第三十手 激昂の終局
中盤が一気に加速する!
――………いや……未だ……――
達川の爺さんは、その光明筋を見切った。
今までの由紀であったならば、それは見せなかったであろう隙。長きに渡った今日の連戦が。遂に要塞に穴を開けた。
――気付けるか⁉ 愛子………――
その、光明筋。
彼女も、見えていた。
――これは………突けるのか⁉ ――
慎重に先を何度も読む。
――これは………一手、先を取れる! ――
達川は、腕を振りかぶる。そして、そこに駒を…………駒を。
――止まった⁉ ――
観客全員が口を開いて固まる。
――由紀に………一手先を取ったくらいで、本当に勝てるのか⁉ ――
一手先を取る事の意味。それを知らぬ訳はない。
達川。彼女もまた、限界の体力で。焦っていたのだ。
勝利と言う最大の難問に。
――ここは、駒を上げて‼ 攻勢に打って出る‼ ――
そうして、達川の指したその手は。
――………………‼ ――
多くの観客が、歯を食いしばり。
「え‼ 」
思わず、長谷川がそう言葉を漏らしてしまった。
達川が、その声を聞き、心臓を鷲掴みにされたような。悪寒を覚えた。
「しまっ‼ 」
そして、気付く。自分が犯してしまった、過ち。
今は、由紀に開いたその小さな小さな綻びを突くべきだったのだ。
追い込まれていたのは
彼女の方なのだから。
達川の爺さんは、小さく唸り、天を仰いだ。
達川が指してしまったその一手は。
つまりは、悪手。
だが、その場に居た者、全員がそれを笑う者は居なかった。
指しているのは、小学生。しかも女の子だ。
皆、それぞれに「よくやったよ」と、囁いているばかりだ。
――やっちまった……――
しかし、達川の心は、そんな慰めを認めない。
いや、認めてしまう訳にはいかなかった。
――こんな、しょうもない幕切れなんて………――
眩暈を感じる。
達川は頭を抱え、俯いてしまう。
「まだ、終わっとらん‼ 」
その場に居た者全てが、その声の主を見る。
「愛子‼ まだ、勝負は終わっとらんぞ! 顔をあげぃ! 」
――爺ちゃん………――
そう。
そうである。
達川の瞳に、火が灯る。
――何度も。何度も、劣勢から逆転した奴を……
うちは知ってるじゃないか! ――
達川は、顔を挙げた。その、心の中に居る人物が今、目の前に。
――悪手を指す事が無い。なんてうちが都合良く考えてた妄想! それも含めて! それでも由紀に勝つ! ――
何という気力か。
達川にとって、この対局はそういうものなのだ。
決して退いてはいけない。
何より。
己の為に!
由紀は、じっと盤面を読み直す。
そして、理解した。
自分が、追い詰められようとしていた事実に。
それを追った達川が、失敗をおかした事に。
由紀の中で、疑問が渦巻く。
本当なら、これは自分が敗けていたのではないだろうか?
由紀の心中で、自問自答が始まる。
先に自分が悪手を指していたのだ。
由紀は、達川がそこを攻めていた場合の先読みを始めた。
――うん………――
その手、やはり先にあるのは己の王の詰めろ。
この場合。
先に敗北していたのは自分ではないか?
そう、由紀は考え始める。
敗北を認める事というのは、決して過ちではない。今まで由紀と対戦した者達も、皆それを認め。そして次への向上心を燃やしたように。
由紀自身がそうだった。
その心に。小さく。しかし、確実に生まれた感情は。
「カチッ」
由紀に一縷の悪意も、無い。
いや、皆無だと言葉を変えてもいい。
しかし……………それは………
周囲が一斉にその手にざわめきを起こす。
「‼ ⁉ ゆ、由紀ちゃん? 」
――由紀ちゃん⁉ ――
原因は由紀の選択したその一手。
「…………⁉ 」
対面に居た達川は、その手を微動だにせず。ただじっと見る。
由紀の手は。
指し直し。
つまり。
『無意味な一手』一手を無駄にする。悪手。
先程の達川のそれとは違う。
明らかな故意。
沈黙が周囲を包む。誰もが、その一手の意味が理解出来ないからだ。
やがて。
誰かが口を開いた。
「そうか『手心』だよ。彼女。ほら、相手の女の子に。
『待った』をあげたんだ。
さっきの間違えた一手に‼
素晴らしい。まるで、スポーツマンシップだ! 」
その言葉に、観客達が微笑み、感嘆の言葉を次々と漏らし始める。
中には、拍手を送る者も居た。
長谷川は、ゆっくりと首を動かし、その光景を見て。
首を静かに横に振る。言葉にならない、奇妙な感覚が胸に巣くう。
――違う。そんなの………違うよ……! ――
達川の爺さんは口を一文字に閉じ、じっと対局の行く末を見る。
達川は。
達川は……そんな、周囲の言葉が聞こえていたのだろうか?
対局時計が、時を刻んでいるのに。
指す手は、決まっている様なものなのに。
ゆっくりと、彼女は盤面から、目を離し、対局相手を……自分の最大の目標である……その少女を見た。
その少女もまた。それに合わせる様に……こちらを見つめ。
そして、微笑んだ。
「ふざけるなぁああああああああ! 」
その、空気を切り裂く様な、鮮烈な叫び声を聴くと同時だった。
由紀の右顔面に、味わった事も無い衝撃が走った。
「ぎゃんっ‼ 」
由紀自身が自分で聴いた事も無い悲鳴と共に。彼女は椅子から倒れ、今度は左の顔面を床に強く叩きつける。
何が、起きたのか。
由紀には理解出来なかった。
動こうとした時、右の頬と、左の頭部がひどく痛んだ。
由紀は、その痛みに気分不良を覚えながら、自分が先程まで座っていた場所を見上げた。
影にはなっていたが。
そこで、達川が、こちらを睨んでいるのが解った。そして、その顔は、今まで見た事の無い恐ろしいもので。
そして。
涙をぽろぽろと溢していた。
「愛子‼ 」
次の瞬間、達川の爺さんが、達川を取り押さえる様に飛びつく光景が見えた。
「由紀‼ 」
「由紀ちゃん‼ 」
そして、気が付くと、父親と、長谷川が不安を表情に浮かべながら、自分を抱きかかえてくれていた。
――あれ………? ――
彼女は違和感を覚え、床にぶつけた頭を撫でた。そして、見てしまった。
その手は、まるで。
ペンキに突っ込んだかの様に。真っ赤に染まっていた。
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