Chest//-Buster ―序章―

金村亜久里/Charles Auson

(一)

 顔を前の座席の背もたれにしこたまぶつけた衝撃で、克己の視界に星が散った。バスが急停車し、慣性が彼の体を前へと運んだのだ。

 いや急停車とさえ言えない……べつにバスやその運転手に停車しようという意志があったわけではないのだ。そもそもこの島の公共バスはすべて自動運転のAIによって制御されている……バスの前方は一つ前の車にめりこんでおり、前後で六台以上を巻き込んだ玉突き事故を引き起こしている。強制的に車の流れが停止せしめられていることは明白だった。

 祭屋が顔を持ち上げガラス越しに前方を見ると、何やら得体の知れない、この『島』の外部ではお目にかかれないような何かがうごめいている。それはラメの入った大量のスライムのように見えないでもないが、少なくともただのスライムではなかった。あれはおおよそ液体としての挙動ではない。何らかの意思を持って動いている。薄く広がったり伸ばした腕で車のボンネットを叩いたりするそのスライムの中央には、人間が一人、それも祭屋には見覚えがある人物がいるような気がした――

 片道分のチケットで乗り込んだ飛行機を降り、キャリーバッグを引いて祭屋克己が空港ロビーを出ると、出迎えたのは灼熱の太陽である。時は八月十日の夏真っ盛り、伊豆諸島から東に百キロの地点にある人工の『機械島』は、太陽の熱をため込んだコンクリートと室外機から発される熱により身を焼き焦がさんばかりの暑さに覆われていた。

 一刻も早く屋内に入らなければ……昔馴染みと姉の待つ研究所へ向かうバスに乗り込んだのが、おおよそ十五分前。いくら機械島が超高高度テクノロジーとアヴァンギャルドの土地だからといって、まさか着いて早々こんな目に遭うとは思わなかった。彼は機械島で研究をしている姉によって、十万円の報酬を約束されて、『仕事』のためここにやってきたのだ。姉にとっては体のいい実験体、克己にとってはお手軽なアルバイトである。あと十分もしないで姉の待つ研究所に着くというのに、なんとまた災難な……。

 機械島といういわば特区に住める研究者を姉に持つとはいえ、克己自身はちょとボクシングや空手をかじっただけの一介の高校生である。ましてや機械島の最新技術など理解できるはずもないので、どうすることもできなかった。立往生か、いっそ飛び出して走った方が早いのではないかと考えを巡らせていると、暴れまわるスライムに飛び込む一つの人影が見えた。小柄で、肩にかからないほどの髪は黒く、白衣を纏っていても女性とわかる豊かな胸のその人物の四肢は灼熱の太陽を受けて美しく輝いていた。前腕用・脚部用装着型運動補助義体である。走り幅跳びの選手も目を見張るほどの長距離・高高度の跳躍を見せた白衣の女性は、伸ばされた腕を曲芸の如くくぐり抜け、ひといきにスライム内部へダイブ。左右の腕の義体から閃光(スパーク)がほとばしると、スライムは運動停止ののち逆回しの如く収束し、中心に沈んでいた少女の胴体……胸元へと戻っていく。体積まで自由自在の代物なのだろうか。

 颯爽と現れ少女を救った人影に、誰からともなく拍手が送られた。白衣の女性はしばしそれ等に反応し手を振りなどしていたが、そう長くない時間ののちに少女を引き連れてどこかへ行ってしまった。

 克己はなんだか嫌な予感がした。あの白衣の女性の背格好や髪型が、対照的な胸を持っているはずの自分の姉に似ているような気がしたのである。


 克己の姉である祭屋登紀子が根拠地としている研究所は、バスの停留所から二分と歩かない位置にあった。コンクリートの箱のような外観の建物のドアを開けると……あらかじめ連絡を入れておいたとき、施錠は解いておく旨を登紀子は伝えていた。また、克己の帰りの飛行機便は彼女が手配することになっている。機械島は来る者は拒まないが、技術漏洩への対策意識から去る者には厳しいのだ……薄暗い廊下と、左側の壁に配置された、蛍光灯の明かりが透けて見えるすりガラスのドアとが目に入った。まっすぐ進んだ突き当りには生活空間につながっているだろう木製のドアが見えるが、今日克己が用があるのは左に、すなわちラボラトリにつながる扉である。

