第二十二手 敗北者
それは、一瞬の隙。
その歓声に、棋士としての本能が働いたのか、由紀への仲間意識による心配だったのか、それとも宿敵を追い詰めた油断からなのか……
どちらにしても、勝負の女神がその命運を動かすには、充分な時間となった。
達川が盤上から、由紀の方へと目を動かした、そのタイミング、佐竹が打った手はその場に居た者達のド肝を抜いた。
そして、その手に対し、真逆の意味で心臓の高鳴りを感じた者が居た。
一人は、土生四段。
――これは……悪手だ……何故だ?佐竹君……勝負を捨てたのか?――
それは勝利を確信した鼓動。
もう一人は植村七段。
――ば、か、ものがぁぁぁぁぁ――
自分の師から託された弟子の敗北を認めた恐怖による鼓動。
そう、その手はその場にいた誰もが理解しがたい一手。悪手。
しかし、たった一人その手を認識できない者が居た。
――しまった……!
目……目を盤面から切ってしまった……
うちが…こんな失敗をするなんて……――
達川の精神状態は、もはや正気ではない。
――な、なんじゃ、この手は⁈あ、悪手にしか見えんけど……馬鹿な…佐竹がこんな不利な状況で悪手を指す理由なんて……在る筈がない!――
その異変に気付いたのは、土生だった。
――?愛ちゃん?何故盤面をそんなに読んでいるんだ?
その一手が死んだ手なんて……普段の愛ちゃんなら……――
達川は、まるで自分の身体の自由が奪われたような感覚を覚える。
心臓の鼓動が、耳から、肩から、背中から、足から、全身から聞こえるような異常な感覚。全身が、瞬く間に汗を噴く。そして……それが…一瞬にして体温を急激に奪う。
その達川の様子に気付いた観客がざわめき始める。
両隣の盤上に小気味よい駒の打音が響く中、達川は顔中から冷や汗を流し硬直する。そして、何度も何度も盤面の先を読む。そして……ようやっと達川は、手を指す。その時間は、永遠の様な10分間であった。
「バチン」対し佐竹がノータイムで強打。達川は明らかに動揺して怯える様に目を白黒させてその手を見張る。
――また、悪手……!――
そこで、ようやっと土生が佐竹が悪手を指した意味を理解する。
――佐竹君……君は……何て残酷で…危険な賭けを――
再び、達川は悪夢のような読み返しを行う。
――愛ちゃん……いけない……早く目を覚ますんだ!――
暫く異様な面立ちでモニターを見ていた土生に、由紀の両親も口を開く事が出来ない。ただ、なにか大きな事が起きている事を感じていた。
――愛ちゃん?――
その隣で長谷川は、異様な気配を感じ取った。明らかな嫌な感じの気配。まるで心臓を掴まれるようなおどろおどろしいものだった。我慢できず、隣に目を移そうとしたその時。
「ピシャン!」長谷川が自分の頬を両手で叩いた音が会場に響き、観客が思わず声を上げる。
――何を考えているんだ……!愛ちゃんが……負ける筈がない!自分の事に集中しろ!絵美菜!――
長谷川の目に決意の炎が灯る。
しかし、そんな長谷川の信頼も空しく、達川の緊張は既に限界に達していた。最早、呼吸のリズムすら崩れ、息苦しそうに肩で呼吸をしている。
その時、そんな達川をさらに追い詰める『死の宣告』が無情にも告げられた。
「持ち時間使い切りました。これより三十秒以内に指されないと時間切れ失格となります。」
「しゃあ!」それと同時に部屋の端で俯いていた植村が雄叫びを挙げる。
――や、やられた――
土生は、思わず太ももをはたいて悔しさを表す。
その宣告も、達川には届いていない。しかし……
「十秒……………二十秒…一、二……」
その電子声に、達川は盤上の世界から目を覚ます。
――え?秒読み、そんなうちが⁈時間を使い切った‼――
その焦りが負の連鎖を生み出す……‼‼
――え、私の手が勝手に……動く?……違う、そんな所に指したら……駄目だ……何も考えられない……――
「パシィン」その達川の一手に、土生は目を背けた。
――あの手……あの一手は間違いなく悪手だった…しかし、彼の恐ろしい所は……それを『故意』に指した。盤面に効果をあげる目的ではなく……愛ちゃん自身への攻撃を目的として……今まで人生の半分以上、ずっと追いかけていた強敵を追い詰めていたのだ、年齢的にもたった十二の未熟な精神面が、正気を保てる筈がない。佐竹君は、愛ちゃんが『自分を過大評価している』という事を、充分に理解していた。だからこそ、そこを狙い打った。彼女を壊す事になるかもしれない残酷な手…いや、恐ろしいのは、その勝負度胸……効果を得る事が出来なければ…投了しか残されていない。0か10かの勝負に、躊躇なく踏み込んだ……この結果は、棋力の高さだけではない、彼の駆け引きの上手さが光った対局だった。ただ……心配なのは…愛ちゃん…――
その後の達川の筋は、時間にも追われ、ものの数手で崩れた、あっさりと逆転を許すと、間もなく達川は投了した。その逆転劇に、歓声が起きる。
その歓声を理解した漆畑がにやりと口角を上げる。
――勝ちましたわね佐竹……でかしましたわ……これで……あとは私が…――
漆畑の飛車が、由紀の隙をつき、竜へと成り上がる。
――務めを果たしますわ‼――
由紀と、漆畑の盤面が終盤へと動き出す……
――負けた……追い詰めていたのに……やっと……やっと…追い詰めたのに――
会場外の誰もいないホールの陰で、達川は一人、先ほどの対局を後悔し、涙をこらえていた。大きな体が見る影もなく、小さく小さく折りたたまるようになって。
――うちの…夢も…絵理菜との約束も…終わった……由紀にも…偉そうなこと言ったのに…肝心のうちが……――
その時、目の前に人影を感じ、見上げる。
そこに居たのは、息を切らし、必死の形相を浮かべた土生だった。
「来るんだ。」間髪言わせず、達川の手を掴み、力ずくで立たせ、思いっきり引っ張る。
「ちょ、ちょ、止めろよ⁉土生ちゃん‼痛いって‼離せよ‼ 」無理やりその手を切って、土生と達川が睨み合う。「まだ、勝負は終わっていない……会場に戻るんだ。」
その言葉に、目を伏せ、涙声で達川が反論する。
「はあ?もう、うちが負けた時点で、終ってんだよ……あんなに二人に偉そうに言っといて……結局うちが負けてさ……ホント、自分が情けなくて……嫌んなるよ。そんな奴がさ……どんな顔して今まで付いてきてくれたあいつらに会えんだよ?」
「……」土生が厳しい表情で、達川に近づく。
「!」――叩かれる――そう思った達川は咄嗟に目を閉じる。
「ポン」頭に衝撃を感じ「ビクン」と身体が硬直する。
しかし、痛みを感じない……達川は、恐る恐る目を開く。
「たっくよぉ……らしく無い事言うんじゃないよ……男だったら、ぶん殴ってやるトコだったよ? 」そう言って、優しい表情で頭を撫でる。
「でも……だったら、なおさら戻らなきゃな。だってさ、クマちゃんも、由紀ちゃんも……きっと愛ちゃんと同じ気持ちだと思うよ。自分の為じゃない……三人が……お互いの為に頑張っているんだ……だから……見なきゃ駄目だ。」
土生の言葉が……達川の心に…沁みていく。
「土生ちゃん? 」
「ん? 」
「10秒待って………回復……すっから……」
「…………オーケイ。」
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