに駆け寄り、病院の入り口まで二人は消えていく。
「さぁ、受付を済ませたら、お家に帰りましょう。由紀。」
「う……うん……」
その声は、いつもの優しい母の声。
だが………由紀は、その声質に、形容し難いものを感じた。
夜は、久しぶりに三人で外食をした。
しかし。
そこに、会話は無く。
ただ、食器の鳴る音と、店内の陽気なBGMが耳に残った。
由紀は、はっきりと感じていた。
自分のせいで、父親と母親は今、気まずくなっているんだと。
その後、家に戻ると父親と母親に「早く休みなさい」と言われ、由紀は普段より早くベッドに入っていた。
しかし、そう簡単には眠れない。
寝返りをうつと、頭が痛む。
風呂にも入れない為、髪の毛がべたつき、気持ちも悪い。
何より。
――愛子ちゃん……――
暗闇の天井を見ると、達川の涙を思い出し、由紀の瞳にも涙が浮かんだ。
――明日……謝らなくちゃ……――
そう、思い、瞳を閉じた時だった。
「~~~~~~~~~‼ 」
「⁉ 」由紀は、首を動かす。
「痛っ」直後に頭部に痛みが走る。
しかし。
ドキドキした胸を押える様に、そのまま由紀はベッドから身体を起こした。
「~~~~~⁉ ‼ 」
先程より………その言い争う声は……大きくなっている。
――パパと……ママ? ――
それは、そう珍しい事ではないのかもしれない。
だが、由紀は今まで両親が言い争う所など、知らない。
由紀にとって、それは余りにも衝撃的な初体験だったのだ。
扉を恐る恐る開くと、その声は更にはっきりと聞こえた。
「あなたが付いていながら、どうして、こんな事になるのよ‼ 」
「いい加減にしないか⁉ 子どものした事だし。
由紀の怪我も大した事が無かったんだからいいじゃないか‼ 」
由紀の胸に、突き刺さる様な痛みが走った。
二人は、自分の事で喧嘩をしているのだ。
震える足を必死で動かし。声の元。リビングへ由紀は向かった。頭が痛んだが。それよりも、今起きている事の恐怖の方が上回った。
「あなたは、学生の頃からいつもそうだわ‼
『大事にならないからよかった』とか
理由を付けてすぐに自分の思いを引っ込める‼ 男のくせに‼ 」
「君は、結婚してから変わったよ‼ 凄く、きつい事を言う様になった‼
昔の君はもっと優しかった‼
そもそも怒って、由紀の怪我が治る訳じゃないだろう⁉ 」
その言葉に、母親は、目を見開いて、父親にぶつかる程に近づいた。
「そういう問題なの⁉
あなたにとって、私達の娘が傷つけられるのは、そんな事なの? 」
父親は、歯を食いしばると、途切れ途切れに口を開いた。
「突然だった。
僕には将棋の事が解らないから、一体何が起きたのか解らないけど、
それまでは、二人ともとても楽しそうに将棋をしてたんだ。
何か、理由がある筈なんだよ。
じゃないと、あの女の子がいきなり由紀をはたくなんて、考えられない。」
「もう止めてぇ‼ ママ‼ パパぁ‼ 」
「由紀‼ 」父親と母親が、驚いて、その飛び出してきた小さな影を見る。
由紀は、駆け出して二人の間に入ると、必死でそれ以上険悪にならない様、二人の距離をこじあける。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あたしが。あたしが、悪いの。」
そう言うと、一気に感情の波が由紀を包み込む。そして、それは涙となり、外へ流れ出した。
父親は、それを見ると、しゃがみ込み、その小さな頭をがっしりと抱き締めた。
「どうしたんだ? 昔の『泣き虫由紀ちゃん』に逆戻りじゃないか。」
いつもお道化る父親のその、真面目な声に、由紀はもう、冷静ではいられなくなった。
「あたしなの。あたしが、わざと負ける様な手を指したから!
愛子ちゃんはちゃんとした勝負で、将棋が指したいって。
そうずっと、言ってたのに……‼ 」
「いいんだ。由紀。いいんだよ。誰も怒ってなんかいない。
明日、愛子ちゃんと仲直り……出来るといいね? 」
そう言うと、父親は母親に似た少しパーマ掛かった柔らかいその髪を撫でる。ビクッと由紀が動いたので「痛かったか? 」と訊くと、小さく頷いた。
「ごめんな、由紀。」そう言って、父親が由紀から手を放すと、今度は母親が由紀の顔に目線を合わせる。
「由紀? どう言う事? 何で、将棋で敗ける手を指した貴女が悪いの?
貴女は愛子ちゃんに敗けてあげようとしたのよね?
それで、何でこんな酷い事をされなきゃいけないの? 」
「お前………‼ 」呆れる父親を無視して、母親は由紀をじっと見つめる。
「こんな、乱暴な子と付き合っちゃ駄目‼
もう、達川さんには近づいては駄目よ‼ 」
「ッッ‼ 」
その、竹を割った様にはっきりとした言葉は、由紀の胸を突き刺した。
母親は、なおも由紀を見つめ続け、その答えを待っている。
由紀は、震え。
「ママぁぁ………ごめんなざい~~~あだじがわるいの~~
あいごぢゃんは悪ぐないの~~だがら~~そんあごと、言わないで~~~」
そして、わんわんとそう泣きじゃくり、その母親の言葉に許しを乞ったのだ。
「‼ 」母親は、その反応に、眉間に深く皺を刻んだ。
信じられなかったのだ。自分の言う事を娘が反発した事など無かった。
しかも、付き合うなと言った相手は、由紀自身を傷つけた相手なのに。何故、娘は涙を流してまで庇うのか? 理解出来ないその反発に、母親は苛立ちに似た感情をはっきりと覚えた。
「ねぇ、由紀。」
母親のその呼び声は、優しい。いつもの母のもので……由紀は、小さな希望を感じた。
「ママと、愛子ちゃん。どっちが好き? 」
「お前ッッ‼ 」
その瞬間。由紀は、自分が足元から凍り付いていく気がした。
「あ…………あ…………」その、大好きな母親の声から発せられた問い掛けに、由紀はガタガタと全身に振戦を起こした。
母親は、真直ぐに由紀から目を反らさない。
カチカチと小さな真っ白い歯が楽器の様に鳴る。
「もう止せ‼ どうして、友達と母親を比べれるんだ‼ お前どうかしてるよ‼ 」
そこで、父親が由紀を母親から引き離す。
「由紀。もう寝なさい。パパとママももう、喧嘩しない。
だから、もう寝なさい。」
ぐず……と、鼻を鳴らし、ひっくひっくと、ひき付けを起こしながら、由紀は部屋に戻った。怖くて、この時の母親の顔は見れなかった。
泣き疲れたのだろうか、いや、違う。本当にもう体力の限界だった。ベッドに戻ると由紀は、泥の様に深い眠りについた。
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