皆無
金村亜久里/Charles Auson
(一)
十月十日、水曜日。
暦は町はずれの公園の中心から少し離れた場所の小高い丘の上にある、打ち捨てられ、子供たちの遊び場になっている塔の半ばの、踊り場様のスペースの隅で、体育座りをして、眼下の、どんよりとした曇り空を戴く町を茫然と眺めていた。
眺めている、とさえ言えないかもしれなかった。べつに彼女は目の前の様子を見ようと思っているわけではないのだ。ただ両目を含めた顔をある方向に向けていて、そこにちょうど町があっただけともいえる、その程度のことだったし、暦はその町並みについて気にしているわけでもなかった。
暦の視界には、生まれ故郷であり、十年を過ごしてきた町並みのみならず、無数の小さな黒い球体も映っていた。
ただ暦は、そんな光景を目にしていながら、昔はよく遊んでいながら、ここ二年ほどほとんど交流のなくなった、一人の少年のことを思い出していた。
彼は暦が自らの秘密を打ち明けた唯一の人間だった。すなわち、今もこうして彼女の視界に映っている球体の群れについて……暦には、ものの終わり、死を見ることができるのである。
同じ頃、暦の昔馴染である博隆は、半袖Tシャツに半ズボンと、子供は風の子と言わんばかりの恰好をして、田丁(たまち)二丁目から三丁目の界隈を駆けずり回っていた。町は静かだったが、同時に騒がしくもあるような感じがした。皆家族と、最後になるかもしれない時間を過ごそうと、一刻も早く家に帰ろうとしているのだ。巨大隕石が地球に落ちてくるらしいとニュースキャスターはしきりに繰り返していた。色々な国の軍隊がその隕石の軌道を逸らしたり、粉々に爆破して被害を防ごうとしているが、成功か失敗かはやってみるまで分からないとも言っていた。
今にも雨が降り出しそうだった。玄関前の扉に結ばれた赤いリボンを見つけ家を飛び出してからかなり経つ博隆は、これほど時間がかかるなら傘を持ってきておけばよかったと、内心後悔しながら、それでも足を止めることはなかった。一刻も早くあいつを見つけなくては……心当たりのある場所はおおよそあたったが、どこにもいない。残るは町はずれの公園の中を細々と流れる用水路くらいだった。ざりがにややごを捕まえに行ったり、あめんぼをプラスチックの水槽に入れて観察したりしたものだ。女子は女子で色々集まる場所が会ったりするのかもしれないが、小学四年生で今や男子どうしでしか遊んでいない博隆に思いつける選択肢は、もうその一つしかない。コンクリートまみれの町を抜けて、田丁のはずれ、黒い石垣と芝生と木の公園に入っていく。
いったいどうして疎遠になってしまったのか。雨を貯め込んでいそうな黒い雲を見上げながら、博隆はここ二三年の諸々の出来事について、色々と思いをめぐらした。結論から言ってしまえば「そういう年頃だから」なのだろうが、彼が考えているのはそういうことではなく、博隆と暦とがなんでまた昔とは違ってろくすっぽ口もきかないような関係になってしまったのか、家だって隣だというのに以前のように一緒に遊んだりということがまったくなくなってしまったのか、ということだった。
だから、どうして、というのではないのか……なぜ、と思うだけで、果たしてその明確な解としての理由を求めているのかどうか、彼自身危ういところがあった。
一緒に遊んでいる男子の何人かが、暦とよく喋ったり遊んだりしている博隆に対して軽くからかうようなことを言うことがあった。それが不満で、突っぱねようとして、一番簡単な方法といえば暦と距離を取ることだったから、そうした。今思えば暦も暦で似たようなことがあったのかもしれなかった。双方とも口をきいたりすることが減っていき、今や交流のほとんど一切がなくなってしまっている。
ひとときは、暦が自らの秘密を打明けさえしてくれるような仲だったというのに……自分には物品や生き物の「寿命」が見える、もうすぐ「死にそう」になると、黒い球が湧いて来たりするのが見えるようになる、と暦は言った。暦の飼っていた猫が死に、続けて、仲の良かった彼女の祖父も鬼籍に入って、すぐのことだったように思う。
博隆には、「寿命」が見えるという暦の目がどのようなものなのか、いまいち実感が湧かない。彼には、暦には見えるという黒い球は見えないし、「すごいことなんだろうなあ」とは漠然と思うものの、たとえば火を噴いたり雷を出したりといった派手さもないし……ことの重大さがつかめていない、といえるのだろうか。暦も暦で、そうやって「寿命」が見えたところでどうすることもできないようだった。再生能力や治癒能力を持っているわけではないのだ。ただ、見えるだけ――
用水路にも暦はいなかった。しかしそこで博隆は、ようやっと、もう一つ、最後の候補地を思い出した。
そうだ、あの約束、赤いリボンの約束をした場所は、ここからすぐ近くじゃあなかっただろうか?
