[本編]

 フロントガラスから、大きな丁字路を覗くと、アスファルトに日脚が伸びていた。

 「丁」の縦の部分で降車し、地面に足を着け、外界の気を取り込む。酸素濃度は非常に濃い。

 早朝の真新しい空気がまだ生きている。丁字路には一人すら、通行人はいなかった。

 しかし、日の角度は大抵の人間が活動を始めてもいいほどに高度を上げている。鳥のさえずりも蝉の鳴き声も響いてはいない。

 ガラスとコンクリートがスプライトに並んだビルに、ちょうど東から登ってきた日がその全面に当たって、半分がはね返されていた。

 縦の部分も左右がビルに囲まれており、後ろは線路が上を横切る小さなトンネルのようなものだった。

 その、閉鎖的とも取れる青黒い陰の塊のような背後からやっと抜け出して、アスファルトの日脚、それから眼前のビルに反射した太陽の高度を確認して、さらに上を見上げれば、やはり予想していたとおりの青空。

 太陽を見ずともそれがいることを再確認できる。

 早朝の潤った空気に加え、ビル風というか――単に日の陰にいるだけからかもしれないが、しかしそれはこの暑い季節にしては驚くべき涼しさであった。人がいないからかもしれない。

 普段は人と人が、互いの熱で溶けて混ざり合うように行き交うここを知っているからこそ感じられたもの。

 だからといって、ここが特段寂れているとも感じられない。

 普段は見えない、日脚や青空や涼しさが、それらを補っている。

 いや、補っていると言うより、交代していると言った方が適切か。

 座標的には同じでも、同じ場所とは言い難い。持っている性質が全く違う。

 あるいは、もともと持っていたこれらが、人の雑踏によってかき消されていたとも言える。

 人を消すだけで、こんなに現実と離れた演出が可能になる。 人間は集団の生き物だから、自分のほかに人がいないことを心底では恐れているのかもしれない。その機微な恐怖を、非現実感ゆえの静かな興奮と取り違えるのだ。

 自分ひとりの世界。

 他の存在によって認知できなかったあれこれを、それらが消え去ることによって自分だけが読み取れる。そんな陶酔かもしれない。

 いや、自分などない。あるのは五感と思考だけだ。

 ものを思う高性能ドライブレコーダーとでも言おうか。

 大昔の哲学者が言うに、自分の肢体は錯覚と仮定することは可能だが、この思考そのものを生み出しているそれ自身は非実在とはできない。

 加えて、そもそもビルも道路もトンネルも自然物ではない、他の存在がいなければ成立しない。

 だから、ものは見様という話だ。なんて簡単にまとめておこう。ありきたりな理論だが、こういう孤独の下では発色も若返るかもしれない。

 さて、今更だが、ここは鉄道駅。電車に乗らねばならない。

その輝く正しさの塊のような陽の作る、青黒い陰から陰へ、逃げるように歩き、階段を下りる。

 青を基調としたシンプルなホームに着いた。

 人はここにもいない。

 ホームに人っ子一人いないなんて、鉄道会社は商売になっているのだろうかなどと考えつつ、自動販売機にて購入したコーヒーを啜る。

 これは、いわゆる地下鉄であるので、地上よりは温度の振れ幅が狭い。でももし、あの脆そうな陽の地上支配が、いつもの暑苦しさにとって代わられ、それがここに伝播したら、人の数は勿論、この空気感もなくなるのだろうか。先に地上がそうなるとは限らないが。

 考えても仕方のないことだが、苦いコーヒーを飲み干すには丁度いい意識の逸れくらいにはなっただろう。

 さっきまでなんとなくもやがかかっていたような脳内が、それの成分のせいで冴えた、かもしれない。

 そこで思い出したことがひとつある、色について。

 このホームを見て思い出したのだ。

 今日の社会では、保冷や冷却を目的とする製品などには必ずと言っていいほど青系統が彩色されている。思えば、雨など水に関係するものも、絵にするときは青で描くことが多い。またガラスや鏡なんかも簡略化された絵ではとくに青系統が好んで使われているだろう。

