第27話 温もり
いや。そうじゃないだろ。服は…着てる。昨日はどうしたっていうんだ…。
寒そうに丸まる遥をできるだけ見ないようにして布団をかけてやると晶はリビングに向かった。
時計の針は5時を少し回ったところだった。カチカチカチ…。静かな部屋で時計の音がいやに大きく響いているように感じる。
クソッ。まだ5時か。こんな時間に起きるなんて。俺は何をやらかしたっていうんだ…。
遥が起きてきて昨日のことを全て教えてもらいたいような、何も聞かずに知らないふりをしておきたいような…。まだ眠いはずなのに頭がグルグルとして眠れない。
昨日から冷え込んだようだった。底冷えする寒いリビングのエアコンをつけた。それで布団を出したのか。そんなどうでもいいことは合点がいった。
そのくらい簡単に一緒にいたことが明確になればいいのに…。全く思い出せない晶はソファでうなだれた。
コーヒーを飲んでいると遥がリビングに来た。晶を見てホッとした顔をするところを見ると隣にいない晶を心配していたようだった。
「コーヒー。せっかく豆をいただいたので私が淹れたのに…。」
コーヒーの香りに残念そうに遥は肩を落とす。そんなどうでもいいことを話さなきゃいけないのか…。
「まだインスタントも残ってるからそっちも飲まないとな。それより…。」
なんと切り出せばいいのか。何度も反芻した言葉を口から滑り出させる。
「昨日のことは…覚えてないんだ。悪い。迷惑…かけたよな?」
目を丸くする遥を目の端にとらえて、忘れたなど許されないような、まずいことをしたんだろうか…。とドギマギする。それでも聞かなきゃいけないことがある。
「どうして…一緒に寝てたんだ。」
一番聞きたくない。でも一番はっきりさせないといけないことだ。
「それも覚えてないんですか?」
呆れる遥に恐る恐る頷く。まったくもう。と遥は説明し始めた。
「ホットミルクを飲んだんです。」
「あぁ。それは覚えてる。」
「それで、ずいぶん…その…疲れていたようだったので一杯飲んだだけで眠くなってしまったみたいで。そのままソファで寝てしまって。」
あぁ。それで、こんなところで寝てたら風邪ひきますよ。の言葉をかけられたのか。かろうじて覚えているセリフが一致する。
それにしてもホットミルクに入れたブランデーごときで記憶を失くすなんて…。そこまで弱くないはずだ。
次の言葉を言いにくそうにしている遥にゴクリと喉が鳴った。どんだけ緊張してるんだと笑いたい気分になる。
「風邪ひきますよって言ったら…。一緒に寝てくれなきゃ嫌だって。言っておきますけどアキが言ったんですからね。」
遥からしてもよほど驚きの言葉だったことが伺える。わざわざアキからと念押しするほどに驚いたのだろう。
しかし晶も言われて記憶が蘇る。クソッ。いっそ忘れてればいいのに…。
「それで手を…離さないので「大人な女性は簡単に寝ないんじゃないですか?」って聞いたらお前はクソガキなんだから大丈夫だ。今日は俺の抱き枕になるんだからいいんだって。」
どんなんだよ…。まぁクソみたいな甘いセリフを言わなかっただけマシか。
「悪かったな。その…。」
本当に覚えてないんだアキは…。遥は少しがっかりした。「お前は俺の特別なんだ」って言ってたのに。あれは本心だったのかな。どうなんだろう。
覚えていない晶に追及するわけにもいかず遥は聞けずにいた。
晶も手を出したりしていないか肝心なところは聞けずにいた。こんなクソガキにそんなことするはずないと思うのだが、それでも酔った勢いなんて怖い言葉もある。こんな時に限って直樹の「酔った勢いで自分の気持ちを言っちまえ」の言葉を思い出す。
クソッ。何もしてないよな?何も言ってないよな?伺うように遥を盗み見た。
盗み見た遥は苦しそうに顔を歪め始めていた。まさか!と思う間もなく、ハーッハーッと激しい呼吸に変わった。急いで紙袋を手に取る。
クソッ。やっぱり何かやらかしてたか…。でもそのせいで過呼吸が出るなんてクソヤローはハルに何をしたんだ。
半分は八つ当たりの怒りを過呼吸の元凶であろう隣のお兄ちゃんとやらにぶつけたかった。
呼吸が整ってきた遥に耐えきれなくなって晶は口を開く。言いたくはない。しかし事実だ。
「やっぱり俺たちが一緒に住むのは無理だったんじゃないのか?」
