強請り屋シリーズ番外編 境界に佇む

柚緒駆

境界に佇む

「神のお告げである」

 細い目を吊り上げて、男は言った。言葉に迷いがない。自信と信念を感じさせる。大したもんだ。俺は煙を吐き出すと、座卓の上の灰皿にタバコをねじ込む。6畳ほどのがらんとした和室に煙が広がる。そして胡坐あぐらを組んだ足を軽くゆすった。

「それは通じませんよ、常川つねかわさん。あんたの信者ならそれで納得してくれるんだろう。いや、警察や裁判所もあんたが頭のイカレたオカルトマニアだと同情的に解釈してくれたのかもしれない。だが俺はそうは見ちゃいない。あんたはマトモだ。少なくとも『憑き物落とし』なんぞで、うっかり子供を殺しちまうなんてことは起こさない程度にはね」

「あれは不幸な事故であった」凍り付くような冷たい視線で、常川は言い切った。「あの子供に憑いていたのは歳を経た古狐、生半なまなかな祈祷では退散しなかったのだ。だが私の調伏にあの子供の身体が耐えかねて死亡してしまったのは事実。故にその事実は裁判でも争わなかった」

 そう、常川は裁判で事実を一切争わなかった。結果、地裁判決が確定し、業務上過失致死罪で5年の実刑が課せられたのだ。子供1人を殺して5年、長いとは言えない。しかし殺意の立証ができなければ、殺人罪には問えない。傷害致死に問えなかったのは、死んだ子供の身体に一切の外傷が見られなかったからだ。さらに子供を殺された幸田こうだ夫妻はそのとき共に常川の教団の信者であり、子供の憑き物落としは夫妻の側から常川に頼み込んだといういきさつがある。つまり常川の側に殺意・害意を持つ動機がなかった、というのがこの事件についての一般的な見解だ。けれど俺はそう思っていなかった。

水本静香みずもとしずか、ご存知ですよね」

「知らんな」

「そんなはずはない。あんたが出所してから後、この1年の間に10回、合計1千万円の金があんたの口座に入ってるはずだ。この水本静香からね」

 常川は初めてイラついたように、眉を寄せた。そして座卓の上に置かれた、俺の名刺を見つめた。『五味総合興信所 五味民雄ごみたみお』と書かれた名刺を。

「五味さんとやら」眉毛を神経質そうに震わせながら、それでも常川は、笑顔めいた表情を作って見せた。「私はもう75だ。物覚えが悪くなっている。信者の名前も全員は覚えていられない。まして信者から浄財の布施があったからといって、そのすべてを覚えていることなど、とても無理だ」

「そうですか、覚えてませんか」俺はタバコを1本くわえると、ライターで火をつけた。「この水本って女はね、子供を殺された幸田夫妻の旦那、幸田隆の愛人ですよ」

 しかし常川の表情に変化はない。

「おや、驚かないんですね。まあそうでしょうな。知ってたんですから」

「知らん」常川は目を逸らさない。「信仰の道に生きる者は、そうそう驚かぬものだ。そのように鍛錬している」

「俺はね、常川さん、こう思ってるんですよ。そもそも幸田夫妻があんたに憑き物落としを依頼したのは、水本静香の入れ知恵だったんじゃないかってね」

「ほう。それで」

「水本静香は幸田夫妻、特に旦那の方を焚きつけて、息子の憑き物落としを依頼させた。それと同時に、あんたの側にもある提案をした。幸田の息子を殺してくれたら1千万を払うってね」

「馬鹿馬鹿しい。証拠でもあるのか」

「もちろんありませんよ、そんなもの。俺は警察じゃないんでね。証拠がなきゃ動けないなんてルールは最初から持っちゃいない。俺はね、常川さん。ただの『強請ゆすり屋』なんですよ」

 俺はニッと歯を見せた。常川の眉毛の神経質そうな動きが、大きくなったように見える。

「……そんなことをして、その、水本静香に何の得があると言うんだね」

「復讐でしょうなあ。水本静香は幸田隆と付き合ってから3回中絶しています。息子の存在が許せなかったのではないですかね」

「警察だって馬鹿ではない、そんな事実があるなら、とっくに調べはついているはずだ」

「調べはついていたんじゃないかな。だけど証拠がなかった。それに事が成ったというのに、水本静香はあんたに報酬を払う様子がない。金は動かず、一方あんたは神のお告げを連呼する。それは黙秘と同じことだ。警察もお手上げになる。あんたらの計算通りだった訳だ。あんたは罪を認め、裁判でも一切争わず、最短の懲役で出所してきた。水本静香が金を動かしたのは、その後だ。こうなるともう警察は手出しできない。一事不再理の原則があるからね。業務上過失致死で判決を確定させたあんたらの勝ちだよ」