 海は確かに青く染まっているが、あれは大規模に広がっているから光の成分の性質のせいでそうなっているだけであって、ただの水たまり程度、目に青く映ることはまずないだろう。

 しかし、あれらはなぜ青く描かれるのだろうかと考える。

 言わずもがな、それら青が使われるものの共通点は、冷たいということだ。

 人間の主観で、人間の体温よりも基本的に冷たい。だから単に冷たいものに青が用いられるだけかもしれない。青は海から取ったとか、そんなところだろう。

 逆に考えて、人間が温かみや暑さを感じるものに普通青は当てられることはないようにも思える。

 別にこの分野に関して教養があるわけではないが、良く分からない物事には意味づけをしたがるのが人間なのかもしれない。

 全部予想だし、錯覚の可能性もある。特に色覚なんかは。

 それで言えば、妖怪変化、怪異などもまとめればそれらの類いと同じものだろう。

 意味づけ。

 わからないものをわかろうとするには、こちらから決めてやらなければならない。少なくとも、わかろうとする者の思考内では必ず。

 それが錯覚であったとしてもだ。

 決めつけて正しかったことなんてないだろうし。

 話を戻せば、色がもたらす効果、実際には視覚だけの情報が他のところに、正に、錯覚のような影響を与えるみたいだ。

 青は涼しくて、冷たいらしい。

 青に関する意味づけはこんなところだろう。

 いや――しかし違和感を覚えた。

 この違和感にも意味を見出さなくては――と思った矢先、

「二番線に、……行きの電車が参ります」

 構内アナウンスだ。そしてこれに乗る予定だった。

 それに気を取られて一旦考えを止めてしまった。


 誰も乗っていない電車だった。ゆえに、乗客は一人になった。



 再びあの違和感が息を吹き返したのは、地下鉄の車窓から青空を見上げたときだった。

 地下鉄なのに地上を走るとは何事かと思うが、景色が見えるのは悪いことではない。流石に、地上に地下鉄の駅があったことには結構驚いたのだが……

 で、そう、青空だ。空は青くて当たり前だ。青を見て連想するものに空があっておかしくない。

 だがここで言及したいのはそこじゃない、この季節の青空は突き抜けるように濃く青に染まっているのだ。

 ここらは割と発展しているから汚れた空気が邪魔をしているが、昔どこかの高原で見たそれは真っ青そのものだった。

 だから言いたいのは、この季節を連想させるに、真っ青の空は十分すぎるほど関連しているように思われることだ。

 他の時季だって確かに青空はあるが、真っ先に青空を浮かべると言えば、今だろう。現に他の季節にはそれぞれの色が、花だったり葉だったり天候だったりでがっちり固められている。

 今までの青との関連だが、空のもつそれに清々しさは感じるし、それは涼しさや冷たさとも繋がりそうだ。

 しかし、ここで注目すべきは、『この暑い季節が、涼しさや冷たさを表現する青で連想される』という点だろう。

 さっき考えた前提が転覆しそうだが。季節においてはその限りではないという注釈を加えなければ。

 これがあの違和感そのものだったかは、今となってはもうわからないが、上手く説明しきっていないことは確かだった。

 いったい青ってのはなんなのだろう。

 ちなみに、電車内は冷房が完備されていたので、汗ひとつかかずに済んだ。

 いや、それより強い理由に、他に人が乗ってなかったことがある。

 前述の通り一人で乗車したわけだが、思い返せば少なくともこの号車に後からの乗客はいなかった。途中で乗って、途中で降りた可能性は否定できないだろうが、人がそこにいた温かみというか、熱さはここには感じなかった。ほかの号車を覗いてはいないけれど、多分誰もいないのだろう。

 そんな冷たさだった。

 今は地上を走っているし、青空だから、差す陽はたしかにさっきは電車内を支配しているが、如何せん青すぎる空の色と冷房のせいで、そう感じるのか。

 今までの各駅のアナウンスは聞こえていた気がするし、電車もダイヤ通り運行しているところを見ると、操縦者と車掌は存在しているようだが、不思議とこの電車に一人で乗っているように感じる。