塔に上って、隅に腰を下ろしている暦は、べつに何か目的があるというわけでもなかった。上ってどうということはない。しいて言うなら、一人になりたかった。誰にも邪魔ざれずに最後の時間を過ごしたかったからだ。ひどく静かな下町の上にかかる雲からは、雨どころか雪さえ降りだすのではないかと暦には思われた。
物心ついた時から、いやもしかするとそれより前から、暦には黒い球が見えた。最初、暦にはそれらはただ不気味なものとしか映らなかったが、少なくともなにか不吉な、よくない類いのものであることは、勘のようなものからわかっていた。やがて、黒い球を吐き出すようになったものがそう長くない間をおいて壊れたり、生き物の場合には死んだりするのを見て、暦は黒い球が「寿命」が迫ったものから湧いて出るものだと悟った。
博隆に自分の目について話したのは、四年前の一月、小学一年生の冬だった。四歳から二年一緒に暮らしていた三毛猫と父方の祖父が相次いで亡くなった。彼女ははじめて自分の、おそらくは特殊なのだろう目を恐れ、憎んだ。暦はおじいちゃん子だったが、その大好きなおじいちゃんが死んでしまったことよりも、彼が体中から誰にも見えない黒い球を音もなく吐き出し続けている様を見るのが、暦にはとてもつらくてたまらないことだった。人間から黒い球が出てくるのを見るのはそれがはじめてのことだった。
葬儀から数日して博隆に会ったとき、自分の目のことがぽろりと口をついて出た。口調はよどみなく、言葉はするすると流れるように出てきた、と思う。顔を見ると、博隆はただ驚いているようだった。それも曖昧模糊とした感じで、「ふうん」とさえ言語化できそうな、そう激しくない驚きであるように見えた。
博隆は結局、誰にも、自分が語った秘密を口外していなかった。当時の暦と同じく、彼もまた、ことの重大さをよく理解していなかったように思われた。いや、暦もまた、こうして蹲っている今でさえも、ちゃんと理解してはいないのかもしれない。
いつかした約束を、博隆はまだ覚えているだろうか。暦はこの場所さして家を出る前、博隆の家の玄関に赤いリボンを蝶結びに結び付けておいた。それはずっと昔に二人が取り決めたサインだった。いつか、もっと広い範囲で黒い球が見えるようになったら、暦は博隆の家の前、敷地の中と外を隔てる柵の門に赤いリボンを結びつけて、昔二人で遊んだ場所のどこかに行く。見つけてくれたら、どうなるのか教える……
なぜこんな約束をしたのかといえば、その前の日に見た映画が原因だった。地球に隕石が落ちてくる、どうにかして直撃を阻止しなければ人類が危ない。専門家八人と核弾頭を乗せたロケットは単身巨大隕石に突っ込み核弾頭を起爆、隕石は粉々に砕け散って大気圏で流れ星となって消え去り、八人の命を犠牲に人類は救われることとなった。そんな話だったはずだ。
『もしあんなことになったらどうする?』
『どうしようもないよ。ぼくも暦もロケット持ってないし』
『NASAに任せなきゃね』
『暦はどんなふうに見えるんだろう』
『ああ』
『そうそう、その目だとさ』
『なんともない植木鉢から出てくるのが見えたことがあるんだけど、そしたらそのすぐ後に野球ボールが飛んできて割れちゃった。だから、もし死んじゃうなら隕石が落ちてくる前に見えるようになるし、死なないなら見えないんじゃないかな』
『そっかあ』
そして今、町全体を覆いつくすように、いや見える場所すべてを埋め尽くさんばかりに、そこら中から際限なく黒い球が湧いている。
町中が黒くなって、灰色の雲から白い雪が降ってきたら、ちょうどいい灰色になるだろうか。
博隆は公園の中心部にある小高い丘さして走った。
丘の上には中腹に踊り場様のスペースを持つ二十メートルは下らない搭状のオブジェがあり、スペースと丘の高さとを合わせれば百メートルを優に超える高さになるので、田丁を一望するにはこれ以上ないスポットになる。
このオブジェ、元は中心にあることもあって子供の恰好の遊び場だったのだが、三年ほど前に町の中心部に新しく公園ができ、更に危険だからと周囲に柵が設けられるようになって、博隆自身、もう記憶の中にあるだけで、実際に遊ぶことはなくなってしまっていた。
しかし暦はここにいるという確信だけはあった。もうここしか思いつかないし、何より、あの約束をし、サインを取り決めたのは、ほかならぬあの塔の踊り場なのだから。
