閉じられた器
「永久図鑑より化石『コロンブスの卵』盗まれる」
木崎さんが朝刊のトップニュースを声高々に読みあげた。彼は私同様、東条さんに雇われている事務員である。事務員といっても事務をやるわけではない。東条さんがこの部屋を事務所と呼んでいるので、私と木崎さんは事務員なのである。
私は木崎さんの正面に座っていて、広げられた朝刊の隅に載っている、展覧会の広告をぼんやりと眺めていた。人形師忍冬の七回忌として展覧会が行われるという。未だに根強い人気を誇る人形師という文言が見える。ふと、東条さんも同じ広告を見つめているのに気づいた。彼が人形に興味を持っていたとは意外だ。開きかけた私の口は、不本意な同僚によって遮られる。
「うぅーん」
木崎さんはさも何か考えている風に唸った。その実、何も考えていないのが彼という人である。
永久図鑑というのは私設博物館で、その名の通り、永久に不変であると認定されたものが貯蔵されている。化石や化石と呼んでも過言ではない遺物、太古の本など、貴重で希少な物ばかりだ。
記事によると、化石『コロンブスの卵』は忽然と消えたという。厳重なショーケースからは警報を鳴らさずに盗むことは不可能のはずだったが、警報は鳴らず、化石『コロンブスの卵』は消えた。
警報装置に異常はなく、他に異変もない。盗んだ方法もさることながら、皆の頭を悩ませたのは、なぜよりによって化石『コロンブスの卵』を盗んだのかということである。金品としての価値はないし、コレクターも手を出さない代物である。あれを盗んでどうしようというのか。
そもそも、と木崎さんは眉を寄せて言った。
「化石『コロンブスの卵』って、なんなんです?」
「木崎さん、こないだ一緒に行きましたよね、永久図鑑」
そのとき彼は目にしているはずだ。なのに、なんなんですとはなんなんだろう。
「昔、世界が大恐慌に見舞われたのは知っているよね」
東条さんはやわらかな口調で話し出した。木崎さんは頷く。
「たしか、ほんとうに人類が絶滅の危機に瀕した、というやつですね」
「そう、危機から脱した人類の知恵者たちは、そのとき教訓としてコロンブスの卵を持ち出した。発想の転換、想像性、そういったものこそがこの世界に最も必要なのだと言ってね。そこで、化石『コロンブスの卵』が作られたというわけ」
「なら、価値があるってことでは」
東条さんが答える前に私は口をはさんだ。
「木崎さん、あれは石膏なんですよ。誰でも作れる代物です」
木崎さんは納得できないといったふうに首を傾げる。
「だったらなぜ、厳重な警備の元で保管されていたんです?」
「大切にすべき象徴だからだよ、木崎くん」
「それだけですか」
「それだけですね」
「いや、橋場くん、意外とあっちかもしれないよ」
東条さんが悪戯な顔をする。
「都市伝説、ですか」
「都市伝説?」
木崎さんの声が大きくなる。彼はこの方面に多大な興味を抱いている人だ。
「どんな伝説なんです?」
「木崎くんはヴォイニッチ手稿を知っているかい」
「知りません」
木崎さんは即答した。彼のいいところは無知を恥ずかしいと思わないところだ。
「何百年に渡り研究されているけれど、未だ読み解かれていない本だよ。ヴォイニッチ手稿に描かれている植物は現存しない し、綴られている文字は暗号ではないかとも言われている」
「暗号ですか」
「ま、詳しくは自分で調べてくれるかな」
「説明してくれないんですか」
「面倒だよ」
甘えた目をする木崎さんを、東条さんは冷たく切り捨てる。
「まあ、とにかくね、都市伝説っていうのは、石膏の卵のなかにヴォイニッチ手稿の解読の手掛かりが隠されているとか、種が入っているとか、そういうものだよ」
「なにか関連があるんですか、石膏の卵とその何とかに」
「石膏の卵を作るよう命じた知恵者が、ヴォイニッチ手稿の熱心な研究者だったんだよ」
「なるほど」
ヴォイニッチ手稿をまるで知らないくせに、木崎さんは妙に納得している。
「とりあえず、あれだ。永久図鑑に行ってみないことには何もはじまらないな」
木崎さんはもっともらしく言う。
「行ってどうするんです、化石『コロンブスの卵』はもう永久図鑑にはないんですよ?」
「あろうがなかろうが、とにかく調べるんだよ」
橋場君、つきあってくれるよね。私が断るなど思いもしない目で言う。自分の興味をごり押しするのが、木崎さんという人だった。幸運にも東条さんも同行することになり、私たちは3人連れ立って永久図鑑へ向かった。
白い球体のような永久図鑑は、なかに入ってもやはり球体で、展示品を観ながらぐるぐる歩いているうちに目眩を催す。化石『コロンブスの卵』が展示されていたショーケースが空であること以外、永久図鑑に変化はない。木崎さんは空のショーケースを見つめて、うんとかなんとか頷いている。東条さんは中二階にある人形の前にいた。今朝からどうも人形というキーワードがちらついている。私は短い階段を上り東条さんの隣に立って、東条さんが見つめる人形を見た。158センチある私の身長と同じくらいの人形は、妖艶な少女の姿をしている。少し吊り上がった大きな目は、青金石の輝きを放つ。
