処方箋その1. 親バカ治療薬(後編)

 研究所に着くや否や、アントワープはシャワーを浴びた。彼女は汗ばんだ身体を綺麗に洗い流して、気持ちよさそうにしている。白衣を身に着けて、仕事モードに気持ちを切り替えた。

アントワープは研究室の扉の前で深呼吸をしてから、そっと開けた。

「……え」

 そこには薬剤が並んだ戸棚を漁っている人がいた。シュミットではない大柄の人間。黒いコートを羽織って、革の手袋をはめている。頭には純白の目だし帽を装着していた。

 誰がどうみても泥棒の風貌である。


「博士、たまには運動も悪くないでしょう? ――って何してるんですか」

「シュミット君。すまない、助けてくれ」

 目だし帽を被った人物はアントワープを腕に抱え込んで、カッターナイフを喉元に突き付けている。そして、

「う、動くな! コイツがどうなってもいいのか⁉」

 と、脅し文句を垂れた。

 TVドラマさながらな光景に、シュミットは驚きを通り越して、呆れかえっていた。

「あー、いいんじゃないですか」

 面倒くさそうにぶっきら棒で返事をする。

「な⁉ お前、コイツの仲間じゃないのか⁉」

「失礼な。ただの金づるですよ。博士が死んだら、遺産と薬品の特許は助手である僕に渡るので、こっちは歓迎です」

「君の方が十倍失礼だよ! どうにかしてくれ、頼むから!」

「……仕方ないですね。おい、そこの男性……ですか? その方は世界にも名の知れたアントワープ博士だ。彼女を放せ」

 淡々とシュミットは泥棒に訴えかけた。男性はその言葉を聞いてにやりと歯を見せる。

「だったら、俺の要求をのむんだ」

「要求ですか? 元々少ないですけど、お金は僕のなんでダメですよ」

「違う、薬を渡せ。筋ジストロフィーが治る薬だ」

「筋ジストロフィー? 何でまたそんなものが欲しいんですか。――って口元についてるのはシミですか? (キモッ……)その恰好で何か食べたんですか? (ってかキモッ……)」