博隆は柵を上り、乗り越えて、塔の中に入り、すっかり小さくなった螺旋階段を身を低くして駆け上がった。塔のちょうど真ん中あたりまで登ると、暗かった視界が開けて、多少明るくなり、細い円錐からこれまた円形に踊り場が突き出ていったような形の空間が現れた。時計回りに走ってきた勢いで歩きながら、どこかに人影はないものかと辺りを見回すと、ちょうど階段の反対側、渦を巻いて広がり、次第に狭まっていく空間の端で小さくなっている影が見えた。わざわざ近付いて確かめるまでもなく、それが暦であることはすぐにわかった。視界にその姿が映った瞬間に、ああ、あれは暦だ、そうに違いないと博隆は確信したのだ。
「暦!」
そして実際その影はこちらに顔を向けていた。近付いてくるものを待ち望み、同時に恐れるような面持ちで、暦は向かってくる音の主が現れるのを待っていたようだった。目と目が合い、博隆は肩を上下させながら口角を上げた。
「見つけた」
暦も博隆につられるかして軽く微笑んだが、しばらく無言の時間が続いた。視線を逸らし、またそれまでしていたように、大きくくりぬかれた壁に円形のアクリル板が埋め込まれた窓越しの田丁を見る暦に合わせて、博隆もその方を見た。コンクリートの灰色の中に屋根の濃い青や赤土の色が浮かぶ街並みと、これまた今にも雨が降り出しそうな黒っぽい灰色の空とが見えた。やはり黒い球はどこにも見えない。博隆にはそれを見る才能や能力は備わっていないようだった。博隆はその場に腰を下ろして、聞いた。
「どこからどこまで見えるの?」
暦は迷いなく、即座に言った。
「全部」
「町全部?」
「うん。それだけじゃなくて、ここも、町の向こうも、全部」
「そっか……」
博隆はやはり実感が湧かなかった。おれも暦も、みんなも、今こうして生きているじゃないか。なのに、もうすぐみんな……。
「じゃあ、隕石はほんとに落ちてくるってことか」
「うん。わたしも博隆も、おばあちゃんも母さんも父さんも、早津希も澪も、みんな隕石で死ぬ。みたい」
暦は言葉を発する最中一度も博隆と目を合わさなかったし、博隆もあえて顔を見るようなことはしなかったが、彼女は言葉を終えると、静かに唇を噛み、泣きそうな顔になった。
「帰らなくていいの」
「もうちょっとここにいたい」
「そっか」
また無言の時間が続いた。しかし嗚咽が聞こえてきて、博隆が近寄っていくと、暦は手で彼を制止した。
「待って、その、ちょっと、そこにいて」
「うん」
「あの、誤解してほしくないんだけど、ちょっと、近付かないでほしい。あんまり近くに来ないで。その、あの、見えてるから。黒いの、湧いてるの、見たくないから――」
暦の視界に映る博隆からは、口からといわず顔から腕からといわず、皮膚の中から湧き出てくるかのように、大小さまざまの黒い球体が次から次へと表れているのだった。球体は人体の構造の一切を無視して湧き出てきた。鼻と頬を透過してこぶし大の球体が湧いて出て、次の瞬間には右手の中指と人差し指から、合計で二十は下らない数の、爪の半分ほどの大きさの球が一斉に現れ、同時に無数のごく小さな球も煙のように沸き上がった。それらを見ていられなくて、視界にほんのわずかでも入れたくなくて、暦は人間のいないこの場所まで来たのだった。見知った顔が来て安堵したが、しかしその顔すらも黒い球に冒されているのを目の当たりにして、もはやどうにもならない現状に嗚咽を漏らすより手がなかった。
博隆は黙って、暦の隣に、少し間を開けて、再び腰を下ろすと、そのまま何も言わずに窓の向こうの景色を見つめていた。
二人の間には言葉も何もなかった。ラジオやテレビの音も映像もなかった。博隆が家を出る前に、隕石を破壊するための作戦が始まったという報せをニュースキャスターが読み上げていたが、結果を伝える報せはもう届いているだろうか、あのニュースキャスターは、その原稿を前と同じように読んだのだろうか。少なくともこの場にいる一人、暦だけは、失敗することを知っていた。博隆も暦の目と言葉を信じていた。
縮こまる暦に、博隆はどうすることもできなかった。ただ並んで隣にいるよりほかなかった。だから二人はそうやって、いつまでもその場で座り込んでいた。
皆無 金村亜久里/Charles Auson @charlie_tm
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