「そう思いたければ思えばいい。真実は一つだ。私はあの子供にとり憑いた狐を調伏しようとした。その結果起きた事には責任を果たした。強請られるいわれなどない。出口は後ろだ。帰ってもらおうか」

 常川の眼にはまだ頑なさがあった。今日のところはこんなものか。俺はタバコを灰皿にねじ込むと、立ち上がった。



 常川は見送りに来なかった。俺は1人で玄関を出ると、その常川邸を振り返った。今時2階もない平屋建て。だが広い。建物の半分ほどは道場になっているそうだ。向かって左側に広い空間がある。敷き詰められた白い砂利の中に、小島のように岩が置かれている。石庭もどきがあるのだという。そこでは白い着物を着た連中が数人、砂利をならしていた。出家信者だろう。今でも出家在家合わせて数十人の信者がいるらしい。出家だの在家だの、調伏だの布施だのと、言葉を聞くと仏教系の団体のようだが、祀っているのはスサノオノミコトだという。よくある神仏混淆系だ。

 そのとき、強い風が吹いた。まるでさっさと帰れと促すかの如き、その11月の冷たい風に、俺は苦笑を見せると再び建物に背を向け門へと向かった。赤い砂利の中に置かれた黒い飛び石の上を歩く。顔を上げても赤は続いていた。門の両脇に植えられた樹。紅葉した葉と押し固まるようについた小さな無数の赤い実が空へと続く。確かナナカマドだったか。赤い2本の樹の間を潜り、俺は門の外に出た。その目の前に。白い半そでのTシャツ、ベージュの半ズボン、水色のスニーカーを履いた、真っ白な肌の10歳くらいの男の子供。直前に赤を見すぎた俺の眼には、その真っ白な肌の色は、まるで死人を思わせた。いかに子供は風の子とはいえ、この季節にその寒々しい姿はネグレクトに違いない。信者の子供か。これもよくある話だ。だが、そんなことに構っていても金にはならない。俺は子供の横を通り過ぎようとした。

「ねえおじさん」だがその声に、思わず足が止まった。「僕を中に入れてよ」

 澄んだ声だった。無邪気な、子供らしい声。だが俺の腹の底で何かが引っかかった。

「悪いな、ここはおじさんの家じゃないんだよ。用があるなら、ここの人に言ってくれ」

「僕を呼んでくれるだけでいいんだ」

 子供はすがるような眼で俺を見つめている。不思議な眼だった。見ていると吸い込まれそうになる、という例えがあるが、こういう眼のことを言うのだろう。俺は何とか目を逸らした。そして背を向けた。

「悪い、他を当たってくれ」

 俺は逃げるように早足で歩いた。別に何かが怖かった訳ではない。ただ何かが、腹の底にいる何かが、ここを離れろと急かしている。その直感に従った。金が絡んでいる訳ではない。ならば面倒事からは距離を置いておくに越したことはないのだ。背中に視線を感じる。俺は路肩に停めてあった車に乗り込んだ。そしてエンジンをかけ、発車し、最初の交差点を曲がるまで、その視線はついてきたように感じた。



 翌朝、9時。俺としては随分と早起きをして、再び常川邸の門の前に立った。門の外では、出家信者らしき2人が道を掃いている。俺は比較的気の弱そうな、髪の長い若い男に話しかけた。

「常川さんに、五味が来たって伝えてくれないかな」

 若い男は露骨に警戒心を顔に表し、俺をにらみつけるように言った。

「先生は、いま朝のお務め中で」

「朝のお務めは8時までって聞いてるよ。今日に限って何かあったの」

「……いえ」

「じゃあ伝えてよ。大事な話なんだからさ」

「わかりました」

 若い男は不満たらたらといった感じに背を向けると、箒を手に門の中に入って行った。もう1人の中年女性は黙々と歩道を掃いている。俺はタバコに手を伸ばしかけて、やめた。さすがに他人が掃除をしている横でタバコを吸うほど、デリカシーに欠けてはいなかった。俺は何気なく周りを見回した。静かな午前の風景である。行き交う車。犬を散歩させる老人。近くにある中学校から聞こえるホイッスルの音。だが何故だろう、どこか不穏な空気を感じる。どこがどうとは言えないが、どうにも落ち着かない。

