第五手 三人目の少女
「それじゃ、これ。お家の鍵ね。
今日は土曜日だから、なるべくママ、夕方には帰れるようにするから。」
そう言うと、朝食のトーストを咥える由紀に母親は鍵のカードを手渡し、家から出る。父親は10分ほど先に仕事に向かった。
普段は幸せな気持ちになれる、母親特製のジャムトーストと、ハニーミルクを食べながらも由紀の気分は優れない。
――なんで、あんな怖い上級生の人があたしに絡むんだろう……
まさか、負けた腹いせに、大人数であたしをボコボコに……――
そう、考えるだけで、下腹の方に、冷たい何かを感じて不快になる。
約束の10時よりも15分も早く、インターフォンが鳴る。由紀がモニターで確認すると、間違いない。あの背の高さ……達川であった。それと、もう一人、後ろに達川より頭一つ小さい少女も居た。由紀は先ほどの自分の考えを思い出し、ぞっとした。
「おーい、苫米っ地ぃー来たよー」
「す、直ぐに降ります。」そう言って、由紀はホールの自動ドアのロックを開け、モニターの電源を切った。
母親が用意してくれた水筒と、小さな弁当箱が入ったピンクのリュックを背負うと、玄関をカードキーで閉める。エレベーターの前で、不安になり、もう一度鍵の確認をして、一階まで降りた。
テラスの所で、本当に小学生かと思うような身長の達川と、もう一人髪の長く大人しそうな少女の姿が見えた。
「あ、苫米っ地、おはよう‼ 」
とても馴れ馴れしい挨拶に「ひえっ⁈ 」と由紀が奇声をあげる。
「な、なんだよ。そんなに嫌がることないだろ‼
怖がらせないようにこっちが面白く接してやってんのに……」
達川が、腰に手を当て、威圧するように由紀に近づくと、もう一人の少女がそれを制する。
「愛ちゃん。愛ちゃんはおっきいし、言葉も乱暴だから下級生の子は、怖いんだよ。ね? 下級生には優しく。スマイルスマイル。」
「ちっ」と舌打ちをして、達川が一歩下がる。
「……悪かったよ……怖がらせるつもりは……ないよ。」
由紀は、今の自分がどのような事になるのか解らず、心中には不安がとにかく反響していた。将棋で負けた腹いせにイジメられるのかと思い、昨夜から恐怖していたが、両親の嬉しそうな顔を見て、それも言えなかった。
そんな由紀の心境を理解したように、その少女は、優しい声のトーンで由紀に語り掛ける。
「私、
自分より若干大きいが、小柄でそのやさしい表情は、由紀に安心を与えた。
「あっ……と、と、苫米地由紀です。4、4年です。10、10歳です。よろしく……お願いします……」
尻すぼみに声が小さくなり、顔もゆっくりと長谷川の顔から足元に落ちていく。
「よしっ、じゃあ行くか。」そう言う、達川は動きやすそうな軽装だ。見ると達川ほどではないが、長谷川も動きやすそうな服だ。
「あ、あの……将棋教室って遠いんですか?」
由紀が尋ねると、達川は少し考えて返す。
「うんにゃ、自転車で30分くらいよ。あっ、うち途中でコンビニでパン買わせてな。」
「じゃあ、行こう? 由紀ちゃん。」
二人がホールを出るが、後ろを向くと、由紀は地面に目を伏せ立ち止まっている。
「どうしたの? 由紀ちゃん。」長谷川の問いに、暫し沈黙が流れ。
「あ、あ、あたし……自転車……乗れません………」
春の日中、晴れの日、過ごしやすいその気候は、歩くには最適であった。
由紀はとぼとぼと、自転車を押して歩く長谷川の横を歩いていた。
「お天気で、気持ちいいね、由紀ちゃん。」
「あの……ごめんなさい。あたしのせいで……歩かせちゃって。」
「ううん、私も歩くの好きだもん。それに由紀ちゃんとお話も出来てうれしいよ?」
由紀は胸の奥をくすぐられるような、幸福感を感じた。この短時間で目の前の長谷川に由紀は明らかに好意を持っていた。
――すごい優しくて、素敵なお姉さんだなぁ――
そのすぐ先に、コンビニの駐車場で先に自転車で向かっていた達川と二人は合流した。
「おう、遅かったな。」
――こんな上級生には、絶対ならないようにしよう――
「………由紀……あんた、今うちを心の中でさげずまなかった? 」
思わず由紀は「ふぐぇぇ⁈ 」と解りやすい奇声をあげた。
「もう、なんでそんな怖がらせるように言うの?
