第四手 別れ。そして、出会う

 翌朝、いつもの待ち合わせ場所に由紀は浮足立ってしまい、20分も早く着いてしまった。しかし、約束の時間になっても高木は姿を見せなかった。


――遅いな、早く来ないかな。

 早く、昨日の事……教えたげたいな。鞄も結局渡しそびれたし――


 手には中身が空っぽの高木の鞄。

 もう、約束の時間を過ぎた。いつもは、自分が待たせている時間だ。


――珍しいな、高木君が遅刻なんて。

 もう待ってあげないんだからって、言ってみようかな?

 ううん、いっつも待ってもらってるんだから。たまには、ね――


 しかし、その後10分経っても高木が現れる素振りはない。周囲の人たちも足早に駆け出す時間帯になってきた。のんびり屋の由紀も流石に様子のおかしさに感づく頃。

 丁度良いタイミングで、ママチャリの中年女性が見えた。


 「あ。」その女性と由紀は同時に声を上げた。その女性は高木の母親だ。


 「由紀ちゃん⁉ どうしたの? え? 寿人ひさと来てない? 」

 コクリと由紀は首を縦に振る。


 「えぇ~? あの子、今日はずいぶん早めに家を出て行ったんよ? 由紀ちゃんになんも言ってないん? 」

 思いもよらない事実に由紀は、涙ぐみ狼狽えた。


「あぁ、由紀ちゃんごめん。あいつにはおばさんがしぃっかり叱っとくから。学校行って? ね? 由紀ちゃんが、遅刻したら大変よ。」


何とも言えない気分を味わいながら、半べそ状態の由紀は、ふらふらと学校に向かった。

教室に入る前、その光景を見たくない一心であった。

 しかし、現実は残酷に由紀につき刺さる。

 教室に入って直ぐ。教壇の近くで高木は数人の男子と大げさに談笑していた。


「た、が……」


由紀は心底恐怖を感じた。声がまるで何かに搾り取られるような感覚だ。

 由紀に気付いた高木は罰が悪そうな表情を浮かべ、直ぐに目を反らして自分の机に駆けていく。

 目が回る様な感覚だ。これが俗に『頭が真っ白になる』との事なのだが……読書好きな由紀でもその言葉の表現に辿り着くには少々幼すぎた。


机に座ると、身体が震える。


――なんで? あたし……高木君に嫌われた? ――


今度は目の前が真っ暗になった。しかし、それは由紀の気のせいでなく、実際に高木が机の前に立っていたのだ。

 「あ……高木く……」

 「鞄……。俺の鞄、返せよ。」


今まで聞いた事もない。冷たい声。


「あ……はい……ごめんなさい……」

 手渡した鞄を横から思いっきりさらう様に由紀からい取る。

 何も言わず立ち去ろうとした高木に何かを言おうとした。しかし由紀は……


「あのデカ女に……勝ったんだってな……? 」

由紀から一歩離れた所から、後ろを向いたまま高木が、一方的に話す。


「すげぇな……すげぇよ苫米地。あのデカ女は滅茶苦茶将棋強かった。」


一瞬、自分に話しているのかも解らなかった。顔が見えないだけで、コミュニケーションとはそれ程真意をとることが難解となる。

 「え?」

 「昨日、夜にあのデカ女が、うち来たんだ。ほら、俺んち店やってるだろ? だからすぐに分かったんだってよ。んでさ、頭さげんだよ。苫米地が怒って、将棋で謝るかどうか賭けをしたって。そんで負けたってさ。」


「あ……うん……」


「俺さ、『ヒメリンゴ』やめるわ。ついでに将棋もな。」


その言葉が、遥か彼方から聞こえた気がした。

 「なんで……? 」


 「将棋は、俺には向いてなかった……じゃけぇ、サッカークラブに入ってサッカーすることにする。そしたら、夕方まで時間もつぶせるしな。」


「そしたら……あたし……一人になっちゃうよ……? 」


「……朝もさ……もう一緒に行けない。俺……サッカー部の奴と一緒に行く。」


由紀は、鼻に痛みを覚える。プールの水が鼻の奥に入った時に似た痛みだ。

 「…………わかった………」


 首だけ、高木は由紀の方を向いた。

 「今日は……待たせてごめんかったな……」



 その日は『ヒメリンゴ』によらず、由紀もまっすぐ家に戻った『ヒメリンゴ』に通うことになった時から家の鍵は持たせてもらっていない。だから両親のどちらかが帰宅する夕方6時過ぎまで、由紀は玄関の前に座って待った。