 そのとき、常川邸の玄関が開く音がした。門の向こうに、さっきの若い男がこちらに向かって歩いて来るのが見える。俺は門に近づいた。

「先生がお会いになるそうです」

 嫌そうな顔でそう口にした若い男に返事もせず、俺はその横をすり抜け、玄関へと向かった。



 通されたのは昨日と同じ部屋。勝手知ったる何とやら。俺は部屋の隅に置かれていた灰皿を座卓の上に乗せ、タバコを1本口に咥えると、胡坐をかいた。

「大事な話とは何かね」

 常川は冷たい目で俺を見つめた。俺はタバコに火をつける。

「いやあ、昨日は肝心な話をしてなかったでしょう」そして煙を吸い込んだ。「金額の話ですよ」

「金額とは何の金額かね」

 俺はニッと歯を見せた。口の端から煙が漏れる。

「百万で手を打ちましょう」

 常川はしばし呆気に取られたような顔をしていたが、ふいにその口元が歪んだ。

「君に百万払って、私が何を得られるというのか」

「そりゃ平穏です」

「私は今だって平穏だ。君さえ来なければね」

「百万もらえりゃ、俺は2度とここへは顔を見せませんよ。それにね」

「それに、何だ」

「俺にも生活があるんでね、金を払ってもらえないとなると、この話を誰かに買ってもらわなきゃならない」

「マスコミにでも売りつける気か」

「マスコミ、とんでもない。連中は蚊みたいなもんですよ。何のリターンも寄越さずに血だけ吸って行きやがる。そんな奴らに大事な情報が売れる訳がない」俺はもう1口、タバコを吸い込んだ。「こういう情報を買ってくれるといやあ、ヤクザになりますかね」

 常川の眉が寄った。それでも顔色は変わらない。度胸はさすがだ。

「俺だってヤクザになんか売りたくはないですよ、買い叩かれるのが目に見えてますから。でもあんたの事を調べるのに、結構金もつぎ込んでましてね、手ぶらで帰ったら飢え死にしなきゃならない。わかってくれませんかね」

 もちろん、誰かから調べてくれと依頼された訳でもない。俺が勝手に調べただけだ。道理を言うなら、常川が理解する必要はない。金を出す理由もない。だが俺は、道理をひっこめ無理を通して金をせしめる強請り屋だ。金を出させなきゃ話にならん。しかし、常川は2回、手を叩いた。常川の背後の襖が開き、白い着物の信者たちがなだれ込んで来る。

「お客様はお帰りです。玄関まで送って差し上げてください」

 俺はつまみ出されてしまった。



 屋根を叩く雨音が大きくなった。ワイパーの動きを1段階上げる。ウインカーを右に出し、ハンドルを切る。そして2つ目の交差点。左に曲がり、ハザードを出し、路肩に止まる。高層マンションの前。駐禁は怖いが、近隣にコインパーキングもないので仕方ない。水本静香の部屋番号は調べてある。あとは中に入れてくれるかどうかだが、まあ当たって砕けろだ。とにかく正攻法では常川から金を引き出せない。ならば、からめ手だ。水本静香が金を出すのならそれで良し、出さなくとも常川に対するプレッシャーになるなら、やるだけの価値はある。俺は入り口の自動ドアに向かった。その前に。

 白い半そでのTシャツ、ベージュの半ズボン、水色のスニーカー。あのとき常川邸の前にいた、あの子供だ。一瞬見間違えたかと思ったが、間違いない。濡れたTシャツに白い肌が透けている。冷たい雨に打たれながら、寒そうにマンションの入り口前に立っていた。もしかして、このマンションに住んでいるのだろうか。

「おじさん」俺が子供の前に立つと、自動ドアが開いた。「僕を中に入れて」

「寒いんなら勝手に入ればいいだろう」

 しかし子供は悲し気に微笑んだ。

「おじさんが入れてくれないと、ダメなんだ」

 新興宗教にハマった頭のおかしな親の狂ったしつけ、そんな言葉が脳裏をかすめた。だが何かおかしい気がする。何だ、一体どこがおかしい。無視しろ。腹の底で何かがそう警告を発する。しかし、俺もこれからこのマンションに入らなきゃならない。まあ、何かあったら勝手に入って来たと言えばいいか。俺は自動ドアの内側へと足を向けた。

「んじゃあ、入ってこいよ」

 俺が呼ぶと、子供は満面の笑みを浮かべ、自動ドアからその内側へと足を延ばした。そろり、と一歩踏み出す。そしてもう一歩。その身体は完全に建物の中に入った。

「入った。やっと入れた」

 子供は小さな声で、嬉し気につぶやいた。おかしなガキだ。

 自動ドアの内側には、もうひとつ自動ドアがあった。だがそれは前に立っただけでは開かない。内側から開けてもらわなければならないのだ。俺はインターホンパネルのボタンを押した。6、0、8、そしてコールボタン。部屋の主はすぐに出た。

