第24話 ハグ

 眠れないのは蔑んだ瞳を思い出しての怯えからではなかった。寝て起きたらハグが待っている落ち着かなさは多少ある。

 晶は椅子に座っていた。部屋に戻ってすぐにベッドに入ったのにだ。あんな短時間、ベッドにいただけなのに遥の甘い匂いがして飛び起きるはめになったからだ。

「クソッ。こんなベッドで寝られるか。」

 八つ当たりして枕を投げつける。今すぐにでもシーツを全て替えたかった。しかし替えのシーツは遥の部屋にある。半分は物置部屋になっている部屋に取りに行くのはまっぴらごめんだった。

 どうせ替えのシーツも甘ったるい匂いに汚染されているかもしれない。近づいても匂いに気づくことの方が少なくて失念していた。そしてどうにもできずにベッドから離れて椅子に座るしかなかった。

 そうだ!と思いついて窓を開けた。ヒヤッと澄んだ風が高揚した体に心地よかった。

 クソガキにクソジジイか…。どんなだよ。


 晶は夜風が吹き込む部屋で遥の体調のことを思い出していた。口にするのでさえ嫌なそれは、まざまざと遥が女であるということを示していた。

 しかし…。遥に対しての嫌悪ということにはならなかった。分かり兼る自分の心持ちに自分でさえ説明がつかなった。

 ただ、遥の体調は男では分からないことで心配にはなっていた。どの程度痛いのかつらいのか…。そんな考えに失笑する。

 ハルはクソガキだ。クソガキが腹イタでそれをクソジジイが心配してるだけだ。そう。ただそれだけだ。


 冷え込んできて窓を閉めると恐る恐るベッドに入る。冷たくなっていたが、おかげで匂いはなくなっていた。

 ハルの温もりと残り香の中で寝るなんてどんな拷問だよ…。頭をワシャワシャして思い出さないようにする。それなのにあの小さいのを抱き枕代わりにして寝たかったな。なんて気持ちも心の片隅にわいて、急いでそれを打ち消した。


 朝。なんとか眠れた昨晩からは気持ちのいい目覚めというほどではなかった。それでも起きなければ次に何をしでかすか分かったもんじゃない…。

 嫌々に起きるとソファに座るチビの頭が見えた。

 チッ。起きてやがったか。

 仕方なくそれをグリグリと乱暴に撫でるとぶっきらぼうに「おはよう」の声をかけた。

 ひざ掛けに包まっていたそれはピョコンと嬉しそうに「おはようございます」を口にした。

 しれっといつも通り一人掛けのソファに座る晶にトントントンッと隣の空いたスペースをたたく。それを無視して新聞に目を通した。こっちに来いとでも言いたいのか。

「約束…。男らしくない…です。」

「お前が男を語るな。」

 ムスッとした顔の遥を目の端にとらえた。はぁとため息をついて仕方なく立ち上がる。

 それなのにソファの遥を通り過ぎる晶を見て、遥は丸まった体に顔をうずめた。

「ひゃぁ!」

 ソファの後ろから遥に覆いかぶさるように腕を回した晶に、遥は耳まで真っ赤にして変な声をあげた。

 まずったか…。晶まで恥ずかしくなるとすぐに腕を離して部屋に直行する。

「え?アキ?どこ行っちゃうんですかー!」

 後ろの方で聞こえる声はもちろん無視して部屋のドアを閉めた。

「だから言わんこっちゃない。あんなのして何がいいっていうんだ。」

 時間差で遥以上に赤くなる顔を自覚して、ウゥーッと声を漏らすとしゃがみこんで顔をうずめた。


 電話が鳴って呼吸を整えてから出た。直樹だった。

「なんだ。今日は来ないのか?」

「いや〜。また仲良くしてるところに邪魔しに行っちゃ悪いからな。」

 ククッと愉快そうに笑う直樹が憎らしく思える。確かにさっきのなんか見られたら最悪だ。

「でな、陽菜が「遥ちゃん体調悪くて心配だから晶くんに家での仕事も休んでもらったら?」だとよ。風邪か?大丈夫か?」

 さすがに直樹には体調の本当の理由は伝えてないらしい。それは晶にとってもありがたかった。

「そうか。ハルは幾分いい。でも仕事は大丈夫か?まだ手をつけてないのがずいぶんあるが…。」

「あぁ。それは陽菜が代わりに出勤するってよ。晶に遠慮して来てなかったが、遥ちゃんが心配だからそれなら私が出社するわ。って。」

 今までも仕事を手伝ってもらってはいた。ただ事務所に来られるのは晶が耐えられない。直樹が外に出てる時に事務所で二人っきりなんて無理だ。それを陽菜の方も遠慮していた。

「でも遥ちゃんとは二人っきりで暮らしてるのにな。おっと口が滑った。」

 ハハハッと乾いた笑いをあげて、楽しそうだ。

「もうその手のからかいは飽きたぞ。じゃ俺も用事があるから残った仕事を事務所に持って行こう。」

 「遥ちゃんは大丈夫なのか?」と心配する直樹に「大丈夫…だと思う」と曖昧に返事をした。


 リビングに行きたくない気持ちを引きずりながら行くと遥は朝ご飯を作っていた。ホッとして何も無かったようにダイニングの椅子に腰掛けた。

 晶の前にコトッと湯のみが置かれる。

「生姜湯です。声が少しかすれています。風邪はひき始めが肝心ですから。」

 夜風に当たったせいか…。自分でも気づかなかったが、指摘されて喉の違和感を覚える。

 温かくトロッとした生姜湯は体がポカポカとした。「私も」と座った遥も湯のみに口をつけた。

「今日は事務所に行こうと思っている。ハルはどうする?」

 おとなしく留守番するというだろうという思いは半々だった。悩んでいる遥はうーんと言った後に口を開く。控えめに。でも内容は半端ない内容を。

「朝のハグってもうおしまいですか?」

「…アチッ!」

 手元が狂うと生姜湯を急激に流し込み過ぎていた。お手ふきをもらうと顔を拭く。

「いい加減にしてくれ。勘弁しろよ。あれであんなのは微妙だったってことくらい分かっただろ。」

「微妙ってハグの仕方が微妙ってことですか?」

 今度はゴホゴホと咳き込むことになると自分の頭に手をやって、ため息をつく。

「仕方とかそういうことを言ってるんじゃない。あんなのするもんじゃない。」

「するものじゃなかったら、なんですか?食べるものですか?」

 こいつ…。こんなに会話できないやつだったか。たまに意味不明になるんだ。どうしろって言うのか。

「不安なんです。アキは普通だから。」

 今度はなんだっていうんだ。

「普通ってどこがだ。俺の女嫌いは筋金入りだぞ。」

 遥は、じゃ私は…と聞きたいのを飲み込んだ。生理まできてしまって、しかもそれを知られてしまった。いつかアキの女嫌いの中の女に入ってしまわないのだろうか…。

 もちろん女嫌いだからこそ安心できることがたくさんある。でもそれは「自分以外の女が嫌い」だった場合だということに遥自身も気づき始めていた。

「分かった。今日の予定は女がいそうな所に行こう。ハルが好きな所でいい。その方が過呼吸とかの心配はないからな。それで俺の心の声を教えてやるよ。」

「心の声?」

「フッ。まぁ後のお楽しみだ。」

 晶は意味深に笑って冷めてしまった生姜湯を飲み干した。

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