 これも青のせいかもしれない。

 孤独に再び酔うか。でもよく考えれば今までもずっと独りだった。

 車窓と車窓のあいだに、陽のあるほうに背を向けた形で座っているから、青黒い陰に包まれて、それが陶酔を助長させるのかもしれない。

 心地よかった。





 一睡してしまったようだ。首の回りが悪い、まるでオイルが切れたボルトとナットみたいに。

 気がつくと雪国だった――わけがなく、しかし森の中だった。

 雪国だったとしてもこの季節では雪国と呼べるほどの証拠が存在しないというものだ。

 電車はまだ進んでいるし、時計を見るとほんの十数分の居眠りだったことがわかった。

 車窓から差し込む光が、陽から木漏れ陽に変わった。陽が差し込んでいたときよりも光が支配する範囲と陰とのコントラストは明確ではない。

 森というのは目覚めたときに思ったことであって、再度車窓を覗いた、それはどちらかというと林だ。

 人工林ではないらしい、間引きなどが施された跡がない。

というかそれよりも、人工林でも天然林でも、まずこの地下鉄の沿線にあっただろうか……ここを利用することは少ないし、するとしても全体の路線でいうところの真ん中に当たる範囲をちょろちょろするだけだから、両端に近いところなんて知らない。しかしこんな不便な場所に線路を通すとも考え難い。

 それから、あくまで今は『車窓から』がつきまとうが、空が見えない。背の高い樹木が空を微妙に埋めていて、木漏れ陽は滴らせても、きっとまだ青いであろう空を映そうとはしないつもりみたいだ。

 ちょうどいい具合に閉鎖的、とも言える。外界の存在を知らせながらも拘束するような意地の悪さというか。

 それからしばらく車窓を覗いていると、線路がカーブした先、駅があることに気がついた。

 生い茂る樹木のせいでかなり霞んでおり、かなり遠くにあるが、不思議とはっきり捉えられるものだった。

 徐々に近づくにつれ、ディティールも見えてきた。流石に電気は通っているみたいだが、かなり古い作りをした、停留所と呼んだ方が適切かもしれない、小規模な駅だ。この地下鉄特有の青色を基調としたホームは、健在。

 もちろん人が居そうな気配はない。体温が感じられず、外からみてもどこも全てが林と同じような「熱さ」であることがわかる。

 ……別に今、急ぎの用で乗車しているわけではない。この路線の端に近づいたことがなかったから、単に気になるという気持ちもあるし、現実的に林の中を走る地下鉄なんて容易に考えられない。そして、そんなところに駅がある。気になる。寄り道くらい、魔が差したとまでは言わないだろう。

 強いていえば感覚に光が差したのだ――電磁波が通過した。

 これは降りざるを得ないな。


 『あれは昔利用されていた駅の廃墟で、現在は電車が停らない』というオチだったなら、今までのわくわくというか、描写のアレコレが全て水泡になるというものだが、幸いにも、そんなことはなかった。まあ、かなり古いものであることは確かだが。

 下車し、周囲の様子を伺いつつホームを歩いてみた。

 やはり外から見たとおり、電気は通っているが、そもそも人がいたという残滓が感じられない。手すりの汚れや残留している臭気がない。

 コンクリートの床はひび割れて苔に侵食され、柱に施されていたであろうコーティングもほぼ全てはげて錆が丸見えになっている。建物の周りが林なので緑の木漏れ日も相まって自然に淘汰されたようにしか見えない。

 とはいえ、天井に下げられた電光掲示板はちゃんと動いている。電車が近づいたときはそれを知らせるのだろう。今は、黄色の点字ブロックを越して電車を待つなという警告を示している。駅としての最低限の機能は、備えてるようだ。

