第15話 涙

「あぁ。起きたか。」

 経済新聞を片手にコーヒーを飲む晶が声をかけた。遥はいつの間にかソファで眠ってしまったらしかった。

 いつものようにリビングの一人掛けのソファに座る晶の姿をとらえた遥はハラハラと泣き出した。

「…ッ!どうしたんだ。」

 読んでいた新聞はテーブルに投げ捨てられた。二人掛けのソファが初めて二人掛けの意味をなすと、遥は晶の腕にしがみついた。初めて会った時を思い出す、そんな光景だった。

 ただあの頃とは違い、振り払おうとはせずに空いている方の手で優しく背中をトントンとたたく。

「大丈夫だ。怖い夢でも見たのか?今日は出かけたから刺激が強過ぎたのかもな。急ぎ過ぎたか。悪かった。」

 力なく首を振る遥に「大丈夫だ。」そう優しく穏やかな声をかける。背中は優しくトントンとし続けた。


 落ち着いてきた遥に優しく諭すように口を開く。

「昼飯を食べずに寝ちまっただろ?何か食べた方がいい。」

 返事の代わりに腕をもう一度つかみ直した手は離したくない気持ちが表れているようだった。フッと笑うと意地悪く、でも甘やかすような声色で言う。

「食わないとチビのまんまだぞ。大丈夫だ。好物を作ってやる。何かリクエストはないのか?」

 頑なに手を離さずに首を振る遥に、ふぅと息をついた。

「あんまりにも気持ち良さそうに寝てるからなぁ。それを起こせない俺にも責任があるか。」

 髪をかき上げて頭をかく間近の晶はキラキラと星が飛んでいるのかと思えるほどだった。

「きれい…。」

「あ?」

 つい口から出た言葉は晶を不機嫌にさせた。グッと黙ってしまった遥に、プッと吹き出す。

「もういいぞ。ハルは気づいてないと思ってるだろうが、今までも言いたそうにしてるのが顔にもろ出てたぞ。言わなくても言ってるようなもんだ。いい加減、慣れるわ。」

 苦笑する晶の顔は優しかった。

「きれい過ぎて…。どこかに行ってしまいそうで。」

 何、寝ぼけたことをぬかしてるんだと、また頭をかく。そんな晶に遥はポソポソと話した。

「おばあちゃんが…。いなくなってしまって…。」

 また目からポロポロと涙がこぼれた。そうか…。こいつ、ばあさんが亡くなってから悲しむ暇もなかったのか。

 つい腕の中に引き寄せると、ふわっと甘い香りがして胸がぎゅっとつかまれる感じがした。やっぱりあの甘い匂いはこいつからか…そんな思いが浮かんだが不思議と突き飛ばして離れたいと思わなかった。

「しっかり悲しんだ方がいい。つらかったんだろう。」

 う…うぅ。チビの遥が腕の中では余計に小さく感じた。小さいそれは胸の中ですすり泣く。


 大切な人を大切なまま失った涙は高等なもののように思えていた。晶にはそんな経験はない。

「ばあさんは消えたりしないさ。ハルが覚えている限りはハルの中に生き続けるだろ?」

 どこかで聞いた受け売りだったが、遥には効果があったようだ。泣き止むとぎゅっと抱きついた。その姿はやっぱり子どもに思えて、さっきの女の甘い匂いは錯覚だったかと思い直した。俺もこいつもそういうのは持ち合わせないんだ。

「さぁ。もう飯を食べよう。」

 立ち上がろうとする晶を遥はまだ離さなかった。

「なんだ。まだ何かあるのか。」

 さすがにうんざりした声が出ても遥はしがみついたままだ。こいつ本当に今日はどうしたっていうんだ。やっぱり連れ出したのは失敗か。そんな思いの晶に遥は思いがけない言葉を発した。

「アキはいなくなったりしない…ですか?」

 こいつ…。

「俺とばあさんを一緒にするな。俺はそこまで老いぼれてない。くたばってたまるか。」

 無理矢理にソファから離れるとキッチンに向かった。


 キッチンに立つ晶の後を追うようについてくる。こいつアヒルのヒナか。俺はお前の親じゃねぇ。そう悪態をつきたいのを飲み込む。

「料理中は危ないだろ?そっちに座ってろ。」

 すぐ側まで来そうな遥にダイニングを指差す。仕方なさそうな顔で椅子に座った。

「何が食べたい?」

「…。」

 おいおい。なんでもいいとか言って…言ってもないが、それで食わなかったら承知しないからな。遥の返答は期待しないまま勝手に作り始めた。


 甘い匂いが部屋に充満するとホカホカと湯気を立てる皿が遥の前に置かれた。

皿の上にあるのはこんがりと焼けたフレンチトーストだった。

 目を丸くした遥がフレンチトーストと晶を交互に見比べる。似合わないとでも言いたそうな顔がバレバレだった。

 晶は読みかけだった新聞を持ってくると上下を確認してダイニングで広げた。遥から姿を隠すように。

「おいしい…です。」

 新聞の向こう側の驚いた声にこっそり微笑んだ。

「アキは…食べないんですか。」

「俺はいい。そこまで甘いのは得意じゃない。昼は適当に食べたしな。」

 カタンとフォークが置かれた音に、ったく本当に世話がかかるやつだと新聞をかたわらに置いた。どうせ読んでもいなかった。

 沸かしておいたお湯で新しくコーヒーを淹れるとまた席について、遥の前で飲み始めた。

 近くにいないと食べない気はしていたが、見られてても食べにくいだろうという晶なりの配慮だった。やはり遥は安心したように食べ始めた。

「おばあちゃんは優しい人でした。アキは少しおばあちゃんに似ています。」

 おいおい。俺はじいさんか、ばあさんなのかと苦々しく思うと、それだから平気なのかと合点がいった。

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