 時間にして2時間半くらいだったのだが、由紀はまるで心をどこかに落としたように、その時間の感覚も見失っていた。


先に帰ってきたのは、父親だった。

 父親は、玄関の前に座っていた娘に驚き、急いでドアの鍵を出した。

 由紀は……うちの中に入るまでのその数秒が我慢できなかった。父親にぶつかるように飛び込み、大きな胸の中で泣いた。


父親は、ひたすら驚いていた。


「どうしたんだい? 」


「何があった? 」


「誰かにいじめられたのかい? 」


その一つ一つの父親の質問に、意味の伝わらない悲鳴を溢しながら、ただひたすら首を横に振り、由紀は力いっぱい父親の胸に顔を埋めた。





「ほうかぁ、高木君がな……」

 それから、また二時間ほど過ぎたであろうか。母親も帰ってきて、テーブルに空になった皿が並ぶ中、由紀は、両親に事の詳細を話していた。


「高木君……たった一人の友達だったのに……嫌われちゃった……」


思い出すと、また鼻が傷んだ。


「いや、由紀。それは違うとパパは思うぞ。」


父親が、隣の椅子から、由紀を持ち上げ、自分の両腿に乗せる。


「高木君は、男の子じゃけえな、スポーツに興味を持ったりするのは当然の事なんよ? 由紀の事が嫌いになったりした訳じゃない。皆大人になっていくとな? 違う道を進み始めるんよ? 高木君は、その道をえらんだんじゃけ、応援したげんと? 」


「クラスとか『ヒメリンゴ』教室で、話す女の子とか居ないの? お母さんは、由紀は、大人しいけど優しいから、すぐにお友達もできると思うわ。」


母親が、切ったリンゴをキッチンから持ってきながらそう言った。


「うん……」

 そう言うと、由紀は父親の胸にまた顔を埋める。


「もう、由紀もパパにそんなに甘えないの! もう4年生でお姉ちゃんでしょ? 」


「いや、ママ。今日くらいは……いいんじゃないかな? 」


「パパ! すごくだらしない顔になってますよ! すぐに甘やかすんだから! 」


そんな、仲睦まじい談笑の最中、電話のベルが鳴る。


 「珍しい時間帯だな? 仕事の事かもしれん。」


母親が電話に出るのと同時に、父親は由紀を椅子にそっと戻すと、母親の後ろに待機した。


「由紀? 達川さんって女の子からよ? 」


「ほほ、噂をすればもう違う友達がいるじゃないか、よかったな由紀? 」

 『達川』という名前にはピンと来なかったが、母親から受け取った受話器の先の声で由紀は戦慄した。


「あ! あんた! 今日、とっとと帰ったでしょう⁉

 こっちは、約束守って昨日もう、あの男の子にはちゃんと謝ったんじゃけえね⁉約束通り今度はあんたが、うちとの約束を守る番じゃろ?

 今日だって放課後あんた探して、将棋教室行く時間減ったんよ? 」


 電話越しに怯える由紀の様子を察して、達川は一呼吸、間をあけてから続けた。


 「ごめん、一方的に言いまくったわ。

 まぁ、でも、約束はうちも守ってほしいんよ?

 明日……土曜じゃけど……なんか用ある? 」


 明日は、両親ともに仕事なので特に用事はなかった。

 「あ、いえ……特にないです……」


言ってから、由紀は「しまった」と思った。馬鹿正直なのが由紀自身、自分の嫌いなところでもあった。


「よぉおし‼

 ほいじゃ、明日朝10時に、あんたんちまで迎えに行くから!

 今度は忘れんさんなよ? 」

 一瞬であった。言う事を言ってしまうとあっさりと電話をきってしまった。


「明日10時迎えに行く」その言葉が由紀の心にずっと木霊した。

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