 ただ、電車が停まって扉が開く際、この駅にはアナウンスが一切なかったことは記しておこう。


 それからこの建物を軽く物色して、ほぼこのホームには、外界との区別がないことがわかった。乱れた違和感もない。土の地面から足をかければホームによじ登れるのだ。

 しかしそこは良心を問う設計なのかなんなのか知らないが、改札機はきちんと設置されているのだから不思議だ。勿論、システムの関係上この駅で無銭乗車しても降りる駅で引っかかるといえば、そうなのだが。

 屋根も柵もない、かろうじて区別されているといえば、入口以外で外から入るには、よじ登らなければならないくらいには、土の地面より高いこと。その、ホームの切れ端側面は、なにかに切り取られたように凸凹しているから、生物の温床になっているようで、侵食が激しい。

 もちろん良心は捨てていないから、いささか不格好だが上からのぞき込んだ。

 それから、他の設置物の細かいところまで、一応調べてみた。


 ホーム内物色もひと段落、きちんと改札から駅を出る。

出たはいいものの、そこからはやはり単なる林で、獣道さえ見 当たらないから、とりあえずは駅周辺を回ることにした。

 外から近くでよく見たら、外壁(と思っていた部分)も、切り取られたように凸凹していた。

 こういうデザイン、というにしてはデメリットが大きすぎる気がする。

 デザインをどこかの芸術家に頼んだのだろうか、だとしたらありえる。アーティストの心は他人に安々とは知れない。

 ……さて、どうしたものか。

 林の地面は程よく湿っていて、所々に樹の根が張り出しているが、空を閉ざす葉々のせいで雑草などは少ない。駅周回も段落がついた。

 進んでみようか。


 改札側の、線路とは直交するような向きに進み始めていた。一応、目印の乏しい林のなかにも、駅の近くにかなり大きな樹が天を穿つかのようにして(本当に伸びているのかはわからない、林が空を覆うので幹の太さから推測した)聳えていたので、その横から林に突入することにした。

 空を閉ざしても青はまとわりついてくる、微かな木漏れ日が、電車で出会った青黒いそれと同じものを強調する。

 鳥や虫の音色はここでも聞こえてくることはない。鬱蒼とした林のなかでも、一人に陶酔できるのか、冷たい青の中で。

 ある程度進んで、背の低い草が少しと、苔。後は広葉樹が上の方で葉を広げている。しかし他の動物と呼べるものは全く見当たらないことに改めて気づいた。見当たらないし、音も聞こえないし、『存在』が感知出来ない。さっき林の中で建物を見出したときの感覚はない。

 こんな生態系が成り立つのか、不思議だが。

 実際、この林が座標的にどこにあるのかは、前の駅名を聞いておけばあるある程度分かるのだが、残念ながら林に入ってから目が覚めたのが残念だ。今の状態では単体で調べる手立ては無い。いや、おそらくあの廃墟めいた駅に、あそこそのものの駅名も書いてあった……多分確認したはずだが、ついさっきの記録が掠れている。単にその表示を駅が欠いていたからだろうが。そう思いたい。

 戻りたくはないし。

 とにかく駅名は不明だ。

 わからないことは多いが、困っていることはない。

 内に知的好奇心が組み込まれているのだからそれに従うまでだ。

 この先に何があるのか――否、何かあるのか、その疑問だけが不思議と意識を支配している。あくまでも必要性ではなく、好奇心である。

 普段よりも感覚が研ぎ澄まされているようだ。視力や聴力が良くなったらしく、すべてが鮮明に感じる。

 その理由にも着目せずに、愚鈍にも着目せずに進む。



 たとえ感覚が研ぎ澄まされていても、見るべきものも、聞くべきものもなければ意味がないじゃあないか、と気づくのはかなり進んだ後だった。

 どれだけスペックの優れたコンピューターでも機械音痴が使えばただのブラックボックスだ。

 進行はするから、同じ木はひとつとしてないのだろうが、主観としては林と捉えて一個なので、変わりないものであるし、もちろんずうっと無風ということはないから、木々が各々の手を鳴らしている音はつかめる。しかし、なんともったいない。こんな機会を逃すなんて。まあ、機会と言っても、明確に数値として良くなったとか、根拠はないのだから錯覚かもしれないけれど。

