第29話 失ったもの
「余計なこと言っちゃったかな。」
陽菜は遥に話していたことを思い出していた。何気なく話したことなのに段々と暗い顔になっていく遥。
「余計ついでに遥ちゃんはその中でも特別だと思うわよ。って言えば良かったのかな。」
それこそ本当かどうか分からないことを言っていいのかどうか…。
ブツブツ独り言をつぶやいている陽菜に直樹が苦笑した。
「なんだ。遥ちゃんにアキのことでなんか言ったのか?」
「うん…まぁ。でも直樹に話すと面白がるだけだから話したくないわ。」
それでも直樹はククッと笑っている。
「周りがくっつけようとしたって上手くなんていかないし、周りが別れさせようとしたって上手くいくことだってある。何をしたって無駄ってもんさ。」
まぁそうかもしれないけど…。あっけらかんとしている直樹に悩んでいたことが馬鹿らしくなる。
「それにしても会うたびに遥ちゃんは…。アキは気づいてないだろうけど苦労するかもな。」
「何が?遥ちゃんが魔性の女になるとでも言いたいの?」
ハハハッと笑うと楽しそうな直樹は目に涙まで浮かべている。
「まぁある意味ではそうかもな。」
クククッと愉快そうに笑う直樹に、付き合ってられないわ。と肩をすくめた。
晶はランニングから帰るとシャワーを浴びていた。走ってかいた汗とともにごちゃごちゃな気持ちを洗い流していた。
何を期待していたというのか。俺は女嫌いなんじゃないか。ちょうどいい。いつもの自分に戻るだけだ。
自分でも心の扉が閉まった音が聞こえたように思えた。ガシャンッと重たい扉が閉まる音だ。もしかしたら開きかけていたかもしれない扉の音。
そのあとはお互いに何も話さないまま、ただ寒々しい時間だけが過ぎた。
二人の間にはここに初めて来た頃よりも、ずっと距離ができてしまっていた。遥は晶を見ようともしなかった。ただ過ぎていくだけの時間。
心が近づいてきていただけに遥の変化は晶にとって絶望にも似たものを感じた。去っていく恐怖…もうあんなものを感じたくなかった。
深夜に電話が鳴った。眠れない頭に容赦なく音が鳴り響く。非常識な時間帯のけたたましい音に目をやると仕事用もプライベート用も両方が鳴っていた。
晶は迷わずプライベート用を手に取った。すぐ近くで鳴る仕事用のPHSに表示されている「クソババア」を横目で確認して身の毛のよだつ思いがした。
「おい。アキ!起きてるか?」
切羽詰まった声が電話口に響く。直樹だった。
「どうしたんだ。こんな時間に。」
「落ち着いて聞いてくれ。あの人が…。」
そこからは何をどうしたのか全く覚えていなかった。
晶は病室にいた。目の前には沙織が寝ている。
ここに来る少し前。
「どの面を下げてここへ来たんだ。お前のせいで!沙織は…!!」
ひどい剣幕で沙織の父親らしい人に罵られる。晶は何も言い返せず、ただ青い顔をさせていた。
「あなたここは病院ですからもう少し冷静になってください。」
隣で沙織の母親らしい人が泣きはらした目で父親に訴えている。
「うるさい!沙織が…沙織が…。」
つらそうに顔を歪めて父親もかなり泣いたようだ。そして今にも泣き出しそうな真っ赤な顔が晶を睨んでいる。
「でも沙織が晶さんにお会いしたいって言っているのよ。会わせてあげましょう。晶さんが来るって言ったらあの子…。うぅ…。」
全部のことが全て自分とは違う世界で起こっていることのような気がして晶はひどく冷静にその様子を見ていた。
そして何も声を発することはなく両親に頭を下げて病室に向かった。
眠っているのだろうか。沙織は目を閉じていた。病院特有のツンっとした薬のにおいが鼻を刺激する。静かな病室にピッピッピッという音だけがしていた。沙織の近くに置かれた医療器具。そこから何本もの管が沙織に繋がっているようだった。
晶は初めて沙織の顔をきちんと見た。いつもはにかんだような顔を上からチラッと見るだけだった顔を。
ゆっくりと目を開けた沙織が晶を見ると微笑んだ。
「晶さんが来てくださるって…夢じゃなかったのですね。」
何も言うことができない晶に代わって沙織がまた口を開く。
「馬鹿みたいとお思いですよね。私も驚きました。晶さんに言われたことがあんなにもショックで…。」
直樹の電話で言われた、あの人が睡眠薬を大量に飲んで病院に運ばれた。というフレーズがかすかに頭の片隅に蘇る。
「…悪かった。俺のせいだ。」
力なく発した言葉に沙織は首を振った。
「晶さんは来てくださいましたから。それだけで十分です。…大切な方は…大丈夫でしょうか。」
大切な…方…。そう言われ頭に思い浮かぶのは、自分を避ける遥のよそよそしい顔。そして思い出さなくなっていたはずなのに…。今もありありと脳裏に浮かぶ、あの晶に向けた蔑んだ瞳。
失ってしまった。もう俺を求めて笑顔を向けることも…もう…。
気づくと手がカタカタと震えていた。その震える手にそっと沙織の手が重ねられた。
「大丈夫。きっと大丈夫です。」
こんな状況なのに俺を労る沙織に自分は今まで何を見てきたのだろう。
クソババアの息のかかった者というだけで、女以前に毛嫌いしていた。それなのにハッキリした態度も取らないまま…。
沙織は晶の様子に何か感じ取ったように控えめに口を開く。
「私ではダメなのでしょうか。晶さんの…側にいては。」
しばしの沈黙のあとに晶は口籠りながら話す。
「何も知らないじゃないか。俺が俺と言うことを知らなかったほどに。」
それなのに…こんな俺なのにそれでも側にいると言うのか。
沙織は優しく微笑んだ。
「知らなければ今から知っていけばいいのではないですか?」
今から…。確かにこの人とは何も始まってはいない。
どうせ仮面夫婦を装う一歩手前だったんだ。そして今ならその仮面を外せるのかもしれない。
あたたかな温もりを知ってしまった晶はもう一人で立っていられないほどに弱っていたことに気づく。誰かと寄り添えられたら…。
晶に重ねられたままの手はあたたかかった。
また見舞いに来る。と約束をしてマンションに帰った。
遥は騒ぎの中、陽菜たちの家へ行くことになっていたようだった。
誰もいない家。晶は広い部屋で否応なしに自分は一人なんだと思い知らされた。
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