 克己は少しだけ、あの姉かもしれない女性の姿を思い出した。それから彼女に助けられたもう一人も……やはり見覚えがあるような気がしてならない。そしてあのスライムが吸い込まれていった先は、やはりあのぐったりしていた少女の胸だったように思う。

 嫌な予感がする。しかし既に賽が投げられているのもまた事実だった。聞けば催事な研究のための日検体として克己は呼ばれているという。ここまできて逃げ帰るわけにはいかない。

 ALEA IACTA EST, ALEA IACTA EST......。ラテン語の文句を二三度呟き、克己はすりガラスのドアを開けた。

「いらっしゃ~~~い!」

 登紀子の声がして、左右から軽い爆発音が響いた。パン、パン……火薬のひどいにおいと共に細長い紙切れが飛ぶ。クラッカーである。

 出迎えたのは克己の姉にしてこの研究所の主である祭屋登紀子と、祭屋姉弟の古くからの知り合いで、現在は姉の手伝いをしている菟玖波葉であった。音に驚いて克己は左右に並び立つ二人を見て、間違いなく自分の姉であるはずの人物の異変に気が付いた。視線が下がって、身内とはいえ失礼と思い直し、上がる。

 いや、まさかそんなはずは……年明けには顔を合わせているから、たった八ヶ月しか経っていないはずだ。成長期をとうに過ぎているはずの姉の肉体に、何らかの外部からの処置なしに、一年足らずでこれだけの変化が起きるはずがない……同時に克己は先ほどの白衣の女性を思い出した。彼女は白衣の下に臙脂色のシャツを着ていたはずだ。今目の前にいる姉も、厚めの生地の臙脂色のポロシャツを着て、胸ポケットには三本ペンをさしている。そしてそのシャツの下、厚着をしてしまえばわからなくなる程度でしかなかった胸囲が、今やどう晒布をきつく巻いたところで男装は不可能という大きさにまで変貌していた。

 悪趣味だ、そんな単語が真っ先に頭に浮かんだ。悪趣味だ、いやさ凶悪だ。豊胸手術にしたってこれはやりすぎだろう。

 登紀子はクラッカーを構えたままにこにこ笑っている。恐る恐る葉に視線を移すと、薄着のせいもあってか、彼女も目に見えて胸が大きくなっているように見えた。

 何も言わないでいると、登紀子が雑然と物が隅に追いやられた部屋の中央に置かれた机と椅子をさして「さあ座って座って」と促し、自身も普段使いのものと思しきキャスター付きの椅子に腰かけて紙コップに三人分のお茶を注いでいく。葉も葉で手振りで座るよう促してくるので、克己はおとなしく椅子の一つに腰を下ろし、紙コップを受け取って、早速一杯飲み干す。登紀子がおかきや小袋入りのチョコレート菓子やらの入ったお盆をさして「食べな食べな」というので、やはり一つ二ついただく。ホスト二人もそれに乗じていくつかお菓子をつまみ、しばしの間めいめい無言で食事に専念した。


「で、姉さん。それは何」

 それは何。これだけで何を言わんとしているかは通じた。

「ああ、これ?」

 自慢げににんまりと笑った登紀子は見せびらかすように胸を張り、あまつさえこの八ヶ月で様変わりした二つを手で押し上げる。わざわざ小さなサイズのシャツを着ているのだろうか、左右に引っ張られた生地は横に何本もしわを寄らせて、悲鳴を上げているかのようだった。

 いったいこの姉は何に手を出したというのだろう。ずっと前から登紀子は自分の小さな胸を気にしていたが、筋金入りの工学少女でこそあれ、二年前機械島に発つ以前はもっぱら大豆製品や牛乳やらを過剰気味に摂る食事療法によって問題を解決しようとしていたはずだ。最新工学の島・機械島が、自分の体にメスを入れるような真似を許すような人格へと姉を変えてしまったのだろうか。