 ただやはり欲は抑制されるほど強くなるようで、大して変化のない林の中を歩いているとほかの景色も見、聞きたくなってくる。

 あの青空をそろそろ見たい。あそこまでの天気はなかなかない、と記録にも残っていることだし。前述の通り、空が明るいことは木漏れ日で掴めても、空自体が見えるほど隙間は開いていない。先ほどの好奇心は衰えていないがいささか怠さも芽生えかけてきた。

 しかし――いくら歩いても際限がなさそうだ、線路に沿って歩いていればまだ目に見える進み具合というものも掴めたかもしれない――戻るか。

 と、判断を下し、踵を返そうとした、回れ右をした左眼――横目にちらりと、木ではない、もちろん苔でも土でも草でもないものが、映り込んだ。木漏れ日をしっかり照り返してこちらまで届けた。

 いや、さっきまで前を向いて進んでいたし、視界もはっきりしていたはず……視線は横目になっても今までの進行方向を指していたが……はて。

 しかし、唐突にいきなり現れた、という感じではない。なにしろかなり自然と、自然な状態で、自然に溶け込んでいる。林との境目もないほどに溶け込んでいる。瞬きをする度にさっきまで何も無いように見えていたこの視覚情報の記録が逆に疑わしくなる。

 但し、それがそれでなかったならば。

 まったくもって不自然極まりない。

 現れたのは――果たして、線路と、その奥の――さっき発った駅だった。


 直感で決めかけてしまったが、早計だと思った。線路に直行して直進してきたはず、いやしかし景色の変わらない森林では方位磁石でもない限りまっすぐ進むことは簡単ではないと聞く。でも流石に、円を描いて返ってくるなんてことはないだろう。

 もうひとつの可能性は、単に別の駅ということだ。だとすれば、同じ鉄道なのだから駅の外観も似て当然である。進行方向は線路に直行してはいたが、その線路が何らかの事情で弧を描いており、その駅同士を結んだ線上を歩いていたという仮説も立てられはするだろう。

 何はともあれ、建物に入って中を見れば、どちらの判断が正しかったのかはわかるだろう。勿論、期待を含めて。

 しかし、調べた結果、同じ駅であることはほぼ確実だった。そもそも外壁のデザインといい、柵がないことといい、そのままだった。ちなみに、先ほどわからなかった駅名の件だが、やはりその部分は表示が欠けていた。追記して、今回は電車に乗ってきたわけでも、ここから乗るつもりでもなかったが、万一のため改札から律儀に入った。


 はぁ、どういうこと。偶然にも、偶々々然にも同じ場所に戻って来たということなのだろうか。現実的ではない。ではないが、目の前で起こっている現実だ、多分。確率的には奇跡くらいのものだろう。

 二度と起こるまい。

 だからどうするのかと問われても勿論何も答えは出ないわけで、とりあえず駅から出だ。この林を抜けるという好奇心は吹き消されてはいない。

 先ほどと同じ向きに進んでみる。勿論、弧を描いて戻ってきてしまったらしいから、途中で修正をしつつ、だが。

 風も大して強くないし、こんなに生き物の息遣いも見つからないような林では一日のうちにさっきの進行の痕跡が消えるなんてことはないだろう。地面は割と細かく柔らかかったから、跡は残りやすいはずだ。

 しかし――果たして、どこを探しても先ほどの進行の痕跡は微塵にも見いだせなかった。どころか、さっきの記憶よりも林が繁茂しているような――たしかに地面が見えていたはずだ、こんな密度で一年草の平行脈が行く手を阻むように生えてはいなかったはず。探す場所を間違えたのかとも思ったが、先ほど、林侵入の目印にした大樹はそこにあった。