女嫌いと男性恐怖症。所詮は無理な話だ。分かっていたことじゃないか。
晶の言葉に目を丸くすると、また呼吸が荒くなりかけている。急いで背中をさする。
大きな優しい手と穏やかで低い声。「大丈夫だ。落ち着いて息を吐くんだ。」この優しい全てがなくなってしまう。遥は思わず口から出てしまった。晶からしたら思いもよらない言葉を。
「婚約者の方と結婚するからですか?」
「なっ…。」
何を言ってるんだこいつは。晶もつい聞かないでおこうと思っていたことを口にする。
「一緒に寝て…俺がなんかしたからだろ?」
「え?何かって…。本当に抱き枕みたいにぎゅってして「お前は柔らかくて甘い匂いがする」って。その後すぐに寝たみたいですけど。」
なんでそんな爆弾を普通のことのように報告するんだ。赤くなる顔をどうにかしたかったが、今はそれどころじゃない。
「婚約者なんかじゃない。だいたいあの人は断るって前に言ったはずだ。」
「でもアキのお母さんが旅行に一緒に行くようにって。」
なんでクソババアの言葉を鵜呑みにしてるんだ。
でも…もしかしてそのせいで過呼吸が出たっていうのか。過呼吸…。精神的なものからきていて不安定になると出やすい症状らしい。そうか。こいつはここから追い出されることに不安を感じたのか。居場所が…ないからな。
依存だとか共依存だとかそんなことはもうどうでも良かった。どんな理由であろうと晶は遥を側に置きたいと思っていた。晶本人は気づいていないとしても。
「お前は俺の母親を知らないからだ。それでも…そうか。悪かった。」
沈黙の後に晶が口を開く。
「こっちこいよ。」
え?と驚く遥に取って付けた理由を口にする。
「朝はハグってやつをするんだろ?」
クソババアの話をするのに遥の温もりを感じなければ自分が不安定になりそうだった。
アダルトチルドレン…。よくできた名称だ。俺も大人になりきれていないってわけだ。
おずおずと晶の側に来た遥の腕を引いて自分の腕の中におさめた。一人掛けソファは二人では狭くてほとんど膝に遥が乗っているような状態だったが、そんなこと気にしている余裕はなかった。
「クソババアは自分の思い通りにならなきゃ気が済まないんだ。ちゃんとババアには断りの電話はしたんだ。でも…そうだな。会うのはこりごりだが本人に直接言おう。」
「本人って…婚約者の方ですか?」
不安そうな声を出す遥にフッと笑う。婚約者じゃないと言ってるのに分からないのか。
「大丈夫だ。今度は食事もしない。用件を伝えたらすぐ帰る。心配なら直樹の奥さんの家で待っていたらいい。」
コクンと小さく頷く小さいのが愛おしく感じて離したくない気持ちになる。
「ババアは放っておこう。旅行に行けとか余計なことを言おうとも、あの人が断ればそれまでだ。」
ぎゅっとしがみついてきた遥が不安そうな声を出す。
「初めてお会いしましたけど、お母さん怖かったです。…ごめんなさい。アキのお母さんなのに。」
「いや。いいんだ。それよりハルを巻き込んじまってるかもな。一緒にいるところを見られた。すまなかった。」
まずかったな。まさか会うとは思っていなかった。女が行きそうなところでは会うかもしれないなんて忘れていた。それほどにハルと…。
「そんなこといいんです。でも…ハルのお母さんはどんな目をしてるんでしょうか。コブ付きのって、私のことアキがお付き合いされている女性の子どもとでも思ったんでしょうか。」
プリプリ怒る遥にククッと笑うと、余計におかしくなってアハハハッと大笑いに変わった。
「どっからどう見てもクソガキだ。そこはクソババアにしては正しい判断だったな。」
アキまで!と憤慨する遥の頭を抱きしめたままグリグリ撫でた。
クソババアのことでこんなに笑えることがあるなんてな。おかしくてなのか嬉しくてなのか涙が出そうだった。
「ほら。もう朝飯にしよう。」
軽々と遥を抱き上げるとソファから降ろして立ち上がる。
下から悔しそうな視線を感じて首を傾げた。
「アキが軽々と持ち上がらないくらいになってみせます。」
ボソッと言い残した遥に思わず笑う。お前が目指すものはどんなか教えてもらいたいわ。腹を抱えるほどの大笑いに変わった晶を見てますます不機嫌そうにキッチンへと向かった。
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