第30話 失った心

 次の日、見舞いに行くと元気そうな沙織の姿があった。晶をみつけて嬉しそうに微笑む。

「晶さん。来てくださったんですね。もう本当は退院できるんですけど、お父様がこの際だから色々と検査してもらえって。」

 頬をむくれさせて言う沙織は昨日見た時よりも幼く見えた。そういえば歳さえも知らない。

 入院は退屈なのだろう。沙織はいつもよりよく話した。それとも今までは晶から寄せ付けないオーラか何かを感じ取っていたのだろうか。

「お父様ったら心配性なんです。もう胃の洗浄もしたし問題ないのに…。」

 胃の洗浄…。その言葉に胸をズキッとさせると沙織が急いで晶の手を握った。

「そんな顔なさらないでください。もう大丈夫ですから。」

「あぁ。」

 無機質な声が出る。わざと出そうと思って出したわけじゃなかった。感情がこもった声はどう出すのか思い出せなかった。

 そして時間が経つほどに周りの音はまるで水の中で音を聞いているように、聞き取りづらく遠くに聞こえた。

「今からお仕事ですか?」

 スーツ姿の晶に質問する。いつもの変わらないスーツだ。

「あぁ。」

 晶の力ない返事をかき消すように看護婦が声をかけてきた。

「検査に入りま〜す。面会終了してください。」

 晶は沙織に軽く手をあげて帰ることを伝えると病室を後にした。


 外に出ると季節は秋から冬になろうとしていた。ついこないだまで赤や黄色の葉をつけていた木々も寒々とした姿で立っている。

 その姿はどこか自分のようで、そのことに嘲笑さえする気にもなれずうつむいて歩を早めた。

 晶には景色も全てがぼやけて見えるようだった。全てに彩りがなくなってしまったように。ただそのことにさえ気づかないまま心が麻痺してしまったように何も感じなかった。


「おう。アキ。」

 事務所に行くと直樹が変わらない挨拶をした。陽菜は晶に遠慮して来ていないようだった。

 直樹は晶の母親とも沙織とも面識があり、中立的な態度を見せる直樹に晶の母親も沙織も信頼しているようだった。何かあれば直樹に連絡があった。

 そんな直樹は昨日の詳細を晶以上に知っているだろう。それでもそのことには触れてこなかった。


「夏休みの宿題はやれず仕舞いだ。悪かったな。長いこと休んで。」

「いや…。」

 もう少し休んでもいいぞ。そう言いたくなる晶の顔色だったが、家で一人にさせてはもっとまずいのは目に見えている。ワーカーホリックに逆戻りだとしても何かに没頭していたい気持ちは直樹にもよく分かった。

 直樹としては晶が沙織と上手くいくのなら…そんな淡い期待も浮かんだが、今の状況を見る限りそうは思えなかった。今はただただ晶が壊れてしまわないことを祈ることしかできなかった。


 晶はほとんどマンションに帰ることが無くなり、もちろん自炊することなど無くなった。日増しに仕事に没頭していく晶に異様さを感じるほどだった。


 沙織の言う通り沙織はすぐに退院できた。そして退院してからは朝に沙織に会うのが恒例になってきていた。カフェで朝ご飯を食べて過ごしてから仕事に行くことが多くなる。

 えてして晶はほとんど声を発せず、沙織がお喋りして終わることがほとんどだった。

「お仕事はお忙しいんですか?」

「あぁ。」

「お疲れですか?」

「いや。」

 こんな具合だ。もちろん笑顔はない。無表情で感情がない声。沙織は晶に気づかれないように小さなため息をついた。沙織を見てもいない晶はもちろんそれに気づかない。

「お疲れみたいですし…おうちに帰られてますか?マンションの方がゆっくりできるのでしたら、私は晶さんのマンションでも構いませんわ。」

 マンション…。沙織に言われて思い浮かぶのは小さい小動物のようなピコピコと部屋を歩いているチビ。そしてリビングのソファで丸まる小さい…。

「ダメだ。マンションは。」

 珍しく声を張って発言した晶に沙織は目を丸くした。

 その声は無機質なものではなく確かに感情がこもった声だった。それなのにまた無くなってしまった表情で力なく言葉が転がり落ちた。

「悪い。今日はもう行く。」

 抜け殻のような晶は立ち上がると行ってしまった。

 もうここ何日、会っていてもそこにいるのかさえ何度も確認しないと不安になるほどに生気がなかった。

「久しぶりにちゃんと話してくれた言葉がダメだなんて…。」

 沙織は寂しそうに晶の背中を見送るしかなかった。


 事務所に行くと「おはよう」と直樹が声をかけた。それに返事をすることなく席に座る。

 日に日に人間味が無くなっていく晶に直樹は心配そうな視線を送った。

 元通りか…。いやそれ以下か。

「アキ…。遥ちゃん仕事を始めるそうだ。」

 ハルが…仕事を…。そうか始めるのか。自分があの小さいのをどうにかしてやらなければ…なんて独りよがりで勝手な思い込みだった。俺がいなくたって大丈夫だ。

「アキ?聞いてるのか?」

「…あぁ。良かったな。」

 それだけか…。まぁ今のアキじゃそうかもな。でも…。

「就職祝いに何かプレゼントしてやれよ。」

 何を…言っているんだ。もう俺は…。

「もう俺には…そんなことできる立場じゃない。」

 立場ってなんだよ。怒鳴りつけたいのを直樹はグッとこらえる。晶のすぐ近くに座ると昔を懐かしむように話し始めた。

「なぁアキ。ちょっと前までは…。そうだな一緒に仕事を始めてよ。アキって笑わないんだ。だから一週間に一度、アキが笑えば今週はいい週だったなって思ってたんだぜ。」

 さっきから何を言ってるんだ直樹は。

「なんだよそれ。気持ち悪いぞ。」

 そうだな。男同士が笑い合ってたら気持ち悪いかもな…。でもそうじゃないだろ。お前…遥ちゃんといてからは…。

 直樹は自分が陽菜に言ったことを思い出す。周りが何か言ったってどうにもならない。それは分かってる。でも何か言いたくもなるだろ。こんなアキを見てたら。

「おいアキ。お前は何もしないのか。」

 静かな、しかし問い詰めるような言い方にも晶は無表情のままだ。

「…何がだ。」

「お前は、自分の生い立ちが不幸だ。トラウマがある。女嫌いだ。そう言って全てを避けて逃げて負けて生きて行くのか。」

 見る見る顔色が変わる晶が拳を握りしめた。

「何を…何を言ってやがる!お前に…直樹に俺の気持ちが分かってたまるか!」

 思わず胸ぐらにつかみかかって睨んだ直樹の顔は発した言葉とは裏腹に晶を心配する悲しそうな顔だった。

「悪いがお前の気持ちは分からない。それでも遥ちゃんは男性恐怖症をどうにかしようと頑張っているのは俺でも分かる。それなのにお前はどうなんだ。」

 俺…。俺がか…。

「女嫌いにあぐらをかいて何もしてないんじゃないのか?遥ちゃんに対してもあの人に対しても。」

 晶は直樹をつかんだ手を離すと崩れ落ちるように椅子に座った。

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