第四話 ヒロインの私がこんなに嫌われているわけがない


【この物語でいらないキャラクターは誰ですか?】


 ダイ

 普遍的隣家

 大人シ読子

 茶倮茶倮不良絵

☛狂犬実仁



僕が選択すると、すぐに身体の自由が効くようになった。

身体を硬直させたままのヒロイン達の中で、実仁が僕の方を振り向いた。


「……なんで?」


血の涙を流しながら、実仁は言った。


「ずっと支えてくれるって、そう言ったのに。わたしを応援してくれるって、そう言ってくれたのに」

「……ごめん」


実仁はゆっくりと、僕の方へと近づいて来る。

ごぽごぽと、口から血がこぼれ落ちるのを、僕は黙って見ていた。

足がもつれ、転びそうになった彼女を僕は抱きしめた。


「死にたくない……。死にたくないよぉ」


心の底からの言葉を聞いても、僕には何もできない。

ただただ力強く、彼女を抱きしめてやることしか。


「せっかく……夢が叶うと……思った、の……に……」


彼女の重さが、ずしりと僕に伸しかかる。

これが死んだ人間の重みかと、どこか冷静な自分がそう思った。


バン、と大きな音をたてて屋上の扉が開く。

そこにはクラスメートの女子高生達がいた。

実仁を僕から引き離し、彼女が流した血をモップで拭き始める。


ちらと、女子の一人が変哲無さんを見た。

彼女は青い顔をしながらも震える手を伸ばそうとする。

僕はそれを遮った。


「こんなことする必要なんてない」


変哲無さんは何も言わず、俯いたまま手を下ろした。

モブキャラ達の動きは迅速だった。

実仁を片付け、血がべっとりと付いた僕のシャツまで脱がして代わりのものを着せていく。

彼女達がばたんと扉を閉めると、今までずっと固まっていたヒロイン候補達が動き始めた。


「あれ? あたし、なんでこんなところにいるんだろ」

「あ、お前! いつの間にアタシの前に……!!」


不良絵が僕を見つけると、すぐさま顔を赤くした。

純情ヤンキータイプか。相変わらず安直なキャラ付けだ。


「ごごご、ごめんなさい! すぐに退散しますので、おお、お構いなく~!!」


そう言って、読子は全速力でその場から立ち去った。


「……よくわかんないけど、あたしも教室に戻ろ。あんたも早く戻りなさいよ。もうすぐ授業なんだから」


隣家が僕の横を素通りし、屋上をあとにする。


「い、言っとくけど、さっきはお前が急に現れてびっくりしたとか、そ、そんなんじゃねえからな。浮かれてんじゃねえぞ。ホント、マジきめぇ!」


ひと際強く、不良絵がドアを閉めた。


皆がいなくなり、この場には変哲無さんしかいない。

彼女は不安そうに僕を見つめていた。


「さて」


僕は立ち上がった。


「リセットになりはしたが、次も同じやり方でいこうと思う。現状を考えると、やはりゲームクリアの方法は真のヒロインをオトすことだ。今回分かったことは、ヒロイン以外の子をオトせばリセットされるという事実。つまり、ヒロイン候補をオトしてリセットされれば、その子はヒロインではなかったということになる。これを繰り返していれば、正規ヒロインを『いらない選択肢』で選ぶという最悪の形は起こり得ない」

「え、あ、はい。……そうですね」


彼女は少し動揺した様子で頷いた。


「幸運にも、リセットされてからは誤った選択肢を選んでいない。今回は順当に隣家をオトしにいこう。リセットされてからの選択肢は以前のものと大して変わっていないから、このまま部活に行けば、前と同じように読子と不良絵が入部し、再び規定ルートを選ぶ選択肢が表れるはずだ」