 おかしい、いくらなんでも同じ日のうちにここまで急成長する植物はいない。とっさに時計を覗いたが、あの時点での時刻を確認していないためあまり意味がなかった。いや、時計を見たのは単に時間経過がおかしいと思ったから、本当にとっさの行動だったのだ。あまり意味は見いだせなかった。時計を照らし合わせるのは性分のうちだと言われるが、しかしこの日の動きが見えない林では時間の経過というものを気づくには乏しい情報量だ。さっきは青空だと思っていたが、それこそ危ういのではないのだろうか。でも林は一定の明度を保たれているし……しかも植物が急成長している……勿論好奇心は増すばかりだ。

 考えていると熱くなってきたから、そのまま大樹の横を通りさっきの記憶を辿り這入る。やはり足跡は残っていないし、なにしろ先ほどの大樹が異常なだけで、他の景色は掴みどころのない木々であるから、違っているのかどうかはよくわからない。

 草だけでなく、心無しか先程よりも枝や葉が増えているように感じる。

 今度こそまっすぐ進む。行ったりきたりしながら、今までの進路とこれからの進路を見比べて、少しでも直進するように。

 進む、進む、進む進む進む進む進む進む。今度は草をかき分けて。草木の緑を青いと形容するが、ならばこの進路はさっきよりもかなり青々としていた。進む。



 またここか。再び駅に出た。こんな偶然、否、偶々々々然は流石にありえない。と判断したものの、できることもなく、何故か線路を越えてまた大樹の横へ移動してしまうのだった。

 先程よりもここが若干暗い気がしないでもない。そういえばここに出る前はかなり木を避けるのが難しかった。やはり成長しているのか。

 今度は前回の時刻を覚えているから、時計を見てみた。

 が、一分も違わず同じ時間を指している……

 いや、やっぱり、おかしいはずだ、確かこの向き――と考えたが、また熱くなってきてしまった。もはや林ではなく森になってしまったそれに巻き込まれて冷やされたい衝動に駆られる。この森が、自身に思考が及ぶのを防いでいるように、こちらの行動を制御してくる。あまりに主観的な物言いだが、それを配慮するための意識は明瞭ではない。なんだか視覚もぼやけてきた。

 とにかく、もう一回ここに入らなければ。よくわからないけど、入らないと。さっきまで好奇心だと思っていたそれはいつの間にか焦燥感にも感じられるようになった。


 何度も――青く生い茂る森に冷やされた。


 ――ただ進むうちに自分が落ち葉を踏んでいることに気づいた――落ち葉だと、こんな青々とした森に――と思い仰ぐと。

 とても美しい紅葉だった。細部はもう見えない。炎のごとく揺れている、のかもしれない。

 関節が固く感じられた。進む速さが下がってきている。なぜだろう。恐い。


 紅の草木は美しい。進めば進むほど山火事かと錯覚するくらい――紅くなる。冷やしてはくれない。


 ぼろぼろになりつつ、色を楽しみながら、色に追われながら、恐怖しながら、焦りながら駅があるであろう場所に出る。もう何度目だ。

 しかしその期待は――ある意味絶望は――新たな絶望に取って代わられた。

 なんと駅は、数百年の時を経たかのように崩れ落ちていたのだ。正確に言えば茶色と苔色が混ざったゴミのようなものが積んであった。

 恐怖は増し、同情した。なぜだ。

 親近感もあった。なぜだ。

 前まであんなに自然にここを占拠していたのに。自然味を残して去ってしまった。もう一度ここに来ることがあれば、もうこの駅があったことは忘れてしまうだろう。自然に。


 徐々に炎は燻りを収め、白々しい灰になって戯れてきた。自己投影をするための鏡は灰がくれた。焦りも動きも冷静になった、だろう。


 森の明度が戻った。明るさがどうなっているのかくらいはかろうじてわかる。気づけば地面に這いつくばっており、いつの間にか青々とした緑の森は消え、燃えるような紅も姿をくらましていた。ぼんやりとこのレンズに映るのは背景の青白色と縦長の焦げ茶色、そして主役のような真青が映し出されたスクリーンだった。

 なぜ這いつくばっているのかもよくわからないけど、おそらく普通に転けたのだろう。関節がもう動かない。視覚もあるんだかないんだかわからない。しんしんと音だけが聞こえる。風の音でも、勿論生き物の音でもない。しんしん、しんしんしんしん。

