第26話 ホットミルク
「じゃ今日こそアキと一緒に寝てもいいですか?」
なんでそうなるんだよ…。深い意味など全く感じられない子どものような瞳を向けている遥。その瞳を見ないまま晶は口を開いた。
「ったく。いい女は簡単に男と寝たりしないぞ。」
遥と晶の言っている意味には相違がありそうだったが、晶にはもちろんそれは分かっていた。遥は分かっていないようだが。
「そうですよね…。一人で寝てこそ大人の女性ですよね。分かりました。」
思いのほか、あっさりと引き下がった遥にホッとする。いい女になるって目標も案外いいかもな。そう思いつつも少し寂しく感じる自分に苦笑した。
「でも朝のハグはしてくれますよね?」
「だからどうしてそうなるんだ!」
いい加減にしてくれ。憤慨したように遥を見るといつもより近くにある顔にドキッとする。
忘れてた…。まだ同じソファにいたんだった。
顔を背けて頬づえをつく。急激に隣の一人掛けのソファに移動したくなった。しかし変な行動を取れば遥が何を言い出すか分からない。長い手足がやけに場所を取るような気がして居心地が悪かった。
「だって。スキンシップは大切だって。ハグとそれに…。」
「ちょっと待て!それ以上を何か言うなら俺はここを出てく。」
遥は急いで自分の口をふさいでコクコクと頷いた。
こいつ…。今、何を言おうとしたんだ。こんなことどうせ直樹に吹き込まれたんだろう。
冷ややかな目を向けると、また澄んだ瞳と目があった。
「それが挨拶だからって…。」
「それは欧米で、ここは日本だ!」
我慢できなくなって立ち上がった晶に遥が声をかけた。
「どこに行くんですか?」
「どこだっていいだろ。」
「ご飯なら私、作ります。もう体調は大丈夫です。イライラして作ると美味しく作れないって言いますから。」
誰のせいだと思ってるんだ…。晶を置き去りにしてキッチンへ向かう遥の背中を見ながら心の中で文句を言う。それでも…と口を開いた。
「昼飯は軽くにしよう。さっき見た店で気になる店があったんだろ?」
え?と振り向く顔は驚きの色が混ざりつつも嬉しそうだ。
「気づいて…。」
フッと笑うと馬鹿にしたような口ぶりで話す。
「あんなに張りついて見てたら誰だって気づく。それとも今日は疲れたんなら別の日にしておくか?」
俺が行こうって言うなんて、似合ってなくておかしいんだろう。それは分かっている。その店は可愛らしいパンケーキのお店だった。
以前なら女しかいないあんな店は可哀想な男が連行されていく場所だと思っていた。それでも…。
「行きたい!…です。じゃお昼は軽めで急いで準備します!」
またもや嬉しいことを任命されたロボットがピコンッと音を立てて動き出したようだった。
もちろん晶はそれを見て遥にバレないように優しく微笑んだ。
遥は「互いがダメなものなのに大丈夫」という言葉を噛みしめていた。アキにとって自分は大丈夫なんだと思うと胸が温かくなった。
事務所にもう寄らないなら。と晶は着替えに行った。戻ってきた晶は黒い細身のジーンズにベージュのコートを着ていた。薄手のコートの中からは白っぽいグレーのパーカーがのぞいている。
「…変か?」
ボーッとしたままみつめる遥にしびれを切らして聞いた。ボケッとしていた遥はハッと意識を戻すと首を振る。
「とっても似合ってます。」
チッ。そう言うだろうと心構えしていたのに…。ニヤけそうになる口元を動かさないようにすることに必死になる。
こんな姿を直樹に見られでもしたら「パーカーって…。遥ちゃんに寄せ過ぎだろ。お前どんだけ…。」なんて言われそうだ。
「買ったんですね。前にネットで見てた服。パソコンの中のモデルさんが着てるよりずっとカッコイイです。」
屈託ない笑顔を向ける遥に、つい憎まれ口をたたく。
「バ〜カ。そんなに褒めてもデザートは1つだけだぞ。」
「へへっバレちゃった。美味しそうなのあったら2つまでいいですよね?」
