【約六千字】漸進ラヴァー(恋の物語)

 その日は朝からおかしかった。

 だが、何がおかしいのかと聞かれても、高槻疾流(たかつきはしる)には答えられない。


 そもそも思い返せばおかしいのは一昨日の学校からだった気もする。

 妙に鈴音(りおん)のテンションが高かった。確かに、明後日にデートを控えて浮きたつ気持ちは彼にもあった。


 しかしデートと言っても付き合い始めて半年の二人にとって初めてのデートという訳でもないし、特別なイベントがあった訳でもない。

 二人が気になっていた映画を見に行くだけのちょっとしたお出かけ。少なくとも疾流はそう思っていた。


 学校帰りに立ち寄ることも多いショッピングモールの六階に、映画館は収容されている。

 時刻は十四時過ぎ。ちょうどお昼の繁忙期を過ぎたくらいか。これは昼食を終えた人達が捌けるこのタイミングになるよう計算しての時間だった。

 映画を見終えた後は、一階のフードコートで軽食をつまみながら二人で感想を突き付け合うのがお約束の流れだからだ。


 しかしその日は少し具合が違った。鈴音が少し店先を見て回ろうと言い出したのだ。

 かくして、疾流と鈴音は映画館がある六階からフードコートがある一階まで、アパレルやら雑貨やらのお店を冷やかして物色して、のんびり降りていた。


 無論、疾流に否やはない。これはこれで楽しい時間だった。しかし、気持ちのどこかに小骨のような違和感が引っかかっているのが気になった。

 疾流にはわからなかった。その違和感の原因が彼女、水瀬鈴音(みなせりおん)にあるのか、それとも先程見終えた恋愛映画――話の内容は大人向けのラブストーリーなのに、主演女優があまりにも幼顔でどこか浮ついて見えた――にあるのか、それとも見慣れたはずのショッピングモールのどこかに気付かないほどの変化があるのか……考えてみてもわからない。


 とにかく、何かがおかしくて、気持ちが落ち着かなくて、妙にはしゃいだ鈴音のテンションに少しくたびれてきていた。


「ねぇ、はしるくん」


 ニコニコと、嬉しそうな鈴音の顔が疾流の物憂げな顔を見上げる。

 幸か不幸か、普段から表情をあまり外に出さない疾流の疲労感に彼女が感づくことはなかった。


「わたしね、そろそろだと思うんだ」


「そろそろ?」


 そうこの感じ。今日は朝からずっとこうだ。彼女の話の意味がすんなり腑に落ちない気持ち悪さ。


「うん、そろそろ」


 何がそろそろなのか。そこまで告げずに、彼女は恥ずかしそうに笑って疾流の腕に抱き付いた。まるで喉を鳴らす猫のように興奮気味だ。

 

 シャツのボタンを掛け違ったのに気付けず、ただ着心地の悪さを感じているような……そんな違和感。

 今日は朝からずっと、彼女と自分が噛み合わない。

 

 服装も髪型も、二人で気合いが違う。会話もテンションも天と地ほどの差だ。それでいて鈴音はそれを気にも留めずにはしゃぐ。

 何かがおかしかった。こういう時は毎回ろくでもないことが待っている。

 具体性のない危機感が、落ち着かない疾流の気持ちを更に浮足立ったものにする。


「――ね、どうかな?」


「ん、ああ、そうだな」


 だから、少しくらい話を聞きそびれてしまうのも致し方のないことだった。


「いい、と思うぞ」


「だよねーっ」


 何がいいのかわからないが、喜ぶ彼女の笑顔は嬉しかった。


 気が付くと、疾流はブックストアの前を歩いていた。

 「見ていこうよ」と腕を引く鈴音に促されるまま、本屋独特のインクと紙の匂いの中に入り込む。


 意外と言われることが多いが、疾流は本が好きだ。

 特に好きなジャンルや作家はいないのだが、ただ活字を目にしているのが好きだった。

 活字を見ていると頭の芯がぼうっとしてきて世の中の面倒なものが一切合切遠くに感じられて良かった。だから、内容の方は正直覚えていない事の方が多いくらい、ただ文字を読むのが好きなのだ。

