第二十九手 白雪姫

 「おおい、由紀ぃ、いい加減そろそろホテルに戻ろうぜ。」達川がうんざりした表情で由紀に声を掛ける。


 「も……もう少しだけ……待ってください……っっ。」由紀は、テーブルの上に何冊も本を置き、むさぼる様にページを捲る。

 大きな図書館が近くにあったのは偶然にして幸いであった、由紀を連れ出す口実にはもってこいだったからだ。突然長谷川に由紀を連れ出してほしいと頼まれた時は何事かと思ったが、東京見物も悪くないと思って、迂闊に引き受けてしまった。由紀の本好きは、もう病的だ。一つもじっとせず、本棚と机を何度も行き交いしている。


 ――まぁ、クーラーもよう効いとるし、居心地は……いいわな――


 ――すごいすごいすごい、東京の図書館ってすごい!――


 尊敬するニーチェの本を次々と、読みあさるその姿は、傍から見たら子どもが難しい本を適当にパラパラと捲っているようにしか見えない。だが『ゾーン』状態の由紀にとっては内容を理解する為には、それで充分すぎた。


 「はぁ~~」喜びに満ちた、ため息を漏らす。由紀は、感動ともう少しここに居たいという未練を残しながら本を棚に戻すため、机に置いていた本をまとめる。が、その時、席の達川がうたた寝をしているのに気付く。


 ――もうちょっと……だけ――


 由紀は達川を起こさないように、本を棚に持っていくと、再び哲学書の棚に向かい品定めを始める。


――あ~ん、ソクラテスも、アリストテレスもいっぱい有って困っちゃうよ~――


 幸せすぎた由紀は、周囲の注意を忘れ、本棚だけを見つめて歩いていた。

 「ドンッ」左肩に強い衝撃「キャッ」由紀は思わず転倒する。


 慌てて衝撃のあった先を見ると、自分と同じくらいの子どもが倒れている。

 「だ、大丈夫ですか⁈ごめんなさい!あたしがよそ見してたから! 」


 そこで、由紀はその人物の不審点に気付く。クーラーの効いた室内とはいえ、真夏の日中に全身をくまなく隠すコート、そして衝撃によってはだけたフードから現れたその顔貌。

 その少女の顔貌には、口唇部以外に色素が無かったのだ。


 ――欧米人?違う。アジア系の顔だ………これって…ひょっとして……!――


 しばし目を閉じていた少女は「パチッ」と目を覚ますと、猫の様に後方へ飛び起きる。

 「あ……ご、ごめんなさい……」由紀は、慌てて少女がぶつかった時に落としてしまった本を数冊拾い上げる


 ――あ……ニーチェと……キュブラー・ロスだ……――


 由紀が本を差し出すと、少女は紅い瞳で由紀を睨む。由紀は、不安から狼狽えた。

 「ご、ごめんなさい。ひょっとしてどこか怪我でも……?」

 由紀がそう声を掛けた瞬間、少女は顔がすっぽりと隠れるほどの大きなフードをかぶって走り去ってしまった。取り残された由紀は暫く呆然としていた。


 「お~い、どしたぁ?終わったんかぁ?」気付くと達川が後ろに立っていた。

 「あ……はい……お待たせしました……ホテルに、戻りましょう…」


 若干由紀の元気のなさに気付いたが、そこを達川は追及しなかった。




――――――――



 「あ~?ばっっっっか、馬鹿しいーーー」

 ホテルに戻って、土生に音の事を説明された達川は毒を吐く。

 「んだよ?インターネット?そんなんが、なんでその出場者のやつが指したってわかるんだよ?あれって匿名性が高いんだろ? 」

 達川の意見に土生が首を横に振る。


 「………どうやら、クマちゃんが、漆畑さんに確認したところ、師匠である古葉清澄が証言したようなんだ。」

 「…はぁ? 」

 「このネット将棋大会、漆畑グループがスポンサーをしていたらしくてね。その中で賞金を外部に出させないために、一般参加者として古葉清澄を招いていた事実が判明したんだ。そう、やらせのように組まれていたゲストの奨励会の二人は、本当の出来レースの為のカモフラージュだったんだよ。」


 気が付けば、達川は先ほどまでの威勢を無くし、土生の説明に聞きいっている。


 「そして、大会主催と連携を取り、スポンサーの漆畑グループ含め、自分の参加HNを伝えていたらしいんだ。あ、因みにHNっていうのはネット上の名前の様なものだよ。

 そしてそれが奨励会二人を破った謎のネット棋士『Snow White』」


 達川が、額に汗をかきその事実を認めまいと反論する。


 「じゃ、じゃあ古葉プロが本当に指してたんじゃないのかよ?」


 「実は、この話まだ続きがある。この『Snow White』実は、決勝戦で開始直後に投了していて、優勝していない。その為大会主催側と、スポンサーの漆畑グループは、用意していなかった賞金を急きょ全くの一般選手の為に用意せざるを得なくなったんだ。そこで、勿論出来レースを頼んでいた大会主催側はその真意を古葉棋聖に問いただす。」


 土生は、自分の胸の高鳴りを抑える為、一呼吸間を置く。

 「すると、こう言ったらしい。」


 『あの日は、弟子の一人に訓練代わりに代打ちを頼んだんだが、奨励会の二人を倒した所で興味を無くしてしまった様なんだ。申し訳ない、発生した負債は私が払います。』


 「そう言って、その場でお詫びとして二百万の現金を手渡したそうだ。」

 あまりの展開に達川は言葉を失っている。辛うじて出た言葉は「嘘ついたんじゃ?」というものだったので、土生は、更に棋譜を広げた。


 「見てくれ、決勝までの三回の対局『Snow White』は、居飛車、振り飛車、振り飛車と展開している。これが実は古葉棋聖が指していない証拠なんだ。」


 「そうか、確か古葉プロは根っからの居飛車党で、それで阿南名人の振り飛車を異常に敵対視しているって、前に土生ちゃん言ってたな。」


 土生が頷く。

 「そう、古葉プロのプロになってからの二十年の棋譜、そして、過去の『棋神門』の出場者の棋譜、全て居飛車戦法なんだ……ただし……ただ一名だけ除いて。」


 「それが……音……桃子か。」

 土生が頷く。そしてショックを受ける達川を目にし、考えていた。


 ――他の地方の代表の棋譜もある程度見た。しかし、明らかに『棋神門』の面子の棋力は異常だ。女流棋士でも平手でなければ恐らく勝つのは困難だろう。最早アマチュアのレベルではない。そして、音桃子。彼女の棋譜は、人間のそれとは思えない。ある棋士の先輩が言っていた……「将棋で飯を食いたいなら、一手から十の道筋を探し、九回の正解を指せ。」と……しかし、彼女の棋譜は……定石以外の指し筋が見当たらない。その先輩は、確かこう続けた。「九でプロは十分だ。十の正解を指す必要はない。そんな事が出来れば、神様にでもなればいい」と……――


 「愛ちゃん。ひょっとしたら音桃子は。」


 土生が表情を引き締めて続けた。



 「彼女もまた『ゾーン』を持っているのかもしれない。」



 ――その対策を練る為にも、時間は多い方がいい。願うは明日のくじ引きで『棋神門』と離れた場所を引き当てる事……――



 かくして、由紀を除く四名の心は暗雲の様な不穏な気持ちを残し、開会式の前夜は過ぎて行った。

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