どこが大人の女性だよ。隣でピコピコ歩きながら笑うガキんちょの頭を引き寄せてグリグリした。
すぐ近くで笑う遥を見て、こんな近くにいることが当たり前になりつつあるなんて、俺もどうかしちまってる。そんなことを思って笑った。
「他の服はいつか一緒に買いに行きましょうね。夏休みの宿題なんですよね?」
チッ。余計なこと覚えてやがる。
「まぁな。この一着しか買ってないんだ。他は店に買いに行かないとな。」
男だらけの店に買いに行ける日が来るんだろうか。そんな思いでいると懐いた小動物が笑顔を向けて聞いてきた。
「もうすぐ着くパンケーキのお店は女の人がたくさんいますけど心の声は出ちゃったりしないんですか?」
何を言ってるんだか。俺の女嫌い歴をなめてもらっては困る。その程度で罵詈雑言が表に出たら…。まぁ顔には多少は出てるだろうがそのくらいのはずだ。
「ハッ。大丈夫だ。誰かの寝ぼけた時と一緒にするな。だだ漏れにしたりしない。」
寝ぼけて…だだ漏れ?ブツブツつぶやく遥に、またやっちまったか…と視線をそらしても遅かった。
「アキ!あれは夢じゃないんですか?ちょっと!」
答えるわけねーだろ。逃れるように早足になった晶の体が急に止まった。
ブッと前を歩く晶にぶつかった遥は文句を言おうと顔をあげる。しかし「なんで急に止まるんですか!」の言葉が口から出ることはなかった。
見上げた顔は驚愕の表情を浮かべて固まっていた。そして狼狽したような素振りで後退りをする。
苦渋に満ちた顔から「クソババア…」とかすかに聞こえて、遥はハッと晶の先に視線を移した。その人もこちらに気づいたようだった。
「あら。晶ちゃん。あなたがこんなところにいるなんて珍しいわね。それに…可愛らしい子を連れてるのも珍しいわ。」
綺麗な…でも年齢不詳のその人は話す内容とは裏腹に凍りつくような冷め切った声を出した。女の人なのに怖いと思った遥は晶の後ろに隠れる。
「こいつは関係ない。」
晶が苦痛に歪んだ顔で返答する。
「コブ付きの子に、たぶらかされてるのね。でもまぁいいわ。沙織さんには今度一緒に旅行に行くように言ってあるから。」
なっ…。文句を言おうとする晶にその人は近づいて頬に手をかけた。そして撫でるように頬を触ると、フフッと笑った。近くで見ていた遥でさえもゾッとして晶の袖をぎゅっと握る。
「可愛い晶ちゃん。その声を私に発しないで。」
人をも殺めそうな冷たい声をかけて、フフフッと笑いながら去っていった。
晶は去って行った後もしばらくその場に立ち尽くしていた。顔は土気色をして今にも倒れてしまいそうだった。
「アキ!アキ!大丈夫ですか?」
遥の呼びかけにも力なく「あぁ。悪い。今日はもう帰ってもいいか?悪い。」と言うだけで動けなさそうだった。
なんとかマンションまで帰るとソファに座らせる。もぬけの殻のような晶に遥はマグカップを渡した。それを無造作に口につけた。
「これ…。」
やっと遥を見た晶にホッとしたように答える。
「ホットミルクにブランデーを少し入れました。直樹さんがどうしても眠れなさそうな時に飲ませてやれって。」
直樹のやつ…。余計なことを。そう思いつつも温かくて体がふわっとするアルコールは今の晶に優しく溶けていった。
「大丈夫ですか?こんなところで寝ると風邪ひきますよ?」
記憶の端にそんな言葉をかけられたような気がする。それなのに温かくてふわふわする心地よい眠りから目が覚めて起き上がった。
「ウッ…。」
隣には小さく丸まった小さいのが上げられた布団を寒そうに求めてすり寄ってきた。そして目を開ける。
「あれ?アキ…。もう朝ですか。まだ眠いです。もう少し…。寒いからもう少し寝てましょう…。」
寝ぼけているのか正気なのか分からない遥が晶の持ち上げている毛布と布団を引っ張っている。
いつの間に布団なんて出したんだ…。そんなどうでもいいことが頭を巡った。
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