第二十四手 私だけの世界
途端、会場全体から沸く歓声。
副将戦に次いでの終盤の大逆転劇に、観客のボルテージは最高潮に上りつめた。
――ふん、今の詰みの難易度もわからん、ド素人の観客どもが……やられた……まさか向こうのポイントゲッターが大将に居たとは……お嬢の戯言など聞かずに、佐竹を大将に置くべきだった――
植村七段は、持っていた扇子を怒りに任せて、へしり折った。
逆転に次ぐ逆転の決着は、奇しくも先鋒戦の結果に委ねられる事となった。
観客含め、ほぼ全員の注目が、二人の盤面に集まる。
ただ、二人を残しては。
「お見事でしたわ……一体いつからこの光明筋を、見つけていたのか……教えて下さらない?」
込み上げる様々な感情を、必死で押さえれたのは、チームを束ねてきた責任感と、将棋には正直に向き合おうという愛情だった。
しかし、当の由紀は、その言葉にも一切反応をしない。
「ちょ……ちょっと‼貴女、聞いてらっしゃるの⁉私が恥を忍んで頼んでい……‼」
言葉の途中で、由紀の態度の理由に気付く。
――この子――
ただ、ひたすら時間が止まっているように……盤面を見続けている由紀。
――終局に気付いていない?――
対峙するだけで、皮膚が張り詰めるような威圧感を受ける。
――何たる集中力……そうか……――
漆畑は「ほほほ」と右手の甲を下唇に当て、上品に笑う。そして、優しい瞳で由紀を見つめる。
――この将棋に対する姿勢が……
あの逆転手を……見つけ出したのですね……――
――対局が、終盤に迫ってきた。
こうなると、どちらに転んでもおかしくない局面……
どちらが先に仕掛けるかで、展開が大きく動く……!―――
佐竹が、眼鏡を外しその戦局を見つめながら、そう思っていた。
自分たちの力を過大評価していた訳ではない、ましてや相手の力を過小評価もしていない。ただ、自分たちの一年間の訓練に対して、自信があった。棋力の向上に疑いが無かった。しかし、その考えから、自分たちが勝利すると結論を出すのは間違っていたのだ。
時間は向こうにも存在する。一年という時間は平等に努力の機会を分け与える。
勝敗を分けたのは、彼女がその囲いに掛けた労力と時間。そして、それを教えてくれた者に対しての信頼。その差だったのかもしれない。
――一手……先を取った……
クマちゃん、油断するな!そのままそのまま……――
土生が祈るような気持ちで、盤面を眺める。
穴熊の勝負は、一見王手が掛からない上で、じわじわと追い詰め決着する安全性の高い戦略のように見えるが、それは誤っている。序盤に数手の犠牲を払い、終盤、その代償の見返りとして、一手の猶予が与えられる。つまり、一手を無駄にしたら、序盤の犠牲が全て借金として降りかかる。ハイリスクな囲いなのだ。
現状一手有利に進めている長谷川は、高月の二手先を歩いている。
由紀は、乳白色の世界の中に居た。目の前には将棋盤が見える。他には何もない。誰もいない。この世界を初めて意識したのは
たしか、五歳の誕生日、買ってもらった絵本に読み飽き、新しい本を求め、父の書斎でニーチェの哲学書を見つけた時だ。
書いてある殆どの字が読めなかったのに、由紀はそこに書いてある事を理解しようと、必死にその本を読んだ。その時、周りの全ての空間がコーヒーに混ざるミルクの様に、螺旋状に白く彩られていった。
――私だけの世界――
「由紀いいいいいいいいいいい!!!」
突然の右肩に飛び込んできた衝撃に、由紀は乳白色の世界から現世へ呼び戻された。
「たっ、達川さん?」
由紀は、慌てて盤面に目を向ける。
「え?あれ?し、試合……は?」由紀は、その会場の空気に不安を感じる。
「111手で貴女の勝ちですわ。」
由紀は、驚いたように対面の漆畑に目をやる。
「お見事でしたわ。」
そのまま勢いよく嬉しそうな顔で、達川の方を見る。
「ああ、すまん……うちは敗けちまったんだけど……でも、絵美菜が…」
「絵美菜が……やったよ!」
会場全体にその言葉が大きく響き渡った。
「2勝1敗を持ちまして、今年度の中国地方小学生将棋大会、団体戦の優勝は……Aブロック13番、『盤上の戦乙女【ワルキューレ】』に決定いたしました。」
途端、会場が大きく沸く。
土生も、由紀の両親と共に、その喜びを全身で表す。
「やられたな、土生君。」
土生が声の方を向くと、面白くなさそうな苦い笑顔を浮かべ植村が近づいていた。
「いえ、我々プロから見ても熱戦と言える内容でした。今回はこちらがたまたま、運が良かったまでです。」二人は、色々な感情を潜め、握手を交わす。
閉会式も終わり、由紀は一旦両親と別れて、土生の車で達川の家の荷物を取りに戻る。汗ばむような暑さの車内に入っても、由紀たちは自分たちが成し遂げた偉業に実感がわかなかった。しかし、身体に残る疲労感が今までの激戦が夢ではなかった事を証明する。
「おーい、皆着いた…よ………やれやれ。」
後部座席で、寄り添うように眠る三人は、まるで姉妹の様にそっくりな表情で穏やかであった。
「五分だけ……待ってあげるか……」
窓の外から、樹液の匂いのする夏の風が車内へ優しく流れ込んだ。
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