第14話 思い出したくない人

 今すぐにでも事務所に乗り込んでやりたい気分だったが、さすがに連れ回していた遥が心配だった。平気そうに見えても極度の男性恐怖症だ。無理しているのかもしれない。警官には怯えていたようだったのも気になった。

 はやる気持ちを抑えて、まずはハルをマンションに置いてそれからだ。とマンションに向かった。無言で歩く晶に遥は不安そうな顔のまま後を歩く。

 マンションの前に着くと今すぐにでも会いたいのに、一番会いたくないやつがそこにいた。

「直樹…お前…。」

 相当怒っているのが伝わったのか、伝わっていないのか…。「おいおい。遥ちゃんがいる前でそんなに怒るなよ。」とたしなめられた。

 グッと抑えると、外でわめき散らすほど正気を失ってはいない。そう自分を落ち着かせるように言い聞かせた。

 仕方なく招かれざる客を部屋へ入れることになった。

「良かった会えて。インターホンを押しても出ないから帰るところだったんだ。…どうやら俺の渡しておいたものが役立ったらしい。」

 満足げな直樹にもちろん晶は不機嫌な顔だ。

「なんだあれは。いくら直樹でもやり過ぎだろ。」

 できるだけ冷静に言った低い声に、ハハッと乾いた笑い声をあげた。

「分かってないなぁアキは。俺のおかげで助かったんだろ?感謝されてもいいくらいだ。」

「感謝だと?」

 今にもブチギレそうな晶に遥はハラハラしている。

「やめろよ。本気で遥ちゃんが不安定になるぞ。」

 クソッ。腹黒男め。心の中で悪態をつくと、どかっとソファに座った。遥もオドオドしながらいつものソファの端に座った。

 晶の向かいにある一人掛けのソファに直樹も座る。すると遥はそろそろと二人掛けのソファの晶側の端に移動した。

「ハハッ。遥ちゃんにも嫌われちゃったかな?」

 遥は居心地の悪そうな顔をテーブルに向けたまま返事をしなかった。


 悪びれる素振りのない直樹は普通に話し出す。

「遥ちゃんの住所は宙ぶらりんになっていたんだ。そのままにはしておけないだろ?」

 そんなの知るか!と怒鳴りつけたくても遥がいてはできなかった。いくら激昂していても、遥は悪くないのは分かっている。

 クソッ。直樹のやつハルがいる時を狙ってやがったな。恨めしく直樹を見るとククッと一人愉快そうだった。

「移動するにしても相談があっていいはずだ。」

 それじゃ面白くないだろ?と言いたそうな直樹が「まぁまぁ。いいじゃないか。結果良ければ全て良しだろ?」と丸く収めようとしていた。

 何を言っても直樹相手では自分のイライラが解消されないことに気づく。馬鹿らしくなると背もたれに深くもたれた。そしてはぁと息をつく。

「ハル。悪いが何か飲み物頼めないか。」

「…はい。」

 心配そうな視線を残して遥はキッチンの方へ向かった。

「なんだ。人払いして俺は叱責されるか?」

 とぼけた顔で明るく言う直樹にますます馬鹿らしくなった。

「怒号を浴びせたいなら、もっと前にハルを他にやってる。ったく相変わらずだな。直樹は。」

 フフッと笑う直樹は遥のためになることで晶が本気で怒らないことが分かっているようだった。それがまた晶は気に食わない気分だった。いや。本気で怒ってはいたのだが、他のことが気になっていた。

「まだ仕事中だろ?わざわざ家に来て…何か用があったのか?」

 あぁ。と思い出したように口を開く。キッチンの遥を気にしながら。

「あの人が事務所に訪ねてきたぞ。」

 思いもよらない言葉に晶ははぁーっとため息をついて顔を歪ませた。

「そんなことのためにわざわざ来たのか。」

 嫌なことを思い出して不機嫌な声を出した。出来れば忘れていたかった。

「まぁ仕事で近くに来たのもあるが…。あの人がここに来るのはまずいんじゃないかと思ってな。遥ちゃんが…。」

 そこまで話すと遥が飲み物を運んでこっちに来そうな雰囲気を感じて話は中断された。

 別にハルには関係ないだろ。そうは思っても浮かない気分だった。


「ジャスミンティーで良かったですか?本当はせっかくですしコーヒーを淹れてみたかったんですけど…。」

 温かいジャスミンティーは独特の爽やかな香りが柔らかい湯気とともにふわっと香った。

「ジャスミンティーの匂いはリラックス効果があるんだ。遥ちゃんはよく分かってるな。アキにはリラックスが必要だ。」

 ったく。誰のせいだと思ってるんだ。怒る気も失せるほどに呆れて苦々しい顔をする。その顔を見て、また直樹はクククッと笑った。

 直樹に非難する視線を向けてからティーカップを手にとった。匂いを胸いっぱいにする。確かに温かい方が香りがよく立っていて癒される気がした。

「そういえばコーヒーをって…。コーヒーメーカーでも買ったのか?」

 晶が持っていた荷物に目をやった直樹に、遥は目をキラキラさせて、晶はギクッとした顔をする。

「優しいマスターのお店に連れていっていただいて…。」

「ハル!その話はいいだろ?」

「え?」

 しちゃダメだったのかと遥は口を手で覆った。

「もしかして公園の近くの?」

 余計なことを言うなよ。という視線を直樹に送るだけ無駄だと晶はうなだれる。すでにニマニマと面白いことを見つけた顔をしていた。

「懐かしいなぁ。アキはそのカフェで壁際の貴公子って呼ばれてたんだぜ。壁と同化しようとしてたのにな。」

「壁と同化?」

 意味が分からない遥は素っ頓狂な声を出した。

 クククッと楽しそうに笑う直樹に晶は不機嫌そうに席を立った。

「つまらん話だ。俺は部屋に戻ってる。ハルは直樹なら平気だろ?」

 え?という表情を顔に張り付かせたまま、遥はコクリと頷いた。それを確認して晶は部屋へ行ってしまった。

「ハハッ。アキは自分のことを言われるのが嫌なのさ。でも話すのをとめなかったところをみると遥ちゃんにずいぶん気を許してるね。」

 気を許してる…。そうなのかな。確かに今日のアキは優しかったけど…。

 普段から必要以上には話さない晶。今のように不用意に晶のことを話したり詮索すれば心が閉ざされる音が聞こえそうなほどに遮断されてしまう。

「分かりにくいかもしれないけど遥ちゃんは大丈夫だよ。俺からしたら女の子と話すのはもちろん驚きだし、出かけるなんて…。」

 そこまで話してハハッと笑うと、そもそも一緒に暮らすなんてな。と楽しそうだ。そのまま、さきほどの貴公子のことを説明し始めた。

「アキは基本、静かに過ごしたいんだろうが、残念ながらあの風貌がそうはされてくれないよな。」

 遥はスーパーでの注目の浴び方を思い出して納得する。

「あのカフェ。静かで気に入ってたみたいだが、なんせあの風貌だ。周りが放っておかなくてな。壁際の貴公子がいるって人が押しかけるようになって、行けなくなっちまったんだぜ。」

 なんだか可哀想に感じて、しんみりしてしまった遥とは対照的に直樹は楽しそうだ。楽しそうな直樹はさらに続けた。

「紛れようと一番奥の壁際に座ったところで無駄なのにな。」

 またクククッと愉快そうに笑った。


 仕事がまだあるから。と、直樹は帰っていった。

 一人、ソファに座る遥。

「壁際の貴公子…かぁ。」

 直樹にとっては笑える話でも、遥にとっては晶が遠い存在のように感じて寂しい気持ちになった。

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