「東条さんはこの人形が見たかったんですか」
彼は探るような目を人形に向けている。
「僕はこの人形を見ると、なんだかぞくぞくするんだ。今にも動き出して人を襲いはじめそうじゃないか」
「襲うんですか」
「オートマタだしね」
「以前は動いていたんですか」
東条さんの話によると、このオートマタは忍冬という女人形師の作で、彼女が最初に取り掛かった人形であり、最後に仕上げられたのだという。
「忍冬」
東条さんが今朝あの広告に目を止めていたのは、そういうことだったのだ。
忍冬が作ったオートマタはこの一体のみで、彼女の死後、なんとか動かそうとしたが、どうやって動かすのか、誰にもその仕組みを解明できなかった。後に二度と動かないオートマタは人形師忍冬の遺作として永久図鑑に保管された。
「何のために忍冬がこれをオートマタとして作ったのか、愛好家の間でも謎なんだ」
青金石の目は波打つことのない水面のようだけれど、じっと見つめていると今にも瞬きしそうで、ちいさく、薄い唇は愛らしく口角が僅かに上がっている。白い身体のなかで唇だけがほんのり色づいて、その肉色は体温を秘めている感じがする。
「前に、会ったことがあるんだよ」
東条さんは人形の目を見つめながら言った。
「動いているときに、ですか」
「いや、忍冬にだよ。彼女が亡くなる2,3年前かな。橋場くん、実のところ、これが動いたところを誰も見たことがないんだ」
「じゃあどうして、これがオートマタだと解ったんです?」
「忍冬が言ったからだよ。これはオートマタだとね。彼女が失敗作を作るわけがない。だからこれは動くはずなんだ」
愛好家の間ではそう信じられている。
「東条さんも信じているんですか」
彼が愛好家だという話を聞いたことはない。
「完成した、忍冬は確かにそういったんだ」
「あの、東条さんと忍冬とは、どういう?」
「依頼人だよ。忍冬は僕の依頼人だ」
「どんな依頼だったんです?」
「うん」
東条さんは腕組みをして考え込む。相変わらず人形を探るように見ている。
「それが、よく解らないんだ」
「解らない、引き受けたのに?」
「これの完成を見届けてほしい、そう彼女は言ったんだけどね」
それで東条さんは時々永久図鑑を訪れているらしい。
「動くところをということでしょうか」
「そうなるよねぇ。でも動かす仕掛けはない」
仕掛けが解らないのでは誰にも動かせない。ショーケースの奥側は鏡になっていて、人形の背中もちゃんと見える。背中側にも仕掛けは見当たらない。そもそも、と私は思う。
「言われなければオートマタだとは解りませんよね」
「そうだね、忍冬が言わなければ誰もそう思わなかっただろう」
忍冬が言わなければ、誰も気づかなかった。東条さんはそう呟きながら、人形に顔を近づけた。
「そういえば、どうしてこれは永久図鑑に保管されることになったんでしょう」
遺族でも愛好家でもなく。すると東条さんはさらりと答えた。
「僕が預けたんだよ」
「東条さんが。どういうことです?」
「忍冬の遺言に、これは僕にと。でもどうしていいか解らなくてね、それでここに」
「東条さんに持っていてほしかったということですよね」
けれども忍冬は依頼人でしかない。友人関係など、何らかの関係があった訳ではないから、意味が解らないと東条さんは言った。完成を見届ける、それが忍冬からの依頼。そして人形を東条さんの元に。
「東条さんの手元に置いておく、というのが彼女の依頼だったのでは?」
東条さんは頷いた。実際にしばらくは置いていたけれど、痛むのが気になってここへ預けたということらしい。
「一度、持ち帰ってみるかな」
化石『コロンブスの卵』が消えたことが気になる、と東条さんは言う。なぜかと訊こうとしたら、階下から木崎さんの声がして、振り返ると彼はまだ空のショーケースの前にいた。私はふと、人形を振り返る。その目がちょうど見下ろす先は空のショーケースだ。この位置関係を東条さんは気にしたのかもしれない。卵のなかに何かが隠されている。そんな都市伝説を東条さんが信じるとは思い難い。
館長を呼んで警備員が2人やってきて作業しているあいだに、私は木崎さんに説明しなければならなかった。説明を終えても木崎さんはよく解らないようで、首を傾げていた。
「なんか、怖い光景だな」
裸の人形を抱える東条さんを見て、木崎さんは眉を寄せた。確かに、何とも言い難い光景である。このまま帰るのかと危ぶんでいるところに、館長が着物を持ってきて、人形に着せてくれた。鮮やかな紫色に、飛び立つ蝶の群れ。
「忍冬の着物なんだ」
