第二十三手 その片鱗
会場に二人が戻ると、その場は異様な空気となっていた。
原因はすぐに分かった。漆畑の猛攻に、由紀が最大の危機を迎えていたのだ。急いで、土生が周囲の観客に状況を尋ね、達川の元に戻ってきた。
「かなり劣勢だ。聞いた事と今の状況を見た限りだと、次、詰めろを掛けられると、必至まで持っていかれる状況だ。」
「~~~ッッ!」達川は熱いものを感じた。それは、あっという間に全身へと駆け巡り、達川の心へと行き着く。胸ではない。心へだ。そして、それは今までの二人との日々を思い出させた。最悪の出会い……初めてできた女子の将棋友達……二人とも自分を認めて、ついてきてくれた……大好きな……友達。
いつも冷静に盤面をしていた愛子が……初めて将棋のルールより、自分の感情を優先させた。
「ゆき!!頑張れぇ!頑張れ!絵美菜ぁ!」
その叫びに、対局中の者も、会場の観客も一斉に達川を見る。
「え~、対局者のご迷惑になりますので、私語は慎んでください……私語は慎んでください。」大会委員の注意がすぐさま入る。
しかし、その時確かに達川は見た。
こちらを見た由紀が微笑み、頷くその姿を……!
「おほほほほ、みっともございませんわね、己の敗北を目前にして我を見失うとは……哀れですわ。」しかし、直後漆畑は全身に戦慄が走る。
――なに……この寒気は……違う……今までと…何かが…!――
それは…………強者だからこそ働いた……危機感……
「ははは、おめぇんとこのボス、情っけないなー。正に文字通り女々しくて嫌気がさすねぇ、頑張れぇだとよ、頑張れー。んなもんで勝てたら苦労しねぇって。ファンタジーだよファンタジー。」
そんな高月の挑発に対し、長谷川は冷笑を浮かべる。
「そうよ、クールぶってるのに、寂しがり屋で、妙に正義感が強くて……その割に不器用で、周りにいつも誤解されてて……それでも…友達の為なら……自分の事よりも相手を優先しちゃう……そんなボス……」
「キッ」と凛々しく、強い目を高月に向ける。
「どう?羨ましいでしょう?」
漆畑紅は、奇怪な感覚をぬぐえなかった。
今までとは全く違う異質な何かが、盤面から溢れている。
そして、先ほどまで窮地に立つたび、その感情がはっきりと掌握出来ていた目の前の相手……
――この子は……本当に先ほどまで指していた……あの子……なの?――
だが、盤面の内容は変わらない。あと四手で詰めろも見えている。相手の由紀はというと、中央を馬が食い込んできているが、王の筋にはまだ遠い。手駒も歩一枚と桂馬二枚に銀一枚金一枚だ。桂馬で王手が掛けれるが、詰めろまでほど遠いのは明らかだった。
会場に居る誰もが、四手先の由紀の投了を予想していた。
しかし。由紀の選択した手は、銀打による王手掛けだった。
その一手、対局者の漆畑を含めて、観客の殆どが、やけくそになって由紀が勝負を放棄したのだと思った。駒の価値として、桂馬を残して、銀を打つなどという事は、ある例外を除いてあり得ない事だからである。
そう、例外を残して。
は。
その一手に、全身を震わせた人間が二人。
それはまたもや土生四段と、植村七段の両名だった。
将棋は、チェスや囲碁などと言った同類の盤上遊戯に比べて、圧倒的に終盤に戦局が入れ替わる事が多い。これは、先述の二つとは違う、奪った駒を盤上の好きな所へ配置できるという独自のルールによる要因が大きい。
その為、必然的に『逆転』のケースも比較的多いと言える。
しかし、その指し筋は多くが終了後、当事者の二人、さらに第三者を含めた感想戦によって見出される。
対局中にその筋を見切る能力を持つ者は、数少ない。
だからこそ、相手のミスを考慮に入れなければ、逆転は限りなく稀な場合である。
漆畑は、迷う事無く王将にて打銀を打ち取る。
「何だと‼」そう叫んで立ち上がったのは、佐竹であった。彼にもまた由紀が見つけ出した奇跡の指し筋が見えたのだ。
立ち上がった後も、モニターでその盤面を見て「げ、芸術だ」などと独り言を呟き続けた。
由紀は迷う素振りも見せず、今度は桂馬で王を攻める。
そして、そこで達川がその指し筋の意味に気付く。
「つ……詰んでる……」
ぎりぎりの窮地。一手のミスも許されない、いや、それどころか、相手の駒の指す順番までその一通りしかないその状況で、究極の集中力によって導き出された奇跡の指し筋。それはとても難度の高い芸術的な詰み。
――信じ られ ま せんわ――
その桂馬打で、漆畑が己の状況に気付いた。目を大きく見開き、由紀の指し筋を読む。
――私の 金 無双が――
歯を噛みしめ、身体がどんどんと盤上に覆い被さる様に前傾姿勢になる。
――打ち破られたと……言うの?――
佐竹がその漆畑の姿を見守り、歯痒い表情を浮かべる。
――気持ちはわかる。漆畑さん……諦めれないよな。敗ける度、周囲の人たちは「大丈夫だ」「まだ若いんだから次がある」なんて言ってくれるけど……齢なんて、関係ないよな。将棋だけは、将棋に対しての気持ちだけは……僕たちはきっと誰にも譲れないんだ……だが……その盤面は……もう……――
――逆転手が……ない……――
そう認めた時、漆畑は背筋を伸ばし、凛とした表情を浮かべた。
「残り二十秒………残り十秒……一…二」時間読みが、始まった時。
「参りました。」堂々と、会場全体に伝わるよう、漆畑は投了を告げた。
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