リサバリップ 

壇条美智子

第1話 鳥かご


時計の秒針ばかりが響き渡る静かな部屋で、松風リサは一人ダイニングテーブルに並べられた夕飯をにらみつけていた。サーモンのカルパッチョとシーザーサラダ、そして今日のためにレシピを熟考したミートローフがきれいに盛り付けられている。


結婚記念日の11月3日は、いつもより手の込んだ料理を作って夫の帰りを待つのが毎年の恒例。でも時計はすでに9時をまわろうとしていた。


温かい料理しか口をつけない夫のために、時間を計算して作ったミートローフはもう1時間もこのテーブルの上で放置されている。当然冷めきっていて、そろそろ乾燥も始まっているように見える。


「こんなもの、絶対に食べるわけない」

リサはミートローフを捨てようか迷ったが、夫が帰って来て食事の支度が終わっていないともっと怒られる。だから少しずつ劣化していく料理をにらみつけることしかできなかった。


リサは建築家を目指す夫を支えるため、不動産売買のフリーランスとして生計を立てている。この家は真一がデザインした理想の家だった。


しかし夫婦二人で住むには少し大きすぎる。キッチンからダイニングとリビングが見渡せる広々としたLDKで、その隣には主に客室として使用している10畳の和室がある。

真一は見栄っ張りなので、立派な家に住むことが人生の成功者の証しだと思っているのだろう。まるでリサの両親みたいだった。


アメリカ国籍の子供を持つというステータスのために、リサをわざわざアメリカで産んだ。そして普通に日本で育ったリサだったが、そんな両親の見栄っ張りにうんざりして、中学を卒業して国籍のあるアメリカへ渡った。


それから10年。リサは日本に戻って来てすぐに真一と出会った。アメリカでリサが何をして暮らしていたのか、真一は知らない。


この家に住みはじめて、初めは夢のような生活だった。でも今は、まるで大きな鳥かごに閉じこめられているような気分になる。


「ただいま」

不機嫌そうな真一の声が、この鳥かごを揺らす。

30歳にしては脂肪がつきすぎている体にまとったカジュアルな薄手のコートを脱ぎすてる。それをすかさず拾い上げ、ハンガーに掛けるリサ。

真一はワイシャツにネクタイを締めているものの、太っているせいかジャケットはいつも着ていない。

スラックスもあまり履かず、きれいめのカジュアルパンツが定番の通勤スタイル。

建築事務所では、スーツ着用を義務付けられていないらしい。


「おかえりなさい。着替えている間に食事を温め直すね」

リサが笑顔でキッチンに戻ろうとすると、真一はいつもの嫌味を浴びせかけてくる。


「なんで冷めてんだよ。いつ帰っても良いように準備しておけって言ってるだろ。何度言ったらわかるんだよ。これだからアメリカ帰りは常識なくて嫌なんだよな」

「ごめんなさい。すぐに準備します」

リサは真一の嫌味を吹き飛ばすような笑顔で答えた。

急いでキッチンに戻ると、乾きかけたミートローフに油を少し垂らし、もう一度温め直した。そして熱々のソースをかけて、テーブルに並べたところでちょうど真一がダイニングルームに現れた。


コンソメスープも温まり、適温に冷えたワインと一緒に運ぶ。ワインをグラスに注ぐのは真一の役目。そしてグラスを合わせる。

「結婚記念日だね。初めて真一さんに出会った日のこと思い出すなあ」

リサが言うと、真一は一瞬表情を曇らせた。まるであのとき出会わなければ良かったと思っているように。


そんな真一の表情に気づきながらも、リサは一人で思い出話を続ける。

「調布のカフェで真一さんにコーヒーをかけられて、スカートがコーヒーのシミだらけになっちゃったよね。真一さん慌てちゃって、駅ビルの洋服屋さんでスカートを買ってくれた。このスカートをね」

と言って自分が今着ているスカートを指さす。真一は一向にリサの話に乗ってこない。

「懐かしいなあ。そのまま真一さんとこうしてずっと一緒に暮らしてる。もう3年目だね、結婚してから」

「その話、まだ続くかなあ」

いきなり話を遮るように、イラつきながら真一が口を開いた。

「いえ、別に……」


リサを黙らせた真一は、ふんぞり返るように背もたれに寄りかかると、斜め上を見ながらこう言った。

「俺、会社辞めたから」


なぜか偉そうに言う真一の姿が、リサには滑稽に見えた。必死に体裁を保とうとしているのが手に取るようにわかる。そしてきっと辞めたことをすでに後悔しているからイラついているに違いない。

そしてリサは聞きたくもない質問をする。

「どうして?」


「どうしてってお前わかんないの? だって、あんな理不尽なパワハラに耐えろっていうのか。お前って薄情だな。俺のメンタルが破壊されても平気なんだな」

「そんなこと言ってないよ。ただ何かあったのかなと思って」

「何かあったも何も、俺がいつか事務所を持ちたいって言ったら、そんなの無理だって笑うんだぜ。あいつら俺に才能がないと思ってるんだ。まったく、この家を見せてやりたいよ」


そう、この家は真一の自慢の家。でも本当は有名な建築家にデザインしてもらったにすぎない。真一はただイメージを伝えただけだ。でも自分がデザインしたと思っている。


真一は自分を過大評価する癖がある。それが自分の本当の実力だと信じて疑わない。ある意味幸せな性格だ。


「ところでお前は今月どれくらい稼げる?」

「まだ月初だからわからないけど」

「またそれかよ。それじゃローンの返済はどうするんだよ。お前が稼がないとこの家がなくなるんだぞ。わかってんのか」


リサはいつもこうして責められる。じゃあ何で仕事を辞めたんだ、と言いたい気持ちを抑えて真一からの理不尽な言い分を黙って聞くだけだった。

そもそも不動産売買なんて、終わってみないとどれくらいの稼ぎになるのかわからない。それなのに毎月のように同じことを聞かれるのだ。

いい加減うんざりする。


そもそも真一が自分で建てた自慢の家のローンをなぜリサが払わなければいけないのか。結婚したのだから協力するのは当然だけど、ほとんどリサが払っているという現状に納得できないでいた。

「おい、聞いてんのかよ。ちゃんと予定を立てて進めるのがビジネスだろ。そんなこともわからないで良くフリーランスなんてできるな」


リサは時々、真一はわざと怒らせようとして言っているのではないかと感じることがある。そうでなければ、相当意地の悪い性格としか言いようがない。

「たぶん利益は60万くらいになると思うけど」

「お前そんなこと言っても先月はゼロだったじゃないか。本当に大丈夫なのかよ」


わからない、と言いたい衝動にかられた。でもそんなことを言ったら、また長い嫌味を延々と聞かされることになる。

それに耐えられそうもなかったので、「大丈夫」とだけ答えておいた。そう言ったからには、絶対に60万稼がないといけない。それはリサの意地でもあった。

有言実行。それがリサのポリシーだ。そこを曲げるわけにはいかない。


どんな手段を使っても、絶対に稼ぐと覚悟を決めた。その本当の理由を真一は知る由もない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る