「じゃあ、それまで待機ですか?」


僕は少し考えてから言った。


「いや、それは止めておく」

「何故です? そこでルートを確定してくれるんですから、それに乗っかった方がリスクもないし、楽じゃありません?」

「……定石(じょうせき)過ぎて、少し臭う」

「罠かもしれないということですか? 考え過ぎな気もしますけど……」


僕は腕を組んで空を見上げた。

この間から、妙な違和感が頭の中で渦巻いている。


「今回の主人公のこと、どう思う?」

「え? それってあなたのことですか?」

「そうじゃない。この世界で主人公とされる人間のことだ。犯人が望む主人公像、とでも言えばいいのかな」

「……そうですね。鈍感で、異性にモテて、わざとドジを連発してセクハラするいけ好かない男って感じですか」


相変わらず辛辣な論評だ。


「それがどうかしたんですか?」

「別に」


変哲無さんがジト目で僕を睨む。

僕は敢えて目を合わせなかった。


「客観的な評価が聞きたかったんだ。深い意味はない」


彼女はそれを聞いて、諦観のため息をついた。


「ま、いいんですけどね。私に被害さえなければ」


ちらと彼女を確認すると、それ以上のことを追及するつもりはないらしかった。

彼女だって、身の危険がないとは限らない。その状況下で隠し事をする僕をこうやって許せること自体、非常に寛容な対応だ。


立て続けに呪いに巻き込まれる自分を不幸な人間だと思っていたが、どうやら仲間には恵まれているらしい。


僕と変哲無さんはLINEの交換など最低限のことを確認した。

やはり今回も僕達の関係は隠しておいた方がいいだろうということになり、別々に教室に入るため、変哲無さんとはここで別れることにした。


「……私、人の愚痴を聞くのとか、苦に思わない方なんです」


別れ際、ふいに彼女は言った。


「誰かに吐き出したいことがあれば、言ってくれていいですから」


それだけ言って、変哲無さんは足早に屋上から去って行った。


僕が実仁のことを引きずっているんじゃないかと、彼女なりに考えたのだろう。

あの事態は避けることができなかったし、これ以上何の進展も望めない実仁を選択したことは最善だったと僕は信じている。

なら、それに関して悩んだりすることなどあるはずがない。そういった迷いはその時々の選択を熟慮していないから起きるものだ。


だが僕は、そういった理屈抜きに、ただただ彼女に感謝していた。


◇◇◇


授業中、僕は自分の腕時計を何度も確認していた。

そこに表示された48時間という数字が、俄かに信じられなかったからだ。

実仁をオトすのに三日掛かった。

それでもかなりギリギリだったのだ。これ以上時間を短縮されれば、誰のゴールも見れない状態で『いらない選択肢』を迎えなければならなくなる。

まるでコツは掴めただろ、とでも言いたげだ。

くそ。相変わらず遊ばれている。


しかしこれで僕の勘が当たっていたことが分かった。

このタイムリミットでは、放課後のルート固定まで待っていられない。

積極的に行動していかなければ、一縷の望みにすらかけられないのだ。


授業が終わると、僕は早速隣家の元へ赴いた。


「さっきの授業はどうだった?」

「はあ?」


隣家の迷惑そうな顔に、僕のぎこちない笑みがさらに強張る。


「なによ急に。学校じゃ、ほとんど自分から話しに来ないくせに」


これは小早川裕也のことを言っているのだろうか。

生前の彼は、彼女と距離を置きたかったのだろう。

嫌悪感からか。それとも好意の裏返しなのか。


……とにかく、考察は後だ。

今はなんとか彼女との仲を進展させなければならない。


「いや、悪い。お前と話がしたかっただけなんだ。ただ、話題がなくて」


適当にそう返すと、彼女はにわかに頬を染めた。


「ふ、ふーん……。話題がないのに話がしたかったんだ」


お?

