第十六手 打ち砕かれた想い

 ――霧⁉ ――

 敬治がそう表現したのも無理はない。窓もなく、数個の裸電球で薄暗く見える。ただっ広いそのタコ部屋には、ぎゅうぎゅう詰めになる程の人間が入り組み。

 その全員が、口から煙草の煙を吐き出しているのだ。

 その膨大な煙が、視界すらぼやかす程に。

 壁は、ヤニで真っ黄色に変色して、異様な臭いを放っている。


 「パチパチパチパチ」

 「カチャカチャカチャカチャ」

 「バチィィン‼ 」

 

 そして、至る所から、鳴り響く駒の打音。


 「すごいやろ」

 呆然としていたのだろうか。

 その池谷の言葉で、ハッと意識が戻るのを敬治は感じた。


 「皆、盤に着いてからな。それぞれルールと賭け金を互いで合意させる。盤によっては十秒指しやら、相八枚落ちやの気色悪い事しよる奴もおるで。まぁ早く決着が着けばぎょうさん稼げるさかいな」  


 池谷の説明を、よそに敬治は対局中の盤へと向かい、その行く手を見る。


 ――大した事あらへんわ――


指し筋をじっくりと観察し、それは根拠のない自信から確信へと移行する。


 その敬治の様子を見ながら、池谷はにやにやと顔を歪ませて、入り口付近の椅子に腰かける。


 「ぐおおおぉぉぉぉおおお‼ 」

 敬治から少し離れた席で対局していた男が突然叫び、ガシャーンと、盤の上に突っ伏した。

 「悪いのぉ。約束やさかい、金はもろうて行くぞ」

 その席、向かい合っていた男が盤の横に置いてあった数枚の圓札を乱暴に手に取る。


 敬治はその様子を見ると、口角を歪め、その席に近付く。

 ――おお? ――その行動に、頬杖をついていた池谷も、高揚の笑みを浮かべた。


 「兄さん、次はわいと指さへんか? 」

 どんっと、将棋盤に手をつき、見下ろす様に相手を見るその表情は

 先程までの痩せこけた少年のものではない。

 将棋に命を賭けた

 勝負師キグルイの目だ。


 そんな突然の申し出だが、相手の男の方は驚きもしない。ここはそういう場所だという事だ。

 薄目で、札を数えながら、敬治を観察している。

 「若いね」

 「お前さんも、そう変わらんやろ」


 そう、敬治が目を付けたその勝利を掴んだ男は、白い襟付きシャツを着ており、この場では目立つ程の清潔さと、幼い顔立ちをしていた。

 しかし、向かい合って解る。

 ――こいつは強い。こいつに勝てれば、まずここで敗け越す様な事は無い――


 向こうも、敬治の棋力を読み取る。


 「きんしばりは? 」

 襟シャツの青年……少年が敬治に尋ねる。きんは、賭け額の事で、しばりとは、ルールの事だろう。

 「平手の一分指し。」

 敬治の提案に、襟シャツは鼻で笑う。

 「話にならんわ。日が暮れてまう。」

 その態度の内に敬治が帰りの機関車代も含めた全ての持ち金、十数枚の札を叩き付けた。

 「どや? この額なら平手でも、さっきの対局より稼ぎの効率ええやろ? 」

 周囲の対局者達も、思わずその光景を見やっていた。池谷も、席を立ち行く末を愉快そうに眺めている。


 暫くその金を眺めていた襟シャツは一度、にやりと笑うと、目の前の、先程まで指していた男に声を掛けた。

 「おい、おっさん。そう言う訳やいつまでもそこに寝とったら、新しい客の邪魔や。敗者はとっとと、失せんかい‼ 」

 盤に突っ伏していた男は、鬼の形相でゆっくりと起き上がると、襟シャツを睨みながらその場を後にした。


 ――客……ね――


 敬治は心中に灯るその熱さを、表情には出さず、席に着き襟シャツと向き合う。

 「ほな、始めよか」




―――――――――


 「おおおおおおお‼ 」と周囲から一手指す度に歓声が挙がりだした。


 ――こ、ここまで……――

 ――ここまでの差が………あるというのか……――

 ――一体、何手先まで読んでいる………苫米地……由紀……‼ ――

 余りの悔しさに佐竹は、ずれた眼鏡を直す事も忘れ必死に彼女の攻めを受けていた。


 「ごくり」思わず達川の爺さんも生唾を呑み込む。その指し筋。


 ――今の彼女……果たして、平手の自分でも敵うか否か――

 そう思う程、今の由紀の指し筋は悪魔がかっている。


 『ゾーン』の能力は、己の集中力、記憶力、身体能力を最大限に発揮するもの。必然的に相手が強敵であればある程、その能力がもたらす恩恵は大きくなる‼


 やがて、佐竹の駒を打つ速度が落ち始める。


 ――どうして……――

 ――その棋力……――

 ――どうして、僕じゃないんだ……――


 冷静沈着に……

 現実に向き合いながら、将棋に対して

 素直に

 真面目に向き合ってきた佐竹が

 初めて、不確かな存在の

 『将棋の神』を恨んだ。


 ――畜生……‼ ――


 湧き上がる鼻腔の痛みを堪える。

 叫びたくなる衝動に、肩が震える。



 それは、佐竹が雨水将棋教室を去る一ヵ月ほど前に遡る。


 「よさんか。佐竹君。顔を挙げなさい。」

 自分の孫ほどの少年が頭を下げているその光景に、達川の爺さんは慌てていた。

 

 「挙げれません。あれ程お世話になった達川先生を、僕は裏切るのです」

 驚いた事に、自分の行動に佐竹は、後の愛子が言った言葉の通りの表現をしていたのだ。

 しかし。

 ――裏切る? ――

 達川の爺さんは、微笑みを浮かべ、佐竹の肩に優しく手を置く。

 

 「とんでもない。

 とんでもないぞ、佐竹君。

 君は、自ら選び、自ら進もうとしているだけじゃ。

 しかも

 わしらの大好きな!

 将棋で‼

 明が居らんようになった今、

 ここに留まるよりも、

 棋王会の方がプロ棋士への勉強になるのは誰の目にも明らかじゃ。

 君は優しいからの。わしや愛子に遠慮して中々言い出せんかったんじゃろ。」

 

 佐竹が顔を挙げる。

 そこには、いつも自分達を見守っていてくれた師の優しい瞳。


 「頑張れ。

 頑張れ佐竹君。

 君なら

 頑張り屋の君ならきっと。明だろうと。山本名人にだって追いつける。

 いや、追い越せる‼

 わしが信じとる‼ 」


 ――ああ………――

 自信もなく……

 親の言う事をただただ大人しく聞いていた自分を、初めて認めてくれた場所……そして……人。

 佐竹は誓った。

 この人の思いも、自分の夢の思いに……



 「参り……………まじた……」


 その、心ごと。

 由紀の幾重にも貼られた伏線から放たれた一手が。

 佐竹の王将を打ち砕いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る