「おい、小言聞こえてんぞ……」

 目だし帽の口元を注視してみると、オレンジ色のシミがまばらについていた。

「……それは私が作ったラタトュイユかね」

 そう訊ねながら、彼女は気付かれないように注意深く、懐に手を伸ばした。

「うるさい! 話を逸らすんじゃねえ!」

 遂に泥棒の苛立ちは最高峰にまで達した。だが、そんなことを気にも留めずにアントワープは呟いた。

「口よ開け」

「何を抜かしてんだ。いいからさっさと渡せ――あ、ぱうっ!」

 男性はゆっくりと開口した。意志と反する行動に、彼は疑問混じりの叫び声を上げた。

 アントワープは隙をついて逃げると、内ポケットから小瓶を取り出す。男性の口にめがけて中の錠剤を流し込んだ。

 彼はしゃきっと起立して刃物を捨てた。――途端に彼は回る回る回る回る。

「あああああああああああ! なんだこりゃあああああああああああああ!」

 奇怪な現象に泥棒は阿鼻叫喚する。それでも回る回る。

「シュミット君、何か縛れる物はないかね」

「キッチンに電源プラグの延長コードならありますが」

「充分だよ。それで彼を縛り上げてくれ」

「分かりました。取りに行ってきますね」


「――ワンッ!」

 そう叫び声を上げると、泥棒は疲れ果てて意識を失った。



「おーい、起きろ。中年君」

 男性は瞼を開けた。

「うおっおわっ⁉」

 で、いきなり騒ぎ出した。目だし帽は脱がされ、手足は後ろで拘束されていた。身体に這う縄が六角形状になっている。この状況で冷静を保つほうが無茶だ。

「おい、なんだこの縛り方は⁉」

「亀甲縛りですよ。こっちの方がお似合いでしたので」

 とんでもない訳をさらりと口に出して、シュミットは男性に微笑んだ。

「そういうことだ、中年君。助手の性癖に付き合わされて申し訳ないが我慢してくれ」

「人を中年呼ばわりするんじゃねぇ。これでも三十過ぎたばかりだ」

「それでは、三十路君。いくつか質問に答えてもらおう。言い分によっては警察に通報しないでおこう」

 口に手を当て大きな咳払いを払う。

「どうして私の研究所に侵入したのかね?」

「………………」

 男性は視線を逸らして黙り込んだ。

「なるほど、口を割らないというのかね」

 シュミットは思い出したかのように手を叩いた。

「あ、コードを探す途中で確認しましたが、ラタトュイユの残りが無くなってましたよ。彼、単純にお腹すいてたんじゃないでしょうか?」

「そうなのか?」

 男性は依然と沈黙を貫き通した。あまりに頑固な態度で、アントワープもシュミットも苦虫を噛み潰したかのような顔を浮かべる。

「口よ開け」

 そう呟くと、男性はまたもや口を半開きにして、間抜けな顔になる。その顔を見て、アントワープは満面の笑みを浮かべた。

「博士、人で遊ばないでくださいよ。……あのラタトュイユ、まだ薬入ってたんですか」

「いつ人体実験が必要になるか分からないからね。その都度食べさせる予定だったのだが」

「なるほど! 僕との約束を守る気さらさらないというわけですね」

 アントワープは『サンクルワン』の小瓶を左右に振って不敵な笑みを浮かべた。

「さあ、三十路君。洗いざらい吐くんだ。でないとその姿で、ぐるぐる回転しながらワンワン泣き叫ぶ羽目になるぞ」

「どんなプレイだよっ⁉」

「あー、僕も抵抗しない方がいいと思います。そんな恰好で犬の真似って、死にますよ。人としての尊厳が」

「……くそ、お前たちとんだ腐れ外道野郎だな。分かったよ、喋る――って瓶のフタを開けるな!」

「……チッ」

「舌打ち⁉」

 アントワープは露骨に残念そうにして瓶を懐に戻した。男性は一切彼女らに目を合わせないようにして、渋々語った。

「薬が欲しかったんだよ」

「そういえば筋ジストロフィーが何とかって言ってましたね」

「ああ、俺の息子が病を患ってんだ。医者から聞いた話だと、年を重ねるごとに筋肉が衰えて死んでいく病気らしいな。今は小さいから、まだ走れないだけで済んでいるんだが、これが五年十年と経つと呼吸する筋肉もなくなって死ぬそうだ。それを聞いて、自分よりも先に死んでいく息子の事を考えてると、俺、耐えられなくって……。治そうにも治療薬が開発されてなくてよ。あのアントワープなら病気を治す薬を持ってるんじゃないかって思って――」

「それでここに忍び込んだわけですね」

「ああ、案外容易く侵入出来て拍子抜けしたがな。なんせ玄関のドアが半開きになってたんだから入れないって言う方が無理だった」

「あ、ジョギングの時に閉めるのを忘れてた」

「アホですね」

「ごめんなさい」

「……コイツ、本物のアントワープなのか?」

 縛られた男性は不審そうに白衣の女性を見つめる。

「ええ、一応、あのアントワープ博士ですよ」

「『一応』いらない。それで、三十路君。話を続けたまえ」

「目的の薬だけをくすねて帰ろうと思ったんだが、朝から何も食ってなかったもんだから、腹が減ってしまってよ。台所からいい匂いがするもんで、思わず食っちまったんだ。マジで申し訳ない――」

「いや、謝るところそこじゃないですから。犯行現場で食事ってどんな神経してるんですか。手際よく盗んで帰ればよかったのに」

 口を尖らせながらも、男性は話を続けた。

「それが、いざ薬を探そうとしたら、ラベルに書いてある文字が外国語でどれが何の薬なんだか分からなかったんだよっ」

 男性の言葉に反応して、アントワープは仁王立ちして腰に手を当てる。

「外国語などではない。あれは私が毎晩頭を捻って編み出した『アントワープ語』だ!」

「小学生ですか……」

 青年は呆れ果てて、深いため息をついた。

「残念ですが、そのような薬はここにもありません。警察には通報しないので、お引き取りお願いします」

 男性は落胆の色を浮かべた。シュミットの一言で、彼の身体から力が抜ける。男性は頭を床に垂らした。

「そうか……すまない」


「――いや、あるぞ!」

 威風堂々たる発言に、シュミットと男性は彼女へ驚きの視線を向けた。

「この世になければ、私が生み出せばいい話だ」

「でも、材料も貯金も底を尽きかけてるんですよ。それに報酬も頂いてないのに――そうですよ。まずは依頼された方を終わらせましょう。その謝礼金で金銭的に余裕が出来てからでも、遅くはないはず――」

「シュミット君」

 興奮でいかりあがった青年の肩を、そっと撫で下ろす。優しい眼差しを彼へと向けた。

「人生はお金が全てではないのだよ。世の中には、愛するわが子の為に、罪を犯そうとする父親だっている。その人の気持ち、君には分かるかね? 彼は自分の手を汚そうとしてでも、子どもを一刻も早く救いたいのだ。私たちがするべきなのは、その気持ちに正面から向き合うことではないか?」