満更でもない様子だ。

もしかしたら僕にはジゴロの素質があるのかもしれない。


ふいに、スマホにLINEが送られて来た。


変哲無『ただのマグレです』


この人は、いちいち茶々をいれなければ気が済まないらしい。


その時、ふいに例の選択肢が頭に浮かんだ。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☞お前との会話は楽しいからな

 そういうわけじゃない

 暇だったからさ~



今回は無難な選択肢だ。

特に迷う部分がない。

しかしいつも思うが、三択目は奇を衒(てら)い過ぎてないか?

まあ、それが正解だった時もあるから何とも言えないのだが。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☛お前との会話は楽しいからな

 そういうわけじゃない

 暇だったからさー



「……そんな風に思ってたんだ」


隣家は恥ずかしさでこちらを見れない様子だった。

ゲージがぐぐんと上がる。

まずまずの出だしだ。これなら特に問題なく隣家エンドが見れそうだ。


「じゃ、じゃあさ。次の移動教室、一緒に行こうよ」

「ああ」


計らずも、相手から話す機会を作ってくれた。

この調子なら、タイムリミットにも十分間に合うかもしれない。



二人で廊下を歩きながら、僕は緊張した面持ちの隣家を改めて観察した。

つい先日、ナイフを片手に僕を執拗に追いかけ回した張本人。

あの時の光景は目に焼きついて離れないが、不思議と今の隣家を敬遠しようという気にはならない。

あれだけ変貌してしまったらもはや別人だと脳が認識してしまうのかもしれない。何にせよ、僕にとっては好都合だ。

生理的嫌悪というものは、どれだけ意識してもなかなか克服するのは難しいからな。


「……な、なにか話してよ」


まるで初々しいカップルのような会話だ。

やはり隣家と僕の関係性には大きなギャップがあるらしい。


「何の話がいい?」

「なんでもいいわよ」

「んー……じゃあ未来の話はどう?」

「なにそれ?」

「今はSNSの時代だと言われているけど、僕は今後それが変化してコミュニティの時代が来ると思ってるんだ。それというのも──」

「そういえばさ」


隣家は華麗に僕の話をスルーした。

そっちが何か話せというから話したのに……。

こういうことはよくあることなので、今更気にしないが。


「なんだか、今日は別人みたい」


ふいに、隣家が言った。


「いつもはさ。一緒に登校しようともしなかったじゃない?」


……それでもあんなにグイグイきてたのか。

小早川裕也は本当に隣家を嫌っていたのかもしれないな。


「……なんていうか、恥ずかしかったから」


女性が喜びそうな言葉が、なんとなく分かってきた。

彼女達は感受性豊かなので、おそらく嘘をついてもほとんどの場合、見抜かれる。変に理屈を考えるよりも、思ったことを素直に言った方がウケがいいのだ。

性格の良い無口な男より、性格の悪い饒舌な男の方がモテるというしな。感情の素直な表現が大切なんだ。


こんな考察をたてられるようになっただけ、僕も慣れたものである。


「言っとくけど、あたしも恥ずかしかったんだから」


ぼそりと、隣家は言った。


「あ、あんたのこと、誘ったりするの」

「……そう」


……まずいな。

大層なご高説を唱えた直後だというのに、早速どう答えるべきか分からない。

隣家はこれ以上の返答を望んでいるようで、ちらちらとこちらに目配せしている。

しかし、『あたしも恥ずかしかった』と言われても、『そう』としか答えられないじゃないか。それ以上の感想なんて抱きようがない。


さっきの理屈で言えば、これが最適解なはずなんだけどな。

もう少し詳細に定義する必要がありそうだ。


そんなことを考えていると、急に隣家がふてくされたように口をすぼめた。

どうやら時間切れらしい。


「……なんでこれだけアピールして気付かないのよ。ホントに鈍感なんだから」


僕はその独り言に食いついた。


「何を言ってるんだ! 僕は君のことが好──」

「さ、早く行こ」


……わざとやってるのか?