「これはねえ」

 と言って登紀子は背もたれから体を離すと、おもむろに両手を下から自分の背に回した。その動作が下着を外すときのものに似ていたので克己はとっさに顔をそむけたが、姉は「ああごめんごめん、気にしなくていいよ、ブラじゃないから」と笑い、

「そうじゃなくて、これが……」

 カチリと音がして、次の瞬間登紀子の胸が、いやさ登紀子の胸にまとわりついていたものが、すとんと彼女の膝の上に転げ落ちた。

 克己はぎょっとして思わず目を見開いた。その顔を見た葉がむせ返って口の端から麦茶をいくらかこぼし、慌ててティッシュできはじめたあたりで、登紀子は取り外したものをでんと机の上に置いた。

 わずかに白んだ半透明で、中には無数のラメに似たものが浮かんで光を反射している。左右には黒いベルトが取り付けられており、これを前から後ろに巻き、背中で固定する仕組みなのだろう。象っているものが察せられるだけに、男子である克己には、女子に囲まれたこの状況では、なんともコメントしづらい代物だった。

「外れるの。このように」

「うん」

 うん、としか言えない。「え、何これ……」とは思った。しかしそれを言ってはいけないような気がする。登紀子は思考機械(コンピュータ)の研究をしていたはずなのに、一体なんでまたこんな……失礼を承知の上で表現すれば……けったいな代物に手を出しているのだろう。

 登紀子は平たくなった胸に用はないと言いたげに白衣のボタンを締め、居住まいを正して聞いた。

「克己。これ、何だと思う?」

「ええ……」

「これね、戦闘用おっぱい」

 こみあげてくる笑いを押し殺そうとして、克己の顔はぴくぴくと震えた。またしても葉がむせて、今度は机の上に麦茶をぶちまけた。絶対仕込み済みのコントだと克己は思った。

 登紀子は白衣のボタンを開けて、今度はシャツの上から、彼女が戦闘用おっぱいと呼ぶ奇怪な代物を巻いて、机の下から取り出した運動補助義体を両手足に装着する。

「またの名を珪素製思考機械(シリコンコンピュータ)。こうやって装着して、自分の脳と、それから各種義体とリンクさせれば、これまでとは比較にならないほど速く! 正確に! 装着型だけじゃなく代替型も含めて、まさしく自分の手足のように操れるようになるんだよ? すごくない?」

 席を立って三メートルほど周囲のものと距離を取り、正拳突きやら回し蹴りやらを披露する登紀子の姿は、確かにインドア派の彼女のものとは思えないほど「キマって」いた。

 つまり、こういうことらしい……珪素製思考機械は、その体積の大小に従って計算能力が決まる。より多くの珪素製思考機械を搭載できればできるほどいいというわけだ。しかし機械ならまだしも人間がこれを有効に活用しようとしても、たとえば珪素製思考機械を積んだリュックを背中に背負うという形であれ、ウエストポーチ状の物の中に入れて使うという場合であれ、体積に比例して重さも増えるわけだから、動くたびに重心を持っていかれたりして、たくさん積めば積むほどなにかと不便になりやすい。

 珪素製思考機械をより多く、人体への負担を少なく携行するにはどうすればいいか?

 その問いへの答えが登紀子の発明であった。人体の一部として、パーツの一部を置換するような形で、組み込んでしまえばいいのだ。見てくれこそばかばかしくも見えるが、着眼点自体は極めて鋭いといえた。

 なお、装着型と代替型について……運動補助義体には、事故などで体の一部を失った人のためにその代わりを務めるため手足の形を模したものと、大きな力がいる作業などの際補助として用いられる登紀子が装着しているような手甲などの形をしたものとがある。前者が代替型、後者が装着型と呼ばれているのは、その形状によるところが大きい。代替型の中でもとくに外見を重視したものの中には、衣服で覆ってしまえば人体とまったく遜色ないシルエットを持つものさえあるのである。

「で、葉もさ、着けてるの、これ」

「うん」

 二人して胸が小さかったはずの登紀子と葉が様変わりしていたのは、どうやらこの発明品のおかげということらしかった。

「べつに義体の補助以外にも色々使えるんだよこれ。さっきも言ったけど脳にだってつながってるからね、メモリ領域として中に情報詰め込んで記憶の肩代わりとか、重火器使うときの動作補助とか」