人形と共に預けていたのだという。更に妖艶になった少女は、先ほどまでよりも生に近づいたようで、なんだか艶めかしい。立って歩きはじめそうだし、その表情は笑んでいるように見える。
事務所の応接室にはビンテージ物のソファが置いてある。赤茶の革張りで重厚感たっぷりのものだ。そこへ東条さんはとりあえず、と言って人形をソファに座らせた。東条さんのとりあえずは常態となることが多いので、私はこれから毎日、人形がソファに座っている姿を見ることになるのだろうと、頭の隅で思う。
木崎さんはしばらくあっちからこっちからとソファに座る人形を観察していたけれど、すぐに飽きて図書館へ向かった。きっとヴォイニッチ手稿のことを調べに行ったのだろう。それだって、長くは持たないに違いない。彼はあまりにも飽き性だ。
ビルの3階はワンフロア東条さんの所有で、事務所の他に居間、木崎さんと私を含める各自の部屋がある。寝る前まで居間で過ごすことの多い東条さんだが、今夜は姿が見えない。東条さんの部屋をノックするが、返事はない。晩ご飯の時、東条さんの言ったことが気になっていた。
「あれはオートマタではないのかもしれないよ」
つまり動く仕掛けはないと東条さんは言う。
「じゃあどうして、忍冬は」
オートマタだとわざわざ言ったのか。
「動いたときのためじゃないかな」
「動く?」
オートマタじゃないと推測していながら、東条さんはおかしなことを言う。
「オートマタだと思っていれば、誰も驚かないだろう」
「東条さん、オートマタじゃないなら、あれはただの人形ですよね?」
それがどうして動くことになるのだろう。
「人形とはヒトガタの器だよ、橋場くん」
東条さんがなにやら恐ろしいことを言いはじめたので、私はそれ以上言葉が出なかった。けれども気になって眠れない。
事務所の扉をノックしようとしたとき、扉の下から風を感じた。窓が開いているのだろうか。思い切って扉を開けると、窓からの風が抜けた。
事務所に入って正面にある窓は大きい。その窓に人が立っている。部屋は暗かった。けれども、今夜は満月だ。窓に立つ人物の顔は、強い月明かりで逆光になって見えない。けれども、着ているのは紫の着物だ。裾から徐々に飛び立って小さくなっていく蝶の群れが、風にはためいている。
窓の上でくるりと外へ向かって身を翻した少女の顔が、月光に照らされた。わずかにこちらを向いた顔の口元は愛らしく笑っている。青金石の目は満月の光に瑞々しく輝いている。その視線はソファの傍に立つ東条さんに注がれていた。口元が何事かを呟いたかと思うと、少女はひらりと窓の向こうへ姿を消した。ここが3階であることを思い出した私は反射的に窓に駆け寄って下を見るけれど、落ちた少女の姿はない。どこにも、少女の姿はなかった。
「東条さん」
東条さんは小さく息を吐いて、ソファに座り込んだ。ついさっきまで少女が座っていたであろうソファに。
「オートマタって、しゃべるんですか」
そんなわけはない。そう思うが、ではどういうわけだろう。ヒトガタの器。どういう意味だろう。
「橋場くん、忍冬の依頼内容がようやく解ったよ」
「どういうことですか」
「だって、僕なら彼女を探さないからね」
「どういうことですか」
もう一度訊いた。東条さんは笑っている。
「彼女が言った完成を、確かに僕は見届けた」
それから東条さんはこう言った。
「だけど結局、あれがオートマタでなかった証明はできないんだよね」
「東条さん」
彼の言は何一つ説明になっていない。
「閉じられた器のなかには何が入るのか。ヒトガタならば」
東条さんの自問のような問いかけに、私は呟く。
「人のたましい、ですか」
「それだって証明はできない」
結局、証明されないものなのかね。ソファの背に頭を預けて、東条さんは目を閉じた。
オートマタは消えてしまって、化石『コロンブスの卵』は未だ発見されていない。はじめ熱心に調べていた木崎さんは、案の定、凄まじい速さで飽きてしまったらしい。なんやかやと熱心に調べていたのに、すっきりとした顔でコーヒーなんぞ飲んでいる。
「調べていたんじゃないんですか」
訊くと彼はぽかんと間抜けな顔を向ける。
「コロンブスの卵ですよ」
「ああ、あれね」
だって所詮石膏なんだろ、と興味なさげにいう。しかし、ただの石膏ではないかもしれないのだ。
「あの石膏の卵はね、なかが空洞だというのは本当らしいよ」
オートマタと石膏の卵の関連を疑った理由について、東条さんはそう言った。卵のなかには何が入っていたのか、オートマタの行方と同じく、謎のままだ。私は卵のなかに眠っていたものが、たましいだと想像してみる。それが目覚めて、人形は自由を得た、という、そんな想像だ。
H3BO3第6回コロンブスの卵 人形 実行犯
お題 @sho-ri
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