僕はさっさと歩いていく隣家の背中を恨めしく睨んだ。


◇◇◇


それからは、自分でも驚くくらい順調に好感度が上がっていった。

実仁の時は変哲無さんの助言を随所で思い出さなければならないくらいの難易度だったというのに、今回はまるで迷う必要がない。

高校生レベルから一気に小学生レベルにまで難易度が低下した思いだ。


そしてとうとう……


「そ、そんな風に思ってたんだ。……ちょっとうれしいかも」


その選択肢に成功し、好感度がマックスになった。


あまりにもあっけない。

三日どころか、放課後になる前に攻略してしまった。

犯人が想定していた以上にコツを掴んでいたということか。

ふっ。ざまあみろ。


そこはちょうど、人がほとんど通らない裏庭だった。

以前、隣家が黙々と校舎を殴っていたいわく付きの場所だが、告白にはうってつけだった。


仮に隣家が真のヒロインではなかった場合、再び世界はリセットされるだろう。

その時は変哲無さんに連絡してもらえるようにちゃんと計らってある。


「ねぇ。なんかさ……ここにいると、世界に二人しかいないみたいじゃない?」


そう言って、彼女ははにかんだ。

彼女の方からそういう空気を持ち込んで来てもらえるとは好都合だ。

シチュエーションも完璧。

いける!!


僕は言葉を発するために、大きく息を吸った。

何者かが走ってくる音がする。

僕は叫んだ。


「好きだ!!」


僕は隣家……の前に突然現れた不良絵に向かって、その言葉を発した。


「へ……?」


不良絵の驚いた顔が、僕を見つめていた。


な……。

なにいいいぃ!?


ば、馬鹿な。ありえない。

なんで僕がこんなお約束なミスを……!


狼狽した僕を尻目に、隣家が憂いを帯びた表情で去って行った。


嘘だろ?

あの状況だぞ。君以外の人間に告白するなんてありえないだろ。

どれだけ後ろ向きな考え方をしてるんだ、あいつは!