愛ちゃん。いっつも初対面の人に絡みすぎだよ? 」
「ち……悪かったよ。将棋で人の心を読む訓練すると、どうも癖になるんだよ。」
言うと、罰が悪そうに達川は、自転車にまたがる。
……が、そのままもう一度自転車から降りる。
「………ちょ……丁度……ダイエットで歩こうと……思ってた……とこだ……たんだ。」
長谷川はにっこりと微笑む。由紀も、達川の紅潮した顔に驚いた。
そのあと、三人は由紀の小さな歩幅に合わせて、一緒に将棋教室に向かった。
「ほら、着いたぞ。」
着いたその先は、公民館のような古い建物だった。
「こ、公民館みたいですね。」
「うん、公民館だよ。」
「え⁈ 」確かに、よく見れば
「一部屋、うちの爺ちゃんが借りて、教室開いてんだよ。月水金の夕方と、土曜の午前から、夕方までな。」
「………え、お、お爺ちゃん?? 」
長谷川が、由紀の頬に顔を近づける。
「そうだよぉ? 愛ちゃんのお爺さん。すんごい強い人なんだよぉ? 」
「まっ、今年中には、爺ちゃんも血祭りにあげてやるけどな。」
「ひぃっ。」由紀が身震いした。
「あ? あ~~冗談だよ。ギャグの例えだよ‼ まともに受け取るなって! うちの爺ちゃん、将棋よりも合気道の方が強ぇから、うちじゃ逆に殺されるって。」
由紀は、達川を殺す。よぼよぼの老人を想像して、更に恐怖を味わう。
「おう、愛子。クマちゃん来たか。おはよう。」
古ぼけた引き戸を開けると、背筋の伸びた屈強そうな中年男性が二人に声をかけた。
「おはようございます。」長谷川がお辞儀をして挨拶する。
「おや、今日はお友達を連れてきたのかい? おはよう、お嬢ちゃん。」
由紀は、父親と同じくらいの大柄なその男性に緊張もしたが、父親に似た安心感も同時に感じた。
「お、おはようございます。」小さな体をぺこりとたたむ。
「じいちゃーん、奥の盤借りるよー⁉ 」その間に達川はもう、教室の奥に行っていた。
「こりゃあ、愛子ぉ‼ ちゃんと挨拶せえ。」
「…………ん? 」由紀は今の会話に違和感を覚えた。
「いこっ? 由紀ちゃんっ。」
由紀の手を引く長谷川に、由紀は疑問を告げる。
「あの、今、達川さん……おじいちゃんって……」
きょとんとして、長谷川が由紀に向き直る。
「うん、この人が愛ちゃんのお爺ちゃんだよ? 」
由紀がゆっくり、先ほどの男性に向き直り、静かに自分の祖父の姿を思い出す。
「~~~~えええええええ⁉ す、すごい、若くて……恰好いい‼ 」
予想もできなかった言葉に思わず、達川の爺さんは驚くと同時に、達川よりも遥かに小さい由紀に「デレッ」とした情けない笑顔を見せた。
「おお……お嬢ちゃん……なんて男を見る目があるんじゃあ……」
爺さんの周りをピンクのつむじ風がつつんだ……ように見えた。
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