 それを鈴音に話したら、本が勿体ないと彼の読書スタイルを笑った。


 つまるところ、彼にとって活字で書いてあればなんでもよくて、本屋のように文字だらけの場所に入ると普段からぼんやりしていると言われる彼の顔は輪をかけて気もそぞろになる。当然、鈴音の話も右から左だ。


「ね、はしるくん、この後の事なんだけど――」


 二人は本棚の列の合間を、密着したままゆっくりと歩く。くっついていたいという気持ちもあるが、実際問題に他の客が立ち読みする細い通路は並んで歩けるほど広くはない。


「ああ、そうだな……いつものでいいか」


 疾流の目は平積みされたハードカバーのタイトルをなめている。鈴音の言葉を遮る形になった事にも気づいていない。

 鈴音の笑みが強張った事にも、気づかない。


「……うん、そっか、そうだね……そうしよっか……」


「ああ……あ? あー、すまん、何の話?」

 

「ううん、なんでもないよー」


 もう少しだけ早く気付いていれば、疾流はずっと抱えている違和感の正体に逸早く気付けたかもしれない。

 しかしそれにはタイミングと、場所と、天気が悪かった。

 曇りの日は総じて気分が優れずにぼけっとしているのも、疾流という少年だった。特に、雨に変わるような曇りの日は。


 話の流れで一階のフードコートに移動した二人を待ち受けていたのは、嫌味な偶然だった。


「お、リオじゃーん、デート?」


 四人掛け席で談笑する女子三人。疾流も顔見知りの鈴音の友人達だった。


「へーい、みんなは買い物?」


 独特のハイテンションでハイタッチを順繰りに。


「うん、そろそろ夏物じゃん? 水着見に来たー」


「はやくね?」


「見るだけ見るだけ、でも今年は――」


 カレシ連れとなればまず間違いなく起こる女友達のカレシ品評会だが、顔見知りだけあって彼女達の興味は見慣れた疾流には発生しない。軽く挨拶を交わして終了だ。

 あまり口数の多くない疾流としては助かる所だが、困ってしまったのは鈴音がすっかり彼女達のお喋りに捕まってしまった事だった。


「えー、ありえなくね? またダイエットかぁー」


 しかもいつの間にか鈴音も彼女達の席について、隣の女の子のフライドポテトをつまんでいたりする。

 デートの最中に何を考えているんだ……などと思い至る前に、不可解な不愉快が疾流の心に染みを作る。

 四人席にはもう空席はなく、他からわざわざ椅子を持ってくるほどの執着もなく、疾流の頭に浮かぶのは彼女達が話す流行の水着ではなく、さっき見た新刊のタイトルだった。

 どうせ長くなるだろうと、放っておかれた腹いせに疾流はふらりとその場を離れていた。向かう先はもちろん二階の本屋だ。


 そのショッピングモールは建物の中央を五階分ぶち抜いた吹き抜け構造になっている。その吹き抜けの直下がフードコートだ。だから様子を見たくなったら吹き抜けから見下ろすだけで済む。

 三冊ほどのハードカバーを購入した疾流が、そろそろガールズトークは終わったかと吹き抜けの下を覗くと、記憶していた席に彼女達の姿がなかった。

 記憶違いかと思って見える範囲を探してみても見当たらない。


 ぞわりと、背筋が総毛立つ。それはどんな感情がなした逆撫でか。怒りか、悲しみか、後悔か。

 吹き抜けの手摺りに弾かれたように走り出した疾流は、ほとんど無意識でケータイを鳴らした。彼女は出なかった。

 一階のフードコートを見渡しても、やはり四人の内の一人も見つけられなかった。そこにいたはずの彼女達の姿はなくなっていた。


 疾流はそれを超常現象のせいにはしなかった。それならば彼女達がいた席に食べかけのファストフードが残っているはずだからだ。

 話はもっと単純だ。置いていかれた。それだけだ。


 確かに自分は彼女を放って居なくなった。だがそれは彼女にも同じことが言えた。先に自分を放り出して友達と駄弁りはじめたのは向こうなのだ。それを怒って連絡すら拒否するなんて、理不尽にもほどがある。