 しんしん。

 冷たく蝕む音だった。





 青いベンチに座ってくつろいでいる。アスファルトで端が見えないくらいに塗り固められた広場。揃えられた枕木と、行き止まりの黄黒の表示――終点駅。空はやっぱり青くて、直射日光のようなものを浴びて熱せられていても、清々しい。赤い筐体の中に青いパッケージのスポーツドリンクが、一本だけ。やっぱり青い。陽炎が空の端を歪ませているが、ここまでは来ないみたいだ。冷たい飲み物を喉に下しながら、ここにいる理由なんかを考えようとしてみたけれど、後回しにした。今はこの涼しい熱を感じていれば十分なのだ。どこからか蝉の鳴き声も聞こえてきた。そんな季節だろうか。野原の真ん中の青いベンチは、波打ち際の音を発す――振り返ったらもう砂浜だった。西瓜がそこかしこで割れている。打ち上げられた花火の爆音がベンチを震わせる、その中に――がたんごとん。がたんごとん、は枕木の音だっけ? ベンチに凭れた首をそのまま後ろにやると、行き止まり表示のあった――先のなかった線路に続きが作られていて、赤いベンチに車輪がついただけのものが停まっていた。それにふっと呼び寄せられて、もう気は済んだかい。と私に言い聞かせて。とちゅうで失敗はしちゃったけれど、なんとか作れたよ。済んだなら戻ろう。

 赤いベンチは乗車すると、ゆっくりと下りを行った。





 白と赤と緑と青の森の線路を駆け抜けるベンチ。森は栄枯盛衰を繰り返しながら若々しくなっていく。

 あの駅は用済みのように綺麗に正しい手順で解体されて、角材が積まれていた。

 それを見て胸をなで下ろした。




 ベンチは暗闇を走っていた。時々青い光が横にしゅんしゅん通る。定義するならば、あれは材料だろう。冷たいものばっかり集めてしまった。




 乗客は――ひとりではなかった。隣には外の無感情な灰色に目を奪われて座席を反対に座っている子供。私はおそらくそれと同じ色の建物で、おそらくそれと同じ色の服の他人にこれから、そうだな、秋の色を見せられる。

 夏が大好きで待ち遠しい私だが、待っていられなかったのかもしれない。

 待って……いられないかもしれない。

 でも、やっぱりどの夏でも、過ぎたあとは虚しいものだね。


001

以下は林の駅で見つけた紙片に書かれていた内容である。

「想像は人の自由だが、だからといって自由に想像できるわけじゃない。その想像は否応なく経験や知識に固められている。だからこそ不本意な想像は予想外なものであり、そこに感情が揺さぶられる。ほんの数秒間でさえ。」


003

 私の拙い小説にお付き合い頂きありがとうございます。作品についてわからない点や不満な点は申しわけありませんが「お察しください」。それでも、というありがたい読者様がおられましたら、何らかの形で作者を詮索して下さい。

 夏の終わりを感じてくると虚しさや満足感、焦燥や恐怖など、様々な心情がたたき起こされるのが私の常で、それは実際夏にしてきたこと、その前からやりたいと思っていたこと以上に、夏が終わってからそれらを水増しして捉えているようにも感じます。おそらくは、人間の感情機能「後悔」による産物なのでしょう。それは大半が一過性のものだから、そのほとぼりが冷めた後では大して重きは置かれていないことも、多々あります。しかしなぜ後悔したのかと言えば、私が思うに、少なくとも夏は、私にとって有益、ないしは何かをしなくてはならないと思わせる季節です(それこそ錯覚でなければ)。具体的に何が決まっているわけではないけれど、ただ過ごすにはもったいない、季節のエネルギーがあるのでしょう。毎年来るものと言っても、本気で楽しめるのはそのうちの数回でしょうし。

 青色の彼女、遮無々蒼故しゃむなしあおこもおそらくは。楽しめるうちに。


    不定さだめず

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

快晴 不定 @sadamezu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