「はい」

「すみませんが、水本静香さんのお宅でよろしいでしょうか」

「……なんでしょう」

 人殺しの件について、と言えばインパクトがあるかな、とも思ったが、子供に聞かれているところで口にするのは少々はばかられる。子供に口止めは効くまい。何せ、こっちは後ろ暗い強請り屋である。後々の事を考えれば、少し遠慮した方がいいかもしれない。

「あの事件のことについて、少々うかがいたいのですが」

 しばし沈黙が流れた。そして。

「どうぞ」

 自動ドアが静かに開いた。その瞬間、風が吹いた。子供が物凄い勢いで内側に走り出した。あっという間に姿が見えなくなる。階段室でもあるのだろう。やはりここに住んでいたか。とはいえ、こちらは6階まで行かねばならない。エレベーターを使うしかない。上りのボタンを押すと、3階に止まっていたエレベーターは、静かに降下を始めた。



 途中で止まることなく、エレベーターは6階へと到着した。水本静香の顔は頭に入っている。そうたいした美人ではないが、そこそこ男好きのする顔だった。幸田隆とは職場の同僚だという。ありがちな話である。608、608、部屋の番号を見ながら俺は廊下を進んだ。構造的にはいわゆる外廊下、外側からドアが見えるタイプのマンションだ。その廊下を真ん中ほどまで歩いたとき。突然、目の前のドアが開いた。開くと同時に、女の叫び声が聞こえた。叫びながら裸足で駆け出してきた女は、俺の顔を見るなり、さらに絶叫した。そして。目の前の手すりを乗り越え、宙に身を躍らせた。6階の高さから。ドアの隣に書かれた部屋番号は608。水本静香はコンクリートの地面にその身を叩きつけ、肉塊となった。



 冗談じゃねえぞ冗談じゃねえぞ。何が起こった。何で水本静香が自殺しやがった。いや、それはいい。良くはないがこの際どうでもいい。問題はマンションの防犯カメラに俺の姿が映ってるだろうって事だ。俺は警察には顔が知られてる。すぐに映像から俺にまでたどり着くだろう。ふざけんな。確かに俺は汚いことは何でもやって来た。だが人殺しに手を染めるほど馬鹿じゃない。なのに、このままじゃ人殺しにされちまう。逃げなければ。すぐに高跳びしなきゃならない。しかし金がない。金が、金が要るんだ。金が。



 深夜は2時を回った。もう俺のアパートには警察が踏み込んでるかもしれない。戻るわけには行かない。俺は周囲を何度も確認して、車を降りた。そこは常川邸の裏。俺が知る限り、多額の現金を保有している可能性の一番高いところ、それがここだった。手には折り畳みナイフ。普段は車のダッシュボードの奥に隠しているのだが、まさかこんな形で使うとは思ってもいなかった。俺は車のボンネットに手を着いた。常川邸の周りを囲む塀はあまり高くない。車の屋根を踏み台にすれば乗り越えられそうな高さだ。もう一度周囲を確認して、バンパーに足をかけた、そのとき。

