第9話 誰のため

 食べ終わるとまた本を読み始めたのは、何気なく言った「ごちそうさん」の言葉に居心地が悪くなったからだけではない。

 読んでいる晶に「何か飲まれますか?」と片付けをしている遥がお伺いを立てた。「あぁ」と気のない返事をすると読書に没頭する。

 テーブルに運ばれたグラスに見もせず口をつける。中身を口に運んだ瞬間にハッとして遥に視線を移した。

「すみません。苦手でしたか?」

 グラスの中身は直樹の家で何度か飲んだことのある味だった。

「ルイボスティだそうです。おしゃれなお茶みたいでしたので、お好きかと…。」

 あぁ、直樹の奥さんが食材と一緒に持ってきてくれたのか。納得するともうひとくち飲んだ。

「いや。好みの味だ。前にも直樹に美味しいからと家でも飲むように勧められたが、だいたいから家で飯も食わないんだ。茶なんて余計に…。」

 そこまで言って、はたと気づく。今はハルが家にいて、飯も家で食べるのなら、こんな茶もいいのかもしれない。

「お好きなら良かったです。直樹さんの奥様はおしゃれで優しくて綺麗で…。本当に素敵な方ですね。」

 まぁハルからは緑茶しか思い浮かばないな…。それともオレンジジュースか?と心の中で笑うと遥と目があった。

「あの…。アキも思ったことを言わなくないですか?」

 これだから似てると思うんだ。なんとなく嫌な気分になって不機嫌な声が出る。

「俺はいいんだ。」

 誤魔化すように視線を本に戻すと本の世界へとのめり込んでいった。


 フッと気づくと買ってきていた本を全て読み終えていた。日は傾き始めている。遅い朝食だったとはいえ、さすがに読書に没頭し過ぎたか…。そう思ってリビングに目をやるとソファに小さなものがうずくまって寝ていた。

 本当にチビだな。そっとひざ掛けをかけてやる。女だと薄々分かっているのに優しくしてやるなんて俺はどうかしている…。いや。今はクソガキか。

 そう自分に言い聞かせて、その場を立ち去った。自室に入るとスマホを手に取った。


 リビングに戻ると、ダイニングの方にいた遥の背中がビクッとしたのが分かった。起きたのか…そう思って手元を見ると、さきほど晶が読んでいた本があった。

 あぁ。一人が長いと気づかなかったが、そういう色々を自室に持っていかないとな。そんなどうでもいいことが頭を巡った。

「あ、あの。すみません。片付けようと思って…。」

 怯えた様子のまま続ける。

「あんなに集中して読んでいた本はどんな難しい本だろうって…。すみません。勝手に…あの…。」

 やっぱりいちいち面倒くせーのは相変わらずか。

「別に読んだっていい。というか読んだ方がいいぐらいだ。」

「じゃやっぱりこの本って…。」

「そうだ。お前の症状の本だ。」

 黙ってしまった遥の前を通り過ぎるとキッチンに入った。

「今日は俺が作ろう。」


 手際よく作る晶をカウンター越しのダイニングテーブルで待った。

 わざわざ自分の症状の本をあんなに真剣に読んでいた晶になぜそこまでしてくれるのだろう。と不思議な思いで見る。

 料理をする晶を観察しながら、遥は昨日のことを思い出していた。倒れかけて支えられた腕の力強さ…。今も腕まくりをしてフライパンを振る筋張った腕は男らしさを感じた。

 でも…。抱きしめられるような格好になった昨日も緊張こそしたものの、過呼吸のような拒否反応が出たわけではなかった。ぶっきらぼうでも穏やかな低い声。本当は優しい思いやりのある…。


 コトッと小さな音と共に遥の前にパスタが盛られた皿とサラダの小鉢が置かれた。コップには午前中に冷やしておいたルイボスティが注がれる。

 やっぱり男性も女性も越えたすごい人だから拒否反応なんて恐れ多くて出なかったのかな。

 そんな結論に達していると、晶もテーブルについた。


「そういえば、いただきますを朝は言い忘れてたか。」

 自分で言って、しまった。しれっと忘れたふりでもしときゃ良かったぜ。そんな気持ちになってサラダを手に取った。

「え…。いただきます、しないんですか?」

 返事をしたくない気分になると、汗をかき始めたグラスを見るともなく見つめたまま食べ続けた。しょんぼりした遥もサラダを手に取った。


 晶は食事をしていても別のことに思いを馳せる。

 確かに似ているとは思っていた。だからって遥のために読んだ本が自分のことを言われているように感じるとは…。

 苦々しい気持ちになると、ブッーブッーと電話がかかってきた。直樹だ。

「悪いな。失礼する。」

 まだ食べかけの食事をそのままに晶は部屋に行ってしまった。

 遥はその背中を寂しそうに見送った。少しは打ち解けられたと思ったのに、また晶が冷たい壁をまとってしまったのを感じていた。


「今、大丈夫なのか?」

「あぁ。」

 気が乗らない晶は声を出すのさえ面倒に思えていた。

「なんだ?なんかあったか?」

 やっぱり盗聴器でも仕掛けてるのか…なぜそんな変化に気づくのか。嫌な気分で無機質な声を出す。

「いや。何も。」

「おいおい。アキ。その声と態度で遥ちゃんに接してるなら甘えてるぞ。」

 甘えてるだと?今、一番言われたくない言葉だった。

「なんだ。文句を言うためにかけてきたのか?」

 しばらく無言の向こう側で、直樹が改まった声を出した。

「やっぱりアキには酷だったか。朝にアキのためにもなるなんて言って悪かった。」

 思いもよらない謝罪の言葉に晶も冷静になると、はぁと息をついた。

「俺こそ悪かった。八つ当たりだ。朝の直樹との会話で行き詰まったわけじゃない。」

 やっぱり何かあったのかと、さすがに心配になると直樹は穏やかな声で話し出す。

「あんまり自分を追い詰めるな。アキが心地よいと思う行動はたいてい正解だ。」

 根拠のないあっけらかんとした言葉にハハッと笑う。

「なんだ。また面白がってるな?」

 ハハッ。バレたか。と電話の向こう側の明るい声が晶の心を軽くした。

「さっき依頼された件は調べておく。いつ取りに来れる?」

 本当の要件はこのことだったようだ。

「あぁ。そのことだが…。」


 電話を切ると自室の椅子に座る。仕事用のパソコンが置かれた机にもたれかかると、またため息をついた。

 機能不全家族…アダルトチルドレン…色々と本に出てきた言葉が浮かぶ中で、晶は共依存という単語が胸に突き刺さっていた。

 共依存。互いに依存しあう関係。

 俺はハルに依存して、ハルを失った家族…あのクソババアの代わりにしようとでもしていたのか。

 読んだ後に心を整理すればするほどに嫌な気持ちが心に広がって、それは晶を蝕んでいった。

 また直樹の言葉が心に浮かぶ。「アキが心地よいと思ったことが正解」

 …ッ。本当かよ。


 ダイニングには冷め切ってしまったパスタが食べかけのまま残されていた。自分の冷え切った心のようで生ゴミにそのまま捨てた。

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