第七手 その能力『ゾーン』
ものの数分後、呆気なく決着がついた。
由紀の惨敗。まさかの40手詰みであった。
「え? あ……えーーーとっ? うん? 愛ちゃん? 」
その光景を当事者の二人よりも、驚愕の表情で見ていたのは達川だ。
「わぁ……長谷川さん。強いですね、その指し方見た事無いです。」
長谷川の陣は、いわゆる『穴熊戦法』だ。盤上の隅に王将を動かし、ほかの駒で、おしくらまんじゅうのように道を隠してしまう防御の型。長谷川はこの戦法が好きで、とにかく多用するため教室の老人たちから「クマちゃん」と呼ばれているのだ。
呑気に長谷川を称賛する由紀を、思いっきり両手で揺らしながら達川がすごむ。
「おい、何だよこの惨めな棋譜は⁉絵美菜をおちょくっとるんか⁉ 」
「な、何の事ですか? あたしは、一生懸命将棋しましたよ⁉ 」
由紀は、本当に困った。要望通り……指してみたら……この言われ様だ。
「おいおい、愛ちゃん。なに小さい子イジメてんの? ダメだろう‼ 」
突然、入り口の方から、若い男性が飛び込んできた。
「あ……
一気に緊張感がなくなるトーンで、口を開いたのは意外な事に達川だ。
「おいおい、七も年上に向かって、ちゃん付けはないだろう、愛ちゃん。それより、今のは、どういうことだい?小さい子をいじめるだなんて、先生も僕も教えた覚えはないぞ。」
――――――――
「なるほどねぇ、ふんふん。まぁ、棋力はその日の体調などでも変動するしね。それよりも愛ちゃん。せっかくの可愛い後輩にあんな乱暴な態度は関心しないな。」
達川と、長谷川が二人で事の顛末を、由紀と達川のあの日の対局から、詳細に伝えた。
由紀が意外だったのが、長谷川はともかく、達川が馴れ馴れしくはあるが、目の前の男性には、ただ素直に言う事を聞いているという事だ。
「あの……このお兄さんは……誰ですか? 」
由紀がそう長谷川に尋ねると、長谷川は少し驚いたような表情を浮かべ、小さな声で教えてくれた。
頼りなさそうな細い体に、達川より若干背の高いその男性は、
「大会ってのはね、なによりもチームメンバーとの信頼ってのが大切なんだ。愛ちゃんが、それを分かってくれないなら……僕も引率の約束は守れないな。」
それを聞いて、髪の毛が逆立つほど畏怖し、達川は慌てて饒舌になる。
「すごいですね……達川さん。また将棋の大会に出るんですか?」
由紀のその言葉を聞いて、長谷川が目を見開く。
「え⁈ 愛ちゃん、それまで言ってないの? 」
「はぁ? 」由紀はつい、間の抜けた返事をした。
「毎年、夏に小学生の将棋全国大会の予選があるの。」
「はい……」
「うん、私たち……その大会に団体戦で出場するんだよ。」
「へぇ~~……ん? 」
ゆっくりと、長谷川に向きなおる由紀。
「私……
たち? 」
ゆっくりと長谷川が頷く。
「そう……私と……愛ちゃんと……由紀ちゃん。」
「ひぃ」と悲鳴をあげ、今度は由紀の髪が逆立った。
「む、無理無理無理無理無理。無理です!
あたし、将棋の事なんか……全然わかんないし‼ 」
そして、落ち込むように顔を俯かせて絞る様な声で言う。
「お二人に……迷惑を……かけるだけに……なります。」
その沈黙を破ったのは、土生であった。
「ははは、えーーーと、苫米地さん? だっけ? いいんだよぉ、団体戦なんか、チームが支えあって成り立つものなんだ。この二人が君と出たいっていうのはね? 君が愛ちゃんの6枚落ちに勝ったという事実だけじゃなくて、純粋に苫米地さんと、友達になったからだよ。
苫米地さんは二人の事が嫌いかい?
確かに無理やり連れてこられて、いきなり大会に出てくれってのはとても強引だったと思う。」
腕組みしたまま、土生はうんうんと頷く。
「だったら、二人に責任取らせてやればいいんだよ。苫米地さんは、ただ楽しく将棋を指せばいいんだ。二人が勝てば、それで団体戦は勝ち上がりだからさ。」
父親の様に屈強なわけではないが、その優男に由紀は頼りがいを感じた。
「本当に……あたしで……いいんですか? 」
その言葉に歓喜したのは、無論、達川と長谷川だった。
「ありがとう、由紀ちゃん。本当に愛ちゃんが何から何まで隠しててごめんねぇ、将棋は私たちが責任もって、大会まで教えるから。」
達川も、胸を撫で下ろしながら由紀の頭を撫でる。
「悪かったよ、大会が近づいてるのもあって、つい強く当たっちまった。でもあんたは確かに実力があるって、うちは信じてんだ。あの日の集中力は尋常じゃなかったからな。」
「ああ、その事なんだけど。」
土生が、一歩後ろから三人の方へ話しかける。
「苫米地さん、ひょっとして、何か習い事してる?
スポーツか……そろばんとか?」
「いえ、してません。」
「そうかぁ」と呟く土生に達川が「何かそれが意味あんの? 」と問う。
「いや、話を聞く限り、ちょっと心当たりがあってね。」
達川が驚く「え、なになに、土生ちゃん。教えてよ。」
土生は、少し考えた後。
「運動選手とかで、よく言われる状態なんだけど……『ゾーン』っていう感覚が人には備わってるらしいんだ。本人が自覚する事は難しいんだけど……それは、集中状態の究極版でね。『何をしても必ず成功する』ていう強いポジティブイメージと、時間の感覚すらずれてしまって、ミスが起き得ない状態になるらしいんだ。」
「何だよ、そりゃバカバカしいわ、安っぽいラノベの設定じゃあるまいし、そんな魔法みたいな能力が存在したら、うちも苦労せずにプロになるわ‼ 」
土生は首を横に振る。
「いや……辿り着く人はごく少ないけど……
『ゾーン』は確かに存在する状態だよ。」
流石に、そのはっきりした口調には達川もたじろいでしまった。
「そういえば……」由紀の言葉に三人の視線が、由紀に一気に注がれる。
「あたし、小さい頃から読書が好きで……その時に、周りの風景も……時間も感じなくなって…真っ白い雲の中で、あたしと本だけがある様な感覚に……時々なります。」
達川は、恐る恐る土生の顔を見る。
「これで、ひとつ疑問が解決したね。」
土生が、にこやかに微笑んだ。
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