「い、いきなりそんなこと言われても……!! ここ、困るっていうか、その……」


狼狽した不良絵が何か言っているが、僕の耳には入らない。

僕は焦燥感を必死に押し殺しながら頭を回転させた。


くそ。

本当なら隣家の誤解を解きに行きたいところだが、それをするとまた恐ろしいピタゴラスイッチが発動しかねない。


「えっと、あの……ちょっと、考える時間が欲しい。一応アンタの気持ちは分かったから……。あとで……あとで、ちゃんと返事するから。じゃ、じゃあ!!」


僕がまったく話を聞いていないとは露とも知らず、彼女は一目散にその場を駆けて行った。


◇◇◇


「何をやってるんですか」


屋上で変哲無さんに事情を話すと、彼女は呆れ顔でそう言い、自前の弁当に手をつけた。


「仕方ないだろ。あんなの想定できない。というかおそらく、あれも『お約束』の類だろうし」


僕が何かの選択肢を間違えた形跡は今のところない。

となれば、あれは意図的なルート介入だと考えるのが妥当だ。


「『お約束』? じゃあ隣家さんはオトせないってことですか?」

「……まあ、現状を分析するとそうなる」

「どうしてですか?」

「さあね。何かフラグがあるのかもしれないな」


ある一定の行動を取らなければ特定のヒロインをオトせない。

そういった設定を課す恋愛ゲームは割と多い。


「ますます彼女が正規ヒロインっぽい感じですね。それでどうするんです?」

「……」


僕は黙った。

不良絵にターゲットを切り替えるとなると、これまで上げた隣家への好感度が全てパーになる。

それはつまり、今までの行動が全て無意味になるということだ。

『いらない選択肢』が迫っている今、その時間はあまりにも惜しい。

かといって、隣家に拘っていればそれこそ時間の無駄だ。


「……まただな」

「え?」

「思考が誘導されている。気持ちが悪い」


ルールとして縛るわけでもない、あくまでも僕の自由意思に則った束縛。

その歪曲的なやり方は、僕やジョーさんがもっとも嫌いなやり方だった。


「……仕方ない。不良絵にターゲットを変えつつ、隣家のフラグを探そう」

「不良絵さんの好感度がマックスまで上がったら?」

「『いらない選択肢』ギリギリまで引っ張って、最後にオトす」


これが現状の最適解だ。

それすらも誘導されている気がするのは、恐らく考え過ぎではないだろう。

しかし犯人の思惑が分からない以上、こうする以外に方法がない。


「作戦は以上だ。また何かあったら連絡するよ」

「分かりました。……というかあなた、ごはん食べないんですか? お昼に何か食べてる姿、見たことないんですけど」

「好みのものが購買部にない」

「そんなヒョロヒョロの身体で、まだ食べないつもりですか?」

「昔フィットネスに行っていた頃は、プロのアスリート並みの体脂肪率だと褒められたぞ」

「貶し言葉に決まってるでしょ。アスリートって数パーセントの体脂肪率ですよ。どこまで楽観的なんですか」


彼女は小さくため息をつき、自分の弁当箱を、そっと僕に近づけた。


「何か食べたいものありますか?」

「チョコフレーク」

「馬鹿ですか!? 私のお弁当の中でっていう意味です!」


誰が馬鹿だ、失礼な。

そんなこと、言われないと分からないに決まってる。


僕は改めて、じっと彼女の弁当を凝視した。

そつのない弁当で、どれも普通においしそうだ。

現実の世界での彼女は、メイドだったり喫茶店のバイトだったり、色々な仕事を経験しているようだった。こういったことは朝飯前なのだろう。


「からあげ」

「……よりによって一番価値の高いものを」


彼女は苛立ち混じりにからあげを箸で摘まみ、僕の方へと差し出した。


「あなたに倒れられても困るんです。こうなった以上はさっさと帰る方法を見つけてもらわないといけませんから」


彼女はそっぽを向いたまま、決してこっちを見ようとしない。

僕はそれを手で受け取り、そのまま口の中に放り込んだ。


「……うまい」

「まずいとか言ったら張り倒してましたよ。正解の選択肢を選んでよかったですね」


もぐもぐと久しぶりのタンパク質を噛みしめていると、僕はハッとした。


「……しまった」

「え、どうかしました?」

「ゾーンに入った」


沈黙が流れる。


「あの、ゾーンって一体──」

「動くな!!」


僕は叫んだ。


「下手に動くと危険だ」


変哲無さんが顔を青くした。


「な、なんですか。なんなんですか、そのゾーンって!?」

「驚くなよ。僕がゾーンに入ると、ほぼ100%の確率で何らかのミスを犯してしまうんだ」

「……は?」

「口ではうまく説明できない感覚だ。心がふわふわしている感じというか、周囲を空気の殻が覆っているような感覚というか」


まさかこの世界でも発動してしまうとは。

これがあるからアルバイトだって満足にこなせないというのに。


「……何度か言いましたけど、あなたって馬鹿なんですか? いえ、馬鹿なんですね。そうなんですね」

「君はゾーンの恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんだ。ミスをすると自分で分かっているということは、それだけ慎重に行動するということだ。それでもミスが起きるんだぞ? それにこの状況を考えてみろ。一体何をすることがミスといえるんだ? それすらも分からない」

