第三十手 再接触
「ギギィ」暗闇の部屋、開かれた扉の外光が、中央のベッドを照らし出す。
「桃子、起きろ時間だぞ。」小早川が、声を掛けた先に白いシーツと境目が分からないほどの雪肌がうごめき、真紅の瞳が開く。視線の先には逆行を受けた二つの人影。
二つの影は、桃子に近づきながら、足元に落ちている棋譜を拾っていく。
「一体、何年前の棋譜だぁ、これ?おらたちの生まれるなまら前だろぉ?」
桃子がゆっくりと起き上がる。
「それも……もう全部覚えた……」
下着しか着けていないその肌が、光の下に露わになった。この世の者とは思えない神秘的なその光景に二人は思わず息を飲む。
「理絵子……智美……いや、誰でもいい。ボクを止めてくれ。」
「?」二人は、いなげな表情で顔を見合わせる。
――ボクが………将棋という概念を終わらせてしまう前に……お願いだ。誰か、ボクを止めてくれ……――
小早川から手渡された『棋神門』の正装に着替えると、その上から全身をくまなく隠す様にコートを羽織った。
将棋界を根本から揺るがす座標が、今動き出す。
由紀たち三人は、ホテルの近くという事もあり、四人で歩いて会場に向かう事にした。
会場は、都内でも指折りの超有名ホテルであり、地方予選の会場とは比べ物にならないほどであった。その広さに由紀は思わず驚きを隠せない。
「今日は、土生ちゃん見に来てくれないの? 」長谷川が、達川に尋ねる。
「ああ、土生ちゃん、今日対局有るみたいでさ、ただでさえ春に産休とったけ、昇級やばいらしくてね。」「そう、残念」と、長谷川は肩を落とす。
受付に赴くと、そこにはテレビで見る様な綺麗な女性が数人待っており、達川の爺さんが大会参加の旨を伝えると、全員が美しいスマイルを浮かべた。
「はい、では参加者様をご案内いたします、保護者の方は、あちらのテラスが保護者様の待合室となっておりますのでそちらでお待ちください。」と百点満点の対応を提供した。
「じゃあ、わしはここで待っとる。
今日は対局も無い事じゃし、まあ気楽にの?」
達川の爺さんに答えたのは、由紀だけであった「はい、行ってきます」右手を大きく振り、案内人の後に着き、三人はエレベーターに消えていく。
「ふああ……」参加者控室に着いた由紀が感嘆の溜息をもらす。とても広い部屋にそれぞれ円卓が用意されており、そこに『中国地方代表 『盤上の戦女神【ワルキューレ】』と紙が置かれていたテーブルに案内される。紙に気付いた長谷川がプルプルしながら達川に問う
「あ……愛ちゃん?なんか私たちの呼称が『乙女』から『女神』にクラスアップしてるんだけど……? 」
「ん?ああ、これは多分普通に間違われてるな……いや、どっちでもワルキューレって訳せるんだよ。ラノベとかだと」
「ねぇ、由紀ちゃん。愛ちゃんと同じ趣向の人が大会職員に居るみたいなんだけど、どう思う?」長谷川が漫画の様に顔に斜線を浮かべて由紀の反応を伺う。
「ちょっ、由紀ちゃん?どうしたの?」途端、表情を戻し、長谷川が由紀の状態を心配する。由紀が顔を赤めて、もじもじとしていたのだ。
「す、すいません。緊張しちゃって……トイレに行きたくなっちゃって……でも迷っちゃいそうで…」瞳がどんどんと涙ぐんでくる。
「ば、馬鹿野郎。早く言えよ!ほら、行くぞ。」と、達川が立ち上がったと同時にスーツ姿の男が、三人に声を掛ける「間もなく、開会式リハーサルですので、会場にどうぞ。」不味いと感じた長谷川が、すぐに事情を説明した。
すると、男は、無線の様な物で、連絡を何処かに取った。
「かしこまりました。私がお手洗いの方にご案内いたしますので、他の方は会場の方へよろしくお願いします。」
―――――
個室のドアを開けた由紀はまだ緊張が抜けず、あまりすっきりしない腹部と心の状態を残していた。「うあ⁈」そんな精神状態だったからかもしれない。一瞬その異様な光景が目に入らなかったのだ。
それは、数式。トイレの壁、目に至る所全て、文字、数字、記号、アルファベット。
そして、それをネームペンで書き続けている少女。服装は、龍の刺繍が右肩から背中に掛かった真っ赤なパンツスーツ、しかしその派手な衣装よりも、特徴的な容姿があった。
――図書館の時の子――
一心不乱に壁に数式を書き続ける少女に由紀は声を掛けた。
「あ……あの……あんまり壁に……落書きすると……ホテルの人に、迷惑……掛かっちゃうよ?」その言葉に、手が止まり、文字通り血の気のない顔が由紀を見る。
「あ……、あの……図書館では……ごめんなさい……」
少女は無表情のまま……由紀の言葉に沈黙のみが続く。
その時「バタバタ」と廊下で叩きつけるような足音が響いた。その足音は、トイレの前に止まると、勢いよく扉が開いた。瞬間。「ああ~、こござ、おっだがぁ、おーーい、理絵子。こごだぁ~」大きく野太い声が廊下に響く。直後「カッカッカ」と軽い足音が続いて聞こえ、その少女の後ろにもう一人、ポニーテールに髪を結った如何にも『大和撫子』といった面立ちの少女がやって来た。
「桃子!予定時間だ………………むぅ………何だこれは……」ようやく二人はその異様なトイレの壁に気付く。
――この二人も、同じ服装だ――
由紀の方に二人も気付いたが、すぐに白い少女に視線を戻す。
「鳥……」白い少女が消え入りそうな声を放ち、俯いた。
「何?」二人が問い返す。
「窓の外を飛んでた鳥の角度と距離が……気になったから。」そう言うと少女は立ち上がり、二人の元へ下を向いたまま少女は歩んでいく。
「あ、あたしも‼ニーチェもキュブラー・ロスも好き‼」
それは由紀本人も驚いてしまうほど、唐突に。何故かそんな言葉が口をついた。
その言葉に二人の少女は、由紀の方に視線を向けた、白い少女も歩みを止め、そのままギリギリ紅い瞳が見える角度にだけ首を振り向き、由紀の方を見る。しかし、すぐに歩を進めた。
「ボクは嫌いだ………あんな偽善者」
そのままゆっくりと二人の少女の間を抜いていく。
――私達以外に、桃子が言葉を交わした?この子、一体……――
小早川は、その事実と共に、少しの間由紀を見つめていた。
「このフロアに居るという事は、君も大会出場者だろう?もうすぐ開会式が、始まる。君も急いだ方がいい。」そう言い残すと小早川も其処を後にする。
「え?あ‼」由紀も走って、三人を追いかけ、やや後方から歩幅を合わせて付いていく。
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