 今、疾流の感情を揺り動かすのは怒りだ。ふつふつと沸き立つのをなんとか抑え込んでいるような怒り。

 自覚している。これは怒りだ。

 怒るだけの理由が自分にはある。

 どんな理由が?


 心のどこかが待てと叫んだ。同時に、何回目だ、とも。

 一体何回、こんなテストを課せられて、失敗してきた?


 思い出せ。可能な限り思い出す。今日という日を、一から。


 朝から彼女は妙にはしゃいでいた。

 待ち合わせ場所で出会って一目でわかる程、手の込んだお洒落で着飾っていた。もちろん褒めた。

 移動の間もいつになくべったりと張り付いていた。手を握って歩く位は普段からだが、歩く時まで腕を抱え込まれるのは珍しかった。

 映画の最中もそうだ。ラストシーンでは頬が触れるほど近づかれて、どぎまぎしたのを覚えている。

 そしていつもならフードコートに直行するところをなぜかゆっくりと店内を見て回ろうと言い出した。アクセサリショップでは彼女に似合いそうなペンダントを買ってあげたか。


 そしてもっとも彼女に関する記憶が薄い本屋で……何があった?

 彼女は何かを言っていた。だが、思い出せなかった。彼女の言葉も、表情も。彼女に関することは何も、思い出せない。


 疾流は思い出した。あの時、自分が彼女の事を見ていなかった事を思い出した。

 

 彼女達は出し抜けに問うてくる。自分を本当に愛しているのか、ちゃんと見ているのか、大切に思っているのかetc......

 それは本人達も気付いていない衝動的な欲求なのだろうと、数多の経験から疾流は想像している。男は本能で恋をするが彼女達は理性で恋をする。

 だから、男にはわからない。一体自分がいつ失敗したのか。すぐには分からない。

 しかも彼女達のテストは巧妙だ。それは問われている最中であればなおさら、試されていることに気付くことすらできずに、気付いたら落第の烙印を押されている。


 そうやって何回この瞬間を失敗した? 彼女達のテストはいつも抜き打ちで、内容も千変万化だ。

 ちゃんと自分を見ているか、知っているか、考えているか、彼女達は男の心をテストする。無意識に、無自覚に、無遠慮に。


 しかしてそのジャッジは正確だ。

 今回の事も疑いようもないくらい自分が原因だった。

 俺はテストの間、鈴音を見ていなかった。


 鈴音(りおん)の背中をエントランスで見つけた時、疾流(はしる)は人混みを掻き分けて走り出していた。

 その行動は疾流自身にも突飛なもので、顔を合わせて何を言うか、どうするかなんて何一つ考える暇もなく。

 だから疾流は彼女の手を取って、驚く鈴音を攫うように友達の輪から引き剥がした。


「ちょっと、痛い!」


 彼女の文句も無視して、疾流は無理矢理鈴音を引っ張っていく。鈴音の声に振り返った買い物客の視線も気にしない。

 エントランスを出て、正面の国道を左手にショッピングモールの脇を回り込む。するとそこには湾内を一望できる海浜公園が広がる。

 晴れた日には房総半島まで一望できる公園も、生憎の天気に人気はほとんどない。あったとしても、ショッピングモールに屋根を求めて退避する人達ばかりだ。

 そう、外は雨が降りだしていた。どうりで、と疾流は妙に落ち着いた気分で納得した。


「雨降ってきたし、帰る」


 海岸沿いに長く伸びる公園の中ほどまで歩いた頃には疾流の早足も落ち着いて、鈴音も驚きから立ち直っていた。

 酷薄なくらい冷たい声でそれだけ告げるが、縋るように握り締める疾流の手を振りほどこうとはしない。

 彼女の試験は続いている。


 疾流はとにかく時間を稼いで何か取り繕う方法を探していた。

 しかし試験の赤点を帳消しに出来るほどの妙案は出なくて、そもそも妙案なんてあるはずもなくて、だけどこの期に及んでまだ体裁を取り繕おうとしている自分に気が付く事は出来た。


