第三手 始まりの一局
盤上に駒が次々と並ぶ。
その時、相手が一気に両手で己の駒を盤上から落とした。
「な、何を。」
「はぁ? 6枚落ちって言ったでしょ? 何よ、8枚のほうがよかったの? 」
そこでようやく6枚落ちの意味を理解する。
「今なら、謝ったら許してあげるわよ? 」
まるで由紀の心中を見透かすし、挑発するように話す。
「あんた、うちの事知らないみたいだけどね? 私は
「カタン」
気の抜けたような音が盤上に鳴る。
△5四歩
――ふ、ふふふ謝るどころか無視して打ってくるとはね
しかもそんな親指と人 差し指の素人同然な打ち方で――
「バチィィィン! 」
教室全体にまで響くような駒の打音。
――ボッコボコにしてやる! ――
▲5六歩△5二飛、▲7六歩、△6二銀、▲6六歩、△5三銀、▲6八銀。
△6四銀、▲6七銀、△5五歩、▲同 歩、△同 飛、▲5八金右。
――ここまでは、ほぼあの子と同等ってことかしら?
居飛車と中飛車の違いは あったけどね、まぁ、大した差はなさそうね――
△9五飛
「! 」
――なるほど、さっきの子よりか少しは盤面が見えてるって訳ね――
▲6五歩、△同 銀、▲6六歩、△5四銀、▲7八金、△9七飛成。
▲4八銀、△9九龍。
「王手です。」
凛とした声に、達川は「ち」と舌打ちをする。
「知ってるわよ。あんたプロの対局見た事無いの?
それ、いちいち言わんのよ。」
▲6八王、△3四歩、▲1六歩、△3二銀、▲5九銀、△5五角、▲4八金。
△4四角、▲2六歩、△同 角。
「ふ~ん、さっきの子より強いわあんた
。でもね、それは今の所ってだけで、一回でも悪手打ったら
すぐに詰めろ渡らせてあげるわ。」
「………」由紀の目は、盤上から動かない。
――ちっ、生意気なガキだわホント――
▲5八金、△3七角成、▲4八銀、△3八馬、▲5九銀、△4五銀、▲4八金。
△3九馬、▲8六歩、△3六銀、▲8五歩、△2七銀成、▲7九金、△9八龍。
「王手です。」
「~~~~~~~~っっ! だ、か、ら! いちいち言うなっての‼ 鬱陶しい‼ 」
▲7八銀、△9七龍、▲6七銀、△7四歩、▲7八金、△7三桂。
▲5八金、△8五桂、▲4八銀。
――今は劣勢。でも相手は素人……
一手でも間違えば
△3八馬、▲5九金、△3三桂
――ち、しっかりと桂馬も上げてきている。
この娘、さっきの子より大分強いわ――
▲4六歩、△2五歩、▲5八銀、△3三銀、▲4九金。
――そして、意外なのは……
うちの手に対して、ほぼノータイムで切り返してくる――
△5六馬、▲5七銀右、△2九馬、▲4八銀、△4四銀、▲3九金。
――これで、なんで……ミスをしない⁈ ――
△1八馬、▲5七銀右、△3七桂成、▲4九金、△3五銀、▲4五歩。
――せ……攻めきれない……――
△3六銀、▲5六銀、△4七銀不成。
――いけない……あの娘の駒が……うちの陣に……喰い込んでくる……――
▲同 銀引、△同 成桂、▲8八銀、△7七銀、▲同 銀、△同 桂成。
――成、不成までしっかりと見据えている……?