 三人中二人が同じものを装着していると知って、いよいよ克己は不安を覚えずにはいられない。今日彼は姉の発明品の検体ということで五日分の着替えや自前のアメニティ用品まで持ってはるばるこの機械島にやってきたのである。いったいどんな発明品の被検体にされるというのだろう、気が気ではない。まさかこいつのとは思いたくないが……しかし、これを着けろと言われるような気がしてならなかった。

「で、姉さん、結局どの発明品の実験すればいいんだっけ」

 ここで克己はあえて部屋に散乱する諸々の物品を見回した。白いヘルメットや、白いランニングマシンや、白い右腕用代替型義体と脚部用装着型義体、白いよくわからない機械……全体的に白色のものが多い、いやほとんどすべて白色で統一されている。克己は脚部用義体をさして言った。

「あの脚部義体とか?」

「ううん、これ」

 登紀子は胸に巻かれた珪素製思考機械の右を鷲掴みにした。

 沈黙。

「ええ……」

「案外いいもんだよ。それにね、克己」

 登紀子は立ち上がって左脚を振り上げ、踏みつけんばかりの勢いで足を座面に置く。家では短パン姿も珍しくない登紀子だが、今日は冷房をガンガンに利かせているせいかスーツの下を履いていた。

「これから頭悪そうなタームで真面目な話するから、心して聞くように」

 その場をふたたび沈黙が支配した。


「私たちが取り組んでるのはね、極めてキャッチーな言い方をすると、おっぱい戦争なんだよ」


 もはや克己は何も言うまいと誓った。

「実ば他の研究所でも似たようなものは研究されててさ、結構競合激しいんだ、この分野。装着型珪素製思考機械とでもいえばいいのかな。

 何ばかばかしいって顔してるけどね、克己、これはすごい発明なんだよ。歯を銀歯金歯に差し替えたり、人工関節を取り付けたりなんて、百年、いや五十年前じゃ想像もつかないことだったけど、今じゃ実現してる。機能面だけじゃなくて造形面においても同じような動きは加速度的に進歩してるし、これからも発達し続ける。いつになるかはわからないけど、いつか人間の外見なんて自由にいじくれる時代が来る。肌の色も骨格も変えられる。背丈も体重も思いのまま。そうなったら、ちょっとやそっと体の一部の大きさやら見てくれが違ったところで、全然気にすることなんてないでしょう? いや、うん、もちろんルサンチマンじみたところはないでもないけど……。

 これはその第一歩なんだよ。今は滑稽に見えるだろうけど、克己も協力してもらって、こういうものが世間に広まれば、既成概念をぶち破る起爆剤になれる。だから克己」

 登紀子はふたたび装着型珪素製思考機械を外し、克己に差し出した。

「これと義体を着けて、町の治安維持活動をやりましょう。それが今回克己に頼みたいバイトの内容」

 機械島にも繁華街は存在する。共同出資で設立された学校もあるくらいで、ほとんどが研究者の町であるとはいえ、治安が悪いところは悪いし、柄の悪い人間は柄が悪い。調子に乗って飲みすぎたエンジニア連中が日頃の鬱憤を晴らすべく拳を振るいあうこともままある。

 不平こそ洩らさなかったが、きっと顔には相当不満がにじみ出ていただろう。しかし前述のとおり克己には帰りの便をすぐに手配することはできないし、だいいち資金がない。彼はアルバイト期間中、実験には食事管理が付いてくる場合があることもあって、もっぱら姉の研究所に食事付きで居候するつもりでいたから、機械島でビジネスホテルを借りたり云々するのに十分な持ち合わせは有していなかった。そもそも高校生には簡単には用意できない額である。

 かくして祭屋克己は、姉登紀子の試作品である胸部用装着型珪素製思考機械、及び思考機械連動前腕及び脚部用装着型運動補助義体の被験者として活動することになった……強制的なものとはいえ、克己にも不満だけがあるわけではなかった。登紀子のちょっとした演説は彼の心にも響くものがあったし、姉の異様な発明に思うところがないではなかったのである。

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