 自分の非を見つけることも、自分が恰好を気にしていることも、始めの頃には考えも及ばなかった。

 全てが変わった。彼女を守りたい一心で、変えてきた。

 それだけなのだ、実際のところ。彼女の何が良いとか悪いとか、そんなことはいくらでも言える。だけどそれが根差すのはたった一つのその一心。


 疾流は自分の傍にいる鈴音が好きで、彼女の傍にいる自分が好きで、手の届かない所にいるなんて想像もしたくなかった。


 雨は少しずつ強くなる。この分だとこのまま本降りになるだろう。

 疾流は来ていた革ジャンを脱ぐと、彼女の頭に被せた。もちろん雨避けだ。

 しかしそれだけではない。


 革ジャンの下でむくれている彼女の唇は、彼女らしい柔らかな薄桃色で、化粧をしているとは思えないほど瑞々しく匂っていた。

 そのふくらみに、勢いのまま自分のそれを重ねていた。


 思えば、この鈴音と唇を重ねるのはこれが初めてではなかったか。

 さりとて、何度経験しても無心に口づけをするなんて芸当は出来ないなと、疾流は高鳴る心音を意識しながら顔を離す。


 そこには、目を丸くした鈴音の顔があった。

 一瞬前まで唇に触れていた感触が信じられないのだろう。細い指先でそっと撫でて、もう一度疾流を見た。

 潤んだ瞳に浮かぶのは動揺と、僅かな不満か。


「ごめん、本当に色々ごめん。俺、朝からちょっとなんか調子悪くて、あ、いや、体調は良かったんだけど、いやそうじゃなくて。それで、今日はなんか鈴音の勢いがイイっつうか……その、なんかガッと来るから驚いちゃって」


 違う、これでは言い訳を並べただけだ。

 革ジャンの下で鈴音の表情がどんどん冷たくなっていくのを感じて、疾流は思わず彼女を抱きしめていた。

 

「本屋で無視してごめん……あの時何か言いかけてたよね、俺、遮っちゃって……ごめんね」


 抱きすくめた疾流の肩をノックするように、鈴音が頷いた。反応はそれだけ。まだ足りていない。


「初めてのキスだったね……ちゃんと雰囲気作れなくて、ごめん。でも、俺もテンパってて……怖くてさ……鈴音がいなくなっちゃうの」


「六十点」


 その採点は出し抜けだった。

 鈴音がゆっくりと、突き放すのではなくきちんと顔を合わせるために身体を離す。

 鈴音は笑っていた。恥ずかしそうに、嬉しそうに、泣き出しそうに、苦しそうに、笑っていた。

 その笑みに、言い様のない安堵と喜びと苦々しさが込み上げる。


 どうして自分は、すぐにこの笑みを忘れてしまうのだろう。

 こんなに、もうこれ以外に何もいらないと思えるほどに浮きたつ心も、日常の中にすぐ埋没する。

 そうしてきっとまた間違える。

 それでもまた、ここに戻ってこれるだろうか。こうして彼女の温もりを確かめられるだろうか。

 喜びの分だけ不安が膨らむ。


 それでも、悲喜こもごもがあるからこそ、一緒に居るのだろう。居られるのだろう。


 この想いを共有したくて、疾流はもう一度キスをした。


――了――


あとがき

自分で書いたものに対して好きだとはっきり言うことはあまりないのですが、これは結構好きです。

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