第28話 甘えと優しさ

「おいおい。イライラして作ると美味しいのが作れないんだろ?俺が作る。」

 まだ笑いを止められない晶をプリプリ怒りながら「じゃお願いします」とダイニングの椅子に座った。

 リクエストしても無駄だろうと思いながらも聞いてみた。

「昨日はずいぶんと迷惑をかけたようだ。好きなものを作ろう。何が食いたい?」

 すると遥は首を振った。

「迷惑だなんて思ってません。アキは私みたいに過呼吸が出るわけじゃないし、ちゃんと大人だから…。私にも甘えて欲しいと思ってました。いつも私ばっかり甘えてます。」

 手に持っていた卵を思わず落とした。「大丈夫ですか?」と心配する遥に、心配するならリクエストに答えてそれ以外の変な発言は控えてくれよ。と苦々しく思いながら口を開いた。

「俺は…たぶん普段からハルに甘えてる。」

 直樹にずいぶん前に言われた「その声と態度で遥ちゃんに接しているなら甘えてる」の言葉を思い出す。あぁそうさ甘えてる。

「俺は女はもちろんそうだが、他人なんてどうでもいいんだ。だから別にわざわざ自分の感情を見せたりしない。でもハルには不機嫌にもなるし文句だって言う。」

「たまにすねたりしますしね。」

 遥がフフッと笑った。楽しそうな遥にっとにクソガキめ。と心の中で悪態をつく。

「すねた覚えはないが、今まではそんなの見せるの直樹くらいだ。今は…たぶん直樹以上にハルには甘えてるだろう。」

 そうさ。酔っていたからと言って「一緒に寝てくれなきゃ嫌だ」なんて言うほどに。

「ほらできたぞ。ハルはリクエストした試しがないな。」

 遥の前にはホットサンドとコンソメスープ、サラダが置かれた。パンとパンの間からはみ出している溶けたチーズからは湯気が出ている。もちろんコンソメスープからも。

「フフッ。いいんです。アキのご飯はいつも美味しくて大好きだから。」

 無邪気な「大好き」の言葉にドキッとする自分に嘲笑した。ただのクソガキの言葉じゃないか。


 時間を空けない方がいいだろうということで今日すぐにあの人に会うことになった。

 直樹に電話すると「事務所で良かったら陽菜と一緒にいてくれて構わない」と言われた。

 仕事用のPHSを出すと嫌々ながらに意を決して電話帳から「あの人」を選択した。

「はい。沙織です。晶さんからお電話なんて珍しいですね。初めてじゃないですか?」

 電話口で嬉しそうな声に胸クソ悪くなるが、そうも言ってられない。

「会って話したいことがあるんだ。」

「お義母さまから伺いました。旅行のことですよね?結婚前に行っていいのかなって思っていたんですが…。」

 言葉とは裏腹に楽しそうな声に不快感が押し寄せる。

「違うんだ。そのことじゃない。今から時間ないか。わずかな時間だ。」

「はい。大丈夫です。」

 家事手伝いらしい沙織はこんな時間でも会えると言う。どんだけ箱入りのお嬢様なのかと吐き気がした。


 心配そうな遥を事務所に送ると待ち合わせのカフェに来ていた。

「晶さん。お待たせしてしまいましたか?」

 息を弾ませて向かいの席に座る。一秒たりとも同じ空気を吸っていたくなかった。すぐに口を開く。

「俺とのことは無かったことにしてくれないか?」

「え?」

 明るかった顔が固まったのが分かる。それでも…言わなければ。

「あなたも俺の母に言われたからだろう?つまらないことに付き合わせて悪かった。」

「そんな…。初めはお義母さまから言われたからですけど…。」

 沈黙が流れた。何をどう断ればいいのかこの人から付き合いましょうや何かを言われたわけでもない。別れようとも何か違う。

 沙織が何かを察したように口を開いた。

「…晶さんどなたか大切な方が別に?」

 大切な…。そうなのかもしれない。フッと笑みがこぼれると沙織は確信したように口を開いた。

「そうですか…。前にお会いした時に穏やか雰囲気だったのは、その方のお陰だったんですね。私といる時にはそのようなことは一度も…。それはそうですよね。今日初めて晶さんがご自分のことを「俺」なんて言うことを知ったくらいですから。」

 寂しそうな顔をする沙織に少しだけ悪いことをした思いになった。俺とさえ口にしないほどに話してもいなかった。

 前の自分だったらそんなこと思いもしなかったかもしれない。穏やかになったと言われたが、本当にそうなのだろうか。

「悪かった。俺はもう行く。ここで好きに過ごしてくれ。」

「でも…。」

「これくらいのことしか俺にはできないんだ。遠慮しないでくれ。」

 一万円札をテーブルに置いてそのままカフェを後にした。寂しそうな視線を向けている沙織を振り返ることはなかった。


 事務所に向かいながら少し前までの自分を思い出す。母親にごちゃごちゃ言われるのも、嫌な気分になるのにもうんざりで言われるがまま沙織と会っていた。もしかしたら言われるがままに結婚もして仮面夫婦を装っていたかもしれない。

 そう思うとゾッとするが、それほどまでに何も望んでいなかった。

 でも今は…。どうしたいのかは分からない。ただ今は早く遥の顔が見たかった。


 事務所に行くと遥は陽菜と一緒にお茶をしていた。

「早かったんですね。」

 晶が思っていた顔と違う顔で出迎えられた。それでも晶と一緒にマンションに帰るらしかった。陽菜にお茶のお礼を言っている。

 無言のまま帰ると遥は自分の部屋に行ってしまった。

 気持ちを持て余してしまった晶は、なんとなくふてくされてソファに座った。

 別に…何を期待していたっていうんだ。よく頑張ったねって褒められたかったのか?それとも笑顔で迎えて欲しかったのか…。それこそ俺はどんだけガキなんだって話だろ。自分のよく分からないごちゃごちゃに嫌気がして部屋に行くと服を着替えた。

 一応は言ってから出て行くか…。と遥の部屋の前でノックする。

「ランニングにでも行ってくる。何かあれば連絡をくれ。」

 返事は無かった。

 PHSは事務所に行く時に遥に渡していた。陽菜との連絡先の交換なんかは済ませているはずだ。使い方も聞いただろう。電話帳には晶の連絡先も入れてあった。

 こんなことならPHSの使い方も自分で教えれば良かった。そんな寂しい思いを見ないようにして外へと出かけた。


 遥は部屋でランニングに行くという晶の声を聞いて少しだけホッとしていた。

 陽菜とのおしゃべり。それは楽しいものだった。直樹から聞いたという晶の知らない話なんかも聞けたりして。

 しかし帰り際に聞いた話は遥を悩ませるものになってしまった。

「晶くんなんだかんだで人のことを放っておけない人なんだと思うわ。きっと優しいのね。別に弁護士にならなくたって彼なら仕事は選べたと思う。でも弁護士になったのって困った人を放っておけないからだと思うの。」

 優しいのは遥もよく分かっていた。でも…。陽菜の話を聞いてモヤモヤしてしまった。

 アキは優しい。困っていた私を拾ってくれた。でもそれは私じゃなくても拾ったんじゃないか。そんな答えが出ない思いが消えなくなってしまっていた。

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