第2話 誘惑
「おはよう松風さん」
リサはシェアオフィスの一角を事務所にしている。そのフロアには、約30人の個人事業主が各々に多種多様な仕事をしている。それぞれ仕切りのあるデスクを確保して、ある程度のプライバシーは守られている。
そこで顔見知りになったジャーナリストの海道賢哉が声をかけてきた。海道は小柄で、リサよりも細そうに見える。きっとほとんど食べていないのだろう。
「おはよう海道くん。なんか今日は機嫌良さそうだね」
「わかる?実はいいネタがつかめてさ、これから取材に行くところなんだ。松風さんは仕事どう?」
「うん、まあまあかな。今日もアポが3件入ってるし」
「そっか、じゃあ今日もお互いに頑張ろうね」
「うん。海道君も頑張ってね、取材」
「サンキュ!」
リサはこのオフィスを借りるようになってから、業績が上がりはじめていた。今までは自宅兼事務所だったのだが、真一に来客は禁止されていた。だからお客様との打ち合わせは近くの喫茶店でやるしかなかった。
それではお客様からの信用度は下がり、胡散臭いイメージになっていたことだろう。その心配がなくなったことで、精神的なストレスも軽減していた。
しかし昨日のようなことがあると、何のために働いているのかわからなくなる。子供もいないし、このまま夫婦を続けていく意味があるのだろうか。
だからある計画を実行することにした。
リサは、やられたまま終わりにするような女ではない。
お客様の内見を終えオフィスに戻ると、海道が取材から帰ってきていた。
「おつかれ、取材うまくいった?」
「まあね。でもバッシングを受けないように書くのが大変だよ。今回はちょっとデリケートな案件だから、誤解されないように正しく伝えたいんだ」
「ジャーナリストもフリーなのに色々大変なのね」
「あぁ、せっかくのネタを揉み消されたら意味がないからね。松風さんはどうだった?」
「後ひと押しで買ってくれそうよ」
「さすが、相変わらずやり手だねぇ」
「そんなことないわよ。ねぇところで今日ってこれから空いてる?」
「今日?空いてるけど……」
「良かった。ちょっと付き合って欲しいの」
「なになに、デートのお誘い?」
「主婦がデートしちゃいけないわけ?」
一瞬戸惑う海道に気づき、リサはその場を取り繕おうとした。でも計画は確実に実行する必要がある。ここで何と言うのが最適だろう、と考えた。しかしその心配はいらなくなった。
「普通はいけないと思うけど、松風さんに言われると正しいような気分になるね」
「相談に乗ってくれればそれでいいの。昨日ちょっと主人と色々あって、誰かに話聞いてもらいたい気分だったから」
「わかった、付き合うよ」
「ありがとう。じゃぁ準備するからちょっとだけ待ってて」
「OK!」
リサはいつも黒のオーソドックスなスーツを着ている。しかし今日はあらかじめ持参してきた黒のミニワンピースに着替えて、胸元のジップは少し下げておいた。リサの程良くふくよかな体にぴったりとフィットして、スリムな女性より何倍も色気を醸しだしている。
自慢の長い髪はふんわりと無造作におろし、唇には官能的な赤みがかったツヤのあるリップをのせた。
「お待たせ」
いつもと雰囲気の違うリサを見て、海道はかすかに下品な笑みをこぼした。
リサに気づかれないように額に手をかざしながら、文字通り舐めまわすように全身を眺める。リサはそれに気づかないフリをして体をくねらせて見せた。
男はこんなとき欲望を隠せない。
それが今のリサには都合が良かった。
調布駅前のオフィスを出た二人は、細い路地を抜けて甲州街道沿いにあるバーに入った。どこか昭和の香りが漂うこじんまりとした店。駅からは少し離れていることもあり、カウンター席はいつも近所の常連客で賑わっている。
まるでカップルシートのように半個室になっている窓際の席に案内され、ソファーに二人並んで座る。
「おもしろい店だね」
肌が触れ合うほどの距離にいる海道が、気を紛らわせるために意味のない会話を始めた。
「そうなの。前から気になっていてね、ずっと来たかったんだ」
テーブルの傍らにあるドリンクメニューに目を向けながら、落ち着かない様子で海道は「そうなんだ」と答えた。
リサは、海道の緊張を解かないと目的を果たせないと確信した。そこで作戦を変更する。
運ばれてきた生ビールを手に取ると、さり気なく海道の膝に手を置き、気さくな感じで「乾杯」と言ってグラスを合わせた。
リサは一気に生ビールを飲み干すと、すぐに追加でもう一杯オーダーした。
海道はそわそわしながら生ビールをあおっているものの、完全にリサのペースに押されている。
「どうしたの海道くん、何かおとなしいね」
と言ってリサは海道の顔を覗き込みながら、さらにジップを下ろした胸元をちらつかせる。海道は生唾を飲み込んで、残りの生ビールを一気に片付けた。
「今日の松風さんは、何かすごく色っぽくて緊張しちゃうな」
片言の日本語のように話す海道を見て、リサは完全に人選ミスだと悟った。フリーのジャーナリストだからもっと野心的だと思っていたけど、日本の男では役に立ちそうもない。
やっぱり自分で手を下すしかないのだと、リサは決意せざるを得なかった。
「あっ、電話が入っちゃった。ちょっとごめんね」
と言って鳴ってもいない携帯を手に取り、店員に3千円を渡すと店の外へ出た。
11月の夜風が、アルコールで火照った体を冷ましてくれる。でもすぐに寒くなり、胸元のジップをしっかりと上げた。
「初めから自分一人でやるべきだった」
リサはそうつぶやいたが、男を使えば夫により深い屈辱を与えられると考えた上での計画だった。それにリサは、自分を抑えられなくなることを恐れている。
一人殺してしまうと、殺人への欲求が止められなくなるのではないかということを。
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