 アントワープは軽快にステップを踏みながら、戸棚にしまってある機材を引っ張り出した。フラスコ、ビーカー、アルコールランプ。材料として液体が詰まった褐色の瓶と、青色の花を用意する。

「さあて、シュミット君。魔法の薬を調合しようではないか!」

彼女は振り返って、青年に叫んだ。

「……本当に馬鹿ですね」

 意気揚々と材料を並べる彼女の姿を見て、シュミットは今日何度目かのため息を吐いた。

「ふ、君の褒め言葉は回りくどくて困る」

「いいえ、純粋なる悪口ですよ! 何で機材と一緒にトリカブトが並んでるんですか⁉ 幼い子供を毒殺する気ですか⁉ 人の命に失敗は許されませんよ⁉」

「落ち着くんだ、シュミット君。私の辞書に『失敗』という文字はないのだよ」

「欠陥だらけの辞書ですね!」

「こいつらに頼んでマジで大丈夫なのか?」

 二人の言い争いに、男性は不安と期待が入り混じった笑みを浮かべた。その比率、九対一。

「――って早くこれを解いてくれ!」

 拘束を解こうと、彼は必死にもがいた。

「もう嫌だ……こいつら」

 で、疲れて床に野垂れた。



「――ふぅ、完成したぞ」

「意外と早く済みましたね。……まさか本気でトリカブトを使うとは思いませんでした」

「毒と勘違いされがちだが、アコチニンという成分は、取扱いに注意を払えば強心剤にもなるのだ。また一つ知識が増えただろう」

 人差し指をたてながら、アントワープは自身の知識を教授する。

「はい、お見それ致しました」

 アントワープは男性の傍に屈みこむと、出来たての錠剤を彼の胸ポケットに埋めた。

「お待たせ、三十路君」

「……俺はラインだ。その呼び方を止めてくれ」

「失礼、ライン君。これで絶対に君の子どもは良くなるはずだ。だ。ただ、与え過ぎには注意してくれるかね。さっき助手に教授した通り、アコチニンは取り過ぎると猛毒になるのでね」

「全く何てお礼を言ったらいいのやら……」

 どもるラインの頭をアントワープは優しくはたいた。彼女は温かい目で彼を見つめる。

「お礼なんていらんよ。息子さんが笑顔で、そして何より君が笑顔であることが、私にとって一番の良薬だ」

「本当にありがとうございます」

 再度、ラインは頭を床に打ち付けて感謝の意を表した。

「でも、何というか。もう一つお願いがあるんですが……」

「何だね?」

「これ、いい加減解いてもらえます?」

 アントワープとシュミットは、男性の身体に目を向けた。

「……すまない、似合いすぎて気づかなかった」

「褒めてるようだが、全然嬉しくねぇ!」

 見事な、亀甲縛りである。



「博士、いきますよ」

「はうっ! シュミット君……痛いぞ。もう少し優しくしてくれんかね」

「嫌ですよ。さっさと終わらせたいですし。ほら、力抜いて。手を握って、脚を開く」

「うう……」

 予期せぬ不祥事から時が過ぎて、数日。

 二人はアントワープの部屋に居座っている。生活必需品しかない、非常に飾りっ気のない部屋だった。脱ぎ捨てた衣服は乱雑に放り込まれ、所どころで山になっている。足の踏み場がないほど散らかっていても、アントワープは気にも留めなかった。彼女らはベッドの上に腰かけていた。

 彼女は、ゆっくりとした動作で股を広げる。シュミットは彼女の吐息に合わせて、脚を広げるのを手伝った。アントワープは両腕を青年の方へ伸ばした。

 シュミットは差し出された手を握りしめると、両足で彼女の細い脚部が閉じないように固定して、自分の方へ力強く引き寄せた。

「痛い痛い痛い!」

 アントワープは想像以上の痛みに悶えた。

「大体何で数日経ってから筋肉痛が起きるんですか。代謝悪すぎにも程があります」

「もうランニングなんてしないぞ……。絶対にだ」

 苦痛に耐えきれず、アントワープは目尻に涙を浮かべた。シュミットが掴んでいる手を離すと、彼女は凝り固まった太ももをいたわるようにそっと撫でた。

「あ、ランニングで思いだしました」

 そう言って、白衣の内ポケットから、茶色い封筒を取り出す。

「今朝、ラインさんから手紙が届いてましたよ」

「ライン君ってあの亀甲縛りの三十路君か。どれどれ……」

 アントワープは差し出された封筒を受け取ると、中の便箋を広げた。


  *****


 拝啓


親愛なるアントワープ様


お元気ですか? 私と息子はとても元気です。

 この度は大変お世話になりました。博士から頂いた薬を早速投与させていただきました。その途端、息子はまるで病気になどなかったかのように元気に走り回りました。息子はそれから、日が暮れるまで友達と遊んでいました。日焼けして帰ってくるわが子を見て、私も嬉しいです。