「おじさん」それはあの子供の声。「僕を中に入れてよ」

 俺は周りを見回した。

「どこだ、どこにいる」

 しかし、子供は姿を見せない。夜の闇の中から、声だけが響く。

「僕の名前を呼んでくれるだけでいいんだ」

「今おまえに付き合ってやるほど、俺は暇じゃないんだよ」

「でもおじさんは、きっと僕のことを呼びたくなるよ」

「……おまえ、あの女の死んだ理由を知ってるのか」

 返事はなかった。俺はまた闇の中に、ひとり孤独に立っていたのだった。



 ガラス窓の真ん中にナイフの先を当て、靴でナイフの尻を叩く。小さな音を立てて割れたガラスの隙間から指を入れ、クレセント錠を開ける。警備会社とでも契約していれば、これだけでもうアウトだろうが、この家に限ってそれはない。警備会社も銀行も、一切信用していない、常川はそんな男だった。静かに窓を引き開け、真っ暗な部屋の中に入り込む。ここは確か、祭事用の道具置き場だったはずだ。常川邸の間取り図は強請りはじめる前から頭に叩き込んである。備えあればうれいなし、はちょっと違うかもしれないが、そんなところだ。ペンライトを点け、辺りを照らす。人の気配はない。足音をさせないように静かにドアに近づき、そっと開ける。廊下にも人はいない。常川邸はドアの部屋のあるブロックと、ふすまの部屋のあるブロックが分かれている。まず狙うのは、ドアのブロックの一番奥、教団事務室。金庫がありそうなのはここだ。足音を忍ばせ、廊下を進む。うぐいす張りとかあるかとも思ったが、廊下に仕掛けはないらしい。俺は事務室の前に立ち、静かにドアを開けた。ペンライトで照らす。中には誰も居ない。素早く事務室の中に入る。そして金庫を探す。壁面に沿って探したが、金庫らしきものは見つからない。しかし顔を上げたとき、ふとそれが目に入った。入り口から見て一番奥の机の上に、無造作に置かれていた、手提げ金庫。ナンバーを合わせなければいけないだろうか、と思ったが、前面のレバーを押すと、簡単に開いた。中には小銭と、1万円札が5枚。こんなもののはずはない。こんな金額で、教団の管理などできる訳がない。どこかにまだ現金があるはずだ。俺は万札をポケットにねじ込むと、事務室を出た。

 事務室の向かいは襖の部屋。たしか、祈祷所だ。幸田隆の息子が死んだ部屋。その奥に、和室がある。常川の寝室の可能性が高い。俺は改めてナイフを握りしめた。襖を静かに開ける。踏み入れた足に硬い感触。板の間だ。ペンライトを動かすと、向かって右側に大きな神棚がある。下は床上50センチくらいから、上は天井すれすれまで壁一面を埋め尽くす大きさの神棚。その真ん中、神社なら鏡があるのであろう場所に、額に入った書が下がっている。そこに見える、『須佐之男命すさのおのみこと』の文字。そして。神棚の端に、小さな写真立てがあった。それは家族の写真。父と、母と、息子の三人家族。俺はライトを近づけた。父親の顔は知っている。幸田隆。ならば当然隣にいるのはその妻の葉子ようこだろうし、二人の間にいるのは。俺の眼球が、凍ったかのように動きを止めた。

 部屋の明かりが点いた。襖が次々に開けられる。白い着物姿の出家信者たち、そして常川がそこに立っていた。

「神域を侵すとは、罰当たりな。最早もはやただお帰りいただくという訳には行かん。少々痛い目を見てもらおう」

 だが俺の眼は、まるで吸い付いているかの如く、写真立てから離れない。

「何故だ」その子供の顔を、俺は。「何故この写真がここにある」

「何を言うかと思えば。決まっているだろう。死んだ子供のために毎日供養の祈祷を上げているのだ」

 その常川の言葉に、俺は首を振った。違う。

「それは違う」

「何」

「幸田の息子は、どんな子だった」

「大人しく優しい、だが脆弱で意志の弱い、低級霊に憑かれやすい子供だったな」

 そうだろうか。もしそうならば、水本静香は何を見たのか。

 誰かが俺の手をつかみ、両腕をねじり上げた。前のめりに倒され、ナイフもペンライトも床に落ちた。抑え込んでいる奴が言った。

「警察に突き出しましょう」

「いやその前に、二度と我々に関わりたくないと思ってもらわなければならん」

 常川の言葉に、信者たちは暗い笑みを浮かべた。

「じゃあ腕の1本も折っときましょうか」

 ねじ上げられた腕に、力が込められた。そのとき湧き上がる衝動。俺の口からその名が飛び出した。

「ツヨシ!幸田ツヨシ!入ってこい!」

 刹那、風が吹いた。部屋の中に、ごうごうと唸る疾風が。その風に乗って、野獣の咆哮が響く。何かが裂ける音。俺の顔に生温かい飛沫がかかる。錆びた鉄のような臭い。身体が軽くなった。思わず顔を上げる。俺の眼は見た。巨大な夜のように黒い獣が常川の喉笛に食らいついているのを。

「先生、先生!」

 いくつもの悲鳴と絶叫。俺はそれを背に這うように走った。いくつもの足に当たったような気がする。それでも前に進んだ。外へ。外へ逃げないと。それから何をどうしたのかは覚えていない。気づいたときには車に乗っていた。その車は電柱に突っ込み、動きを止めている。身体から力が抜けて行く。遠くにサイレンの音が聞こえる。薄れゆく意識の中で、昏睡と覚醒の朦朧もうろうとした境界に、何かが確かに、俺の隣にいた。それは俺を見つめて微笑み、そして最後に、こう嬉し気な声を上げた。

「こん」

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