【約六百字】大きな桜の木の下で(回る話)
夜が更けると、大気を滑らかに踊っていた水の粒子がとろりと溶けだす。
しっとりと潤む夜気の中に、静かに佇む大樹が一柱。神籬(ひもろぎ)と呼ばれた齢数百を数える枝垂桜の木。
夢か幻か。とうに季節を過ぎたというのに、好き勝手に伸びる枝に八重の花弁がみっしりと花開いている。それが闇の中に山のような樹影を形作る。
八重の花弁に夜気が凝り、玉をなし、落ちる。
花の香りをしとやかに含んだ水珠は、一粒ではない。
花の数だけ凝り、落ちる。五月雨の如く、落ちる。
落ちると、そこに香をはらんだ幻の花を咲かせる。一瞬の、透明な花。
衣はふんだんに湿り気と香気を吸って、夜光に光る。
白い衣。紗々の被布。はしばみの袴。檜扇。烏帽子。重い衣がゆるゆると夜気を混ぜて、持ちあがる。烏帽子の下の女の顔が、なよやかに虚空を見た。
笛の音が響く。桜の裏から。向うの暗がりから。天から。地から。身体の内から。ただ一つの笛の音が響く。
高く。低く。長く。短く。
それはゆるゆるといつまでも続き、気付けばぽつぽつと途切れて消える。
女が揺らぐ。衣を流す。扇が滑る。袴を捌く。指が撫ぜる。回る。天地が回る。桜も周る。時が廻る。
速く。遅く。大きく。小さく。
それはあらゆる時空を数珠つなぎにして、それでいてどことも繋がらない孤独の流れ。
廻り続ける。女も、楽も。
廻り、巡り、繰り返す。
絶えることなく、絶やすことなく、夜光の照らす桜の下で。
人の世の続く限り。
――了――
あとがき
こういう情景が好きなんですが……もっと精進します。
短編集 立津テト @TATITUTETO
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