 それについ先日、地域の大会が開かれたのですが、参加させたところ、息子は優勝をとりました。他の子を押しのけて、ダントツの一位です。息子は勝利の味を覚えてしまったのか、将来はプロを目指したいと私に話しています。博士の薬が無ければ、こんな経験をさせることもできなかったでしょう。少し前までは未来を悲観に捉えていた息子でした。それが今では、真正面から向き合っているのです! 毎晩、笑顔で夢を語る息子が愛おしいです。

 息子はもうすぐ八歳の誕生日を迎えます。これからの成長が楽しみで、私も妻も、仕方がありません。


 改めて、謝意を述べさせていただきます。アントワープ博士、貴女には感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。雀の涙程度ですが、これはささやかなお礼です。どうかお受け取りください。

                               敬具


                    ライン・ガワーより、感謝をこめて



 P・S・ 息子の写真もいくつか封入しました。この前の大会で撮影した写真です。


  *****


 封筒の中にはそう綴られた手紙と、現金。そして、満面の笑みを浮かべている少年の写真が添えられていた。

「全く、とんだ親馬鹿でしたね」

 アントワープが手にしている封筒から青年は現金だけを摘みとると、丁重に折りたたんで白衣の内ポケットへ突っ込んだ。

「君は相変わらずブレないな」

「博士に託したら、何に使うか知れたもんじゃないですからね。僕が頂き……もとい、頂戴します」

「結局君が貰うのかね⁉」

「僕にはこれが全てに近いですからね。誰にも渡しませんよ?」

 その澄んだはずの青い瞳からは純真の微塵も感じられない。

「でも――」

「何だね?」

「たまには無償の施しも悪くないのかもしれませんね。――博士、封筒にまだ何か入ってますよ、見てみましょう」

 飛び出た紙を抜き出すと、二人は硬直した。その場の空気が凍りついた。

「……これが息子の写真ですか。トロフィーを抱えて嬉しそうにしてますね。誠に素晴らしいことです」

「それにしても笑顔が似合う元気そうな子だ。白い歯が輝いてみえる。日焼けも程よい具合で、まさに健康児だな」

「ええ、輝いてますもんね。真っ黒なのに……。これって自然になる現象なんでしょうか?」

「おそらくサンオイルのおかげではないだろうか。私も詳しくはないが……。それにしても素晴らしい大胸筋だ」

 写真の少年はモスト・マスキュラーの構えで、自慢の筋肉を魅せている。筋骨隆々とした褐色のボディーは、筋肉に恵まれない彼女らを圧巻させた。

「ボディビルにも地域大会コンテストとかあるんですね。あ、この写真の大臀筋も引き締まってますよ。八歳の肉体とは到底考えられないですね」

「少々薬が効きすぎてしまったようだな……」

 ボソッと呟いて、反省の色をみせた。

「どうするんですか、これ? 『これからの成長が楽しみ』って、筋肉が阻害して身長伸びませんよ」

「本人は喜んでるみたいだから、結果オーライ。ということにしよう」

「……そんなのでいいんですかね」

 青年は小首を傾げて、眉間にしわを寄せた。

 手紙を枕元に置くと、彼女はすくっと立ち上がった。

「おっとっと……」

 で、筋肉痛でよろける。

「ストレッチで身体もほぐれたことだし、そろそろ仕事に取り掛かろうではないではないか」

「ようやくですか。いい加減に『ダイジョ・バナイ』さんの依頼を片付けてくださいね。そうじゃなくてもやるべきことは山ほどあるんですから」

 シュミットの急かす言葉に、彼女は思わず微笑んだ。

「分かっているよ」



 漂う化学物質のにおい。研究室の戸棚に並べられた瓶には、意味不明の怪しい記号が綴られている。並べられた薬剤は少し危険。しかし、アントワープ博士の手にかかれば、どんな劇薬も妙薬へと変貌する。

 今日も彼女はこう叫ぶ。

「――さて、シュミット君。魔法の薬を調合しようではないか!」



(続く)

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コ[メディシン]ドローム 矢口ひかげ @torii_yaguchi

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