「私はいつから哲学の授業を受けていたんですかね。下らない話しかしないならもう帰ります」


彼女は残っている弁当を風呂敷に包み始めた。


「馬鹿、待て!!」


下手に動くと危険だ。

そう思って彼女の手を掴もうとして、僕の手は誤って弁当箱に直撃した。

弁当箱は中のものを飛散させながら宙を舞い、そのまま床を転がった。

変哲無さんは、黙って弁当の亡骸を見つめている。


僕は小さく息をついた。


「だから言っただろ?」

「言っただろ? じゃない!!」


変哲無さんは、いきなり僕の胸倉を掴んだ。


「なんてことするんですか!! まだ全然食べ足りなかったのに!!」

「ゾーンとはそういうものなんだ」

「ただドジを連発するだけでしょ! なにがゾーンよ! かっこつけた言い方して!!」


がくがくと、彼女は問答無用で揺すって来る。

乗り物が苦手な僕にとってはなかなかに効果的な攻撃だ。


「……ちょっと手を緩めてくれ。本格的に気持ち悪くなってきた」


彼女は怒り心頭で僕の言葉など聞いていない。

しかしそれでも抗議の意を示そうと、僕は彼女の手を払いのけようとして──


何故か、その手が彼女の胸にあった。

僕は冷静に考えた。


「いや、これはたぶん『お約束』の方──」


パアンと、甲高い音が青空の下で響き渡った。


◇◇◇


僕は憮然とした態度で自分の席に座っていた。

既にかなりの時間が経っているというのに、未だ僕の頬には赤い紅葉が咲いている。


「それ、どしたの?」


不良絵が無神経に聞いて来た。


「別に」

「んなこと言って~。どうせ彼女にぶん殴られたんでしょ? アタシに告ったのがバレた?」


そんなことを言って、けらけらと不良絵は笑った。

告白した当初はかなり動揺していたが、時間が経つとそれもなくなるらしい。


「あの告白ってさ。本気なの?」


軽い口調だが、目に並々ならぬ気迫を感じる。

ふいに、例の選択肢が頭の中に現れた。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☞嘘はつかない主義だ

 からかってるに決まってるだろ



今度は二択か。

考慮すべきは、隣家との好感度がマックスになっていることだろうか。

上の選択を選ぶと、では隣家とは何だったんだということになる。

しかし下の選択ではせっかくできた不良絵とのフラグが完全に折れてしまう。


再びヤンデレ化の兆しを見せる可能性はあるものの、隣家をオトせない現状、不良絵ルートに進む前提で動いた方がいいだろう。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☛嘘はつかない主義だ

 からかってるに決まってるだろ



「へへっ♪ そっか、そっか」


彼女はそう言って、僕の腕に抱きついてきた。

思わず隣家を探してしまう。幸いにも、彼女はその場にはいなかった。


「もぉ、なによ。せっかく好きな女の子がアプローチしてるってのに」


拗ねたように頬を膨らませる。

あれだけ僕を拒絶していたというのに。同じ人間とは思えない。


「それって、告白を受け入れたっていうこと?」

「んー……? うん。そうだよ。アンタの彼女になってあげる」


随分と簡単に言ってくれる。

僕はちらと彼女のゲージを確認した。

好感度は60%ほどの段階で止まっている。


「アタシもアンタのこと、大好きだよ」


そう言って、肩に凭れ掛かってくる。

しかしそれが上辺だけの言葉だということは、このゲージが示してくれている。


自分のことを好きだと嘘の公言をしている人間から本当の好きを引き出すというのは、なかなか難易度が高そうだ。

これからのことを考えて憂鬱になっていると、ふいに僕の前に読子が現れた。


「あ、あの……」


彼女は顔を赤くし、視線を逸らしながら入部届を差し出した。


「ぶぶ、文芸部の部長さんですよね。にゅ、入部したいんですけど……」


不良絵は舌打ちした。


「あのさぁ。アタシがダーリンとイチャイチャしてたの分かったでしょ? 空気くらい読んで欲しいんだけど」

「……別に、読む必要ないと思うんですけど」

「はあ!?」


彼女は持っていた本で、さっと顔を隠した。


……なんだ?