本当に、さっきの素人同然の指し方をしたあの、女ん子なの? ――
▲同 金、△5八成桂、▲同 金、△8八銀、▲6七金寄、△7七銀打。
▲5七王、△5六歩、▲同 王、△2九馬、▲3八歩、△7八銀不成。
――大体棋力は……
さて、攻めは充分に出来ているけど……護りを見せてもうかね? ――
▲5七金寄、△6九銀不成、▲5三桂、△5八銀成、▲6一桂成。
――さぁて? この王手……冷静に返せるかしら? ――
その刹那、丁度達川の死角から、引き戸の開く音と、彼女が最も苦手とする生活担当の教師の声が教室に響いた。
「こぉらぁ‼ 達川! もう下校時刻は過ぎとるど‼ 何しようるんなら? 」
思わず、一瞬盤上から目を離して、達川は後ろを振り向く。
――うげぇ、生活担当の
「あ、いや、先生。下級生の子が将棋習いたい言うから、教えてたんですよ、す いません、すぐ片づけて帰りますから。」
「あぁん? 下級生? なんや一緒なのは
言いながら、ドアの所から動かず、背伸びして達川の相手を覗く。
その様子を見ながら、達川は由紀の方に向き直り、耳元に近づき囁く。
「おい、これ以上はまずい。うち、あいつに目ぇつけられとるけ、今日はここで 中止に……」
その様子は『異様』としか言いようがなかった。いや、思い返せば対局が始まった時から、その様子は伺えていた。達川は由紀の雰囲気に呑まれ、言葉を失っていた。
――うちの声が……届いとらん……なんて、集中力……! ――
そのまま、由紀は△同 王と、駒を動かした。
「おーい、廊下電気消すぞぉ、はよ帰れぇ。」
もう、廊下まで移動して、銭村が焦らせるような大声を上げる。
その声を聞いて、達川が由紀の肩を掴み、力ずくで立ち上がらせる。
3秒ほどの間の後、由紀は「ハッ」と我に返ったように周囲を見渡した。
「しょ、将棋の結果は? 」
目を細めながら、暫く達川は由紀を見る。いまいち言いたくない言葉だった。
「う。」
「う? 」聞き返す由紀の純情な瞳に達川はいらつきを覚えた。
「あ~~負け。うちの負けでいいよ! 」
少し間が空き、その言葉を理解した由紀は「パアッ」と表情を明るく彩る。
「本当? 」これまた屈託のない瞳だったので、思わず達川は由紀の頭頂部に手刀を落とした。「あ⁈ 痛ぁ⁈ 」両手で頭を押さえて、怯えた子犬の様な瞳で今度は見つめてきた。
「ほら、センコーが来とるけ、早ぉ帰るよ。」
早足に、達川は教室の入り口まで行く。
「待ってください! 」その声に足を止め、由紀の方を向く。
「私が勝ったんだから……高木君に、謝ってください。」
一瞬、何を言われたか理解できずに、達川は文字通り固まった。
――このクソガキ、6枚落ちに優勢に進められたからって調子にのりくさりゃあ がって……待てよ?
これを利用して……
むふふ、ええ事思いついた――
「そうね、うちが悪かったわ。
あなたにもあの子にも、ひどい事言うてしもたね? 」
急にしおらしくなったその様子に面喰らったのは、あたかも言った達川本人であった。
――うっわーーざーーとらしいーー――
自分で言っといて、赤面するその顔を横にし、笑いを誤魔化すため、鼻をすする。
「でもね? あの男の子もいけんかったんよ? うちみたいに本気でプロになりたく て、色んな大会に出ようる子にしてみたら、あんな簡単にプロプロ言う子には本 当腹が立ったんじゃけぇ……」
「で、でも! 高木君だっ……」
「わかっとる! 」
自分の反論を喰い気味に返され、由紀が一瞬硬直する。その隙に目を光らせて達川が叩き込む。
「うちが言い過ぎたんよ。謝るよ。でもね?
うちの気持ちもあなたにはわかってほしいんよ。
そしたら……うちも素直になれると……思う……」
二人の間に長い空間が伝う。やがて廊下が真っ暗になると「おーい、わしゃあ降りるけ、用心して帰れよ? 」と銭村の声が遠くから聞こえた。
「あ、外がもうこんなに暗く……」その場の空気を変えようと由紀が口を開く。
――逃がすか――
「大丈夫よ。廊下の非常灯はついてるから、階段までぼんやり見えるし、階段は 明るいわ。それよりも…あなたにうちの気持ちを知るにはどうしたらいいか考え てほしい。」
傍からみれば、明らかに達川の提案は理に適っていない。しかし、目の前の由紀は次第にその言葉を発するように追い詰められていく。そう、それは言葉による誘導。まるで相手の王を詰めろに誘い込むが如く。
「ど……どうしたら……いいんですか? 」
勝ったら謝って下さい。と条件を出し、それを達成したものが条件を呑まされている。矛盾。
――勝った。計算通り――
「あのね? あなたにうちの将棋道場に、来てもらいたいんよ。
それでね将棋を本気でやってる人たちを見て?
そしたら、うちの気持ち……わかってくれると思う……
もちろん! これと、あの男の子に謝るのは別の事としてちゃんと分別も出来て る! 」
「え? あ? へ? 」暗闇と、先ほどまでの集中力の疲れから由紀の思考は追い付いていけない。
「ね? うちもひを認めたんじゃけぇ、そっちも少しはうちの条件を呑んでよ? 」
すがる様な達川の瞳。そして、手の届く距離にいつの間にか近づき、両手を重ね合わせ、己の温もりを由紀に手を通して与える。
「は、はい……わかり……ました。」
「本当? 」
由紀の言葉を聞くと、今度は覆さない様一息に飲み込む。
「嬉しい。うち達川愛子。よろしくね。ごめんね、さっきからうちばっかり喋っとるね? あなたの名前を教えて? あとクラスも。」
「あ……苫米地由紀です。クラスは4年2組です……」
「うん、じゃあ今度から由紀って呼ぶね? あたしの事は適当に呼んでね? 」
――よっしゃあ、大会面子……遂に確保ぉぉぉ――
暗闇に怪しく笑う、達川の笑顔が上手い事隠されており、由紀はそのに気付けなかった。
――ま、いいか。明日……高木君……元気になってくれるといいな……――
この先に待ち受ける出来事なんて、知る由もなく。
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