読子にしてはやけに攻撃的だ。


「そそそ、それで、入部してもいいんですか? ダメなんですか?」


再び、例の選択肢が頭の中で現れた。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☞もちろん歓迎だ

 いや、断るよ



何か変だな。

三択が二択に減ったことといい、妙にヒロイン候補が寄って来ることといい。

……もしかして。

僕はある仮説をたてながら、選択肢に答えた。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☛もちろん歓迎だ

 いや、断るよ



「はあ!? ちょっと!! どういうことよ!!」

「文芸部は存続の危機だからね。部員はいつだって歓迎だ」


突っかかる不良絵とは裏腹に、読子は満面の笑みを浮かべている。


「あ、あの! これから、よろしくお願いします!!」


そう言って、読子は僕の手を両手で握った。

しかしすぐに不良絵がそれを払いのける。


「……なにするんですか?」

「別に。ダーリンが気持ち悪そうな顔してたからさぁ。彼女として、たかって来るウザいハエは叩き落とさないとと思って」


彼女達は謎の火花を散らしている。


やはりだ。間違いない。

僕は名探偵が容疑者達に向かって宣言するかのように、心の中で言った。

これは……ハーレムルートだ。


◇◇◇


放課後の部室では類を見ないほど険悪なムードが流れていた。

読子と不良絵が一触即発の雰囲気で睨み合い、隣家は胸に一物(いちもつ)を抱いているのか、難しい顔で下を向いている。

そしてその中で、一層居心地の悪そうなのが変哲無さんだった。


変哲無『なんで私がここにいるんですか?』


彼女は机に隠すようにして僕にLINEを送ってきた。


ダイ『どんな状況になるか分からないから、いつでも君から的確なアドバイスがもらえるようにしておきたかった。それに、こんな空気一人じゃ耐えられない』


さっきから、不良絵と読子が不毛な言い争いを繰り広げていた。


「いつまでこの人の彼女面してるんですか? いい加減、迷惑だと思いますけど」

「彼女面ぁ? アタシはコイツに告られたから一緒にいるんですけど。アンタこそ告白されたわけでもないのにそうやって嫉妬心丸出しにして、恥ずかしくない? てか何様?」

「え? 私、ただの部員ですけど」


ひくりと、不良絵の眉が吊り上がった。


「……あっそ~! まあそうよねぇ。こんなトロくさそうな奴、ダーリンが相手するわけないし」

「そ、そんなことありませんよ! 私にだって……み、魅力的なところくらい」

「へぇ~。じゃ、言ってみなよ。何かある? アンタに良いところ」


不良絵は挑戦的に身を乗り出して言った。


「いっぱいありますよ! 本だってたくさん知ってるし、私の方がお……お、おっぱいも大きいですし!!」

「はあ!?」


僕は思わず顔を手で覆った。

どうしよう。

早くも逃げ出したくなってきた。

だいたい、僕はハーレムが嫌いなんだと最初から言ってるだろ。


それにしても……。

僕はちらと隣家を一瞥した。

彼女は特に騒動に入るわけでもなく、机の一点を見つめてじっとしている。

ハーレムルートだというのなら、何故彼女は喧嘩に入っていかないんだ?

好感度が一番多いヒロインの余裕か? いや、そんなわけがない。

ハーレムルートに見せかけて、まだ隣家ルートを彷徨っている可能性もあるな。


僕は例の同人誌を取り出した。

どうやらこの本は、ゲームでいう攻略本の役割を担っているらしい。

これを見ると、全てのヒロイン候補達が何らかの問題を抱えていたことが分かる。


マッハ・走流乃の『思い通りの身体』は怪我をして運動部を辞めざるを得なかった彼女の苦悩が描かれているし、暴力彩芽の『一人になりたいと私は言えない』は活発な彼女が他人に打ち明けられなかった孤独を持っていたことを如実に表している。

そして当然、ここにいるヒロイン候補達の短編もこの同人誌には載っている。

茶倮茶倮不良絵の『大好きはいつだって上辺の言葉』。親や彼氏から表面上の言葉でしか愛情を受け取って来なかったことが描かれている。

大人シ読子の『情けなくも誇り高き自分自身』。自分がよくドジを起こしてしまうことを苦に思っていたようだ。


そして肝心の隣家の……


『この中の誰かがいらない』


僕は目を擦った。

もう一度まじまじと見つめてみる。

僕はこの部屋に来るたびに同人誌を確認していた。当然、オトそうとするヒロイン候補以外の小説にだって目を通していた。

しかし、隣家の小説のタイトルはこんな内容だったか?

……いや、このおどろおどろしいフォントを見れば、僕の感覚が正しいことは嫌でも分かる。


僕はページを捲った。

1ページ。2ページ3ページ。

何枚捲っても、隣家の短編は白紙だった。


「なにしてるの?」


突然目の前に現れた隣家に、僕は思わず肩を震わせた。

彼女はバンと力強く同人誌を閉じると、そのままそれを持って行ってしまった。


……相変わらず、隣家はホラー要素満載だ。

しかし、先ほどのタイトルはある意味でヒントと言えなくもなかった。

『この中の誰かがいらない』。

正直、そんな発想で今回の物語を見たことがなかった。

僕は今まで、誰かをオトすことがゲームクリアの条件だと思っていたが、誰かを『いらない』と選択することがゲームクリアの条件になる可能性もあるのだ。

その場合、考えられる可能性はどういうものがあるのか。

僕は言い合いをしている読子と不良絵、僕から奪った同人誌を退屈そうに捲っている隣家に目をやった。


この中に、小早川裕也を殺した人間がいる……?


怪しさ満点の編集者と名乗る男は、小早川裕也の死を事故だと言っていた。しかし、妙に含みを持たせていたのも事実だ。

事なかれ主義なら、確証のない推論を述べることはしない。しかし含みを持たせるだけの余地は確かにあったということだ。


仮に小早川裕也がここにいる誰かに殺されたとして、それを調べることは僕にはできない。それができるのは現実にいる人間だけだ。

殺人事件の犯人を『いらない』と選択することがゲームクリアの条件なんだとすれば、これほど不平等なゲームもない。

推理も何もなく、あてずっぽうで犯人を選ばなくてはならないのだから。


……そもそも、何故繰り返すのは6月17日なんだ?

死んだのが6月17日で、僕を小早川裕也に見立てて現実を再現するのが目的なら、繰り返すべきは6月16日以前のいずれかではないだろうか。


死んだことをなかったことにしたい。

死の無念を晴らしたい。


色々と考えられるが、少なくとも言えるのは、この呪いは死というものを中心とした想いであるということだ。


結局、僕の考察は堂々巡りを繰り返したまま、無為に放課後の時間は過ぎ去ってしまった。


◇◇◇


朝の登校時間。

僕は何度目かになる通学路を歩いていた。


昨日の夜はどうにか編集者と連絡が取れないかと色々試してみたのだが、結局うまくはいかなかった。

というか……


「腕、痛いんだけど」


僕の両腕には、互いに僕の腕を引っ張る不良絵と読子がいた。


「大人しそうな顔して図々しい女ってどうかと思うのよねぇ。絶対腹ん中まっ黒よ、コイツ」

「彼氏がたくさんいそうな遊び人よりはマシだと思いますけどね~。あ、別に誰とは言ってませんよ? 例えです、例え」


一触即発とはこのことだ。


「とりあえず離してくれ。これじゃ満足に歩けない」


僕の言うことにはちゃんと耳を傾けてくれるのが不幸中の幸いだった。

彼女たちは腕を離し、しかし相変わらず口喧嘩で互いを罵り合っている。


僕はちらと後ろを見た。

そこには隣家がいた。

つかず離れず。同じグループかと言われれば、はいそうですと言える程度には距離を詰めているが、積極的に会話してくる気配はない。

今の口喧嘩にも、隣家は入って来るつもりはないらしかった。

しかし僕に興味がないのかと言われればそうではない。今日だって、わざわざ隣から僕を起こしに来たくらいなのだから。

一体なんなんだ。相変わらず思惑が見えない。


「やめてください! 暴力なんてひどいですよ!!」


その声を聞いて、ようやく僕は異変に気付いた。

身体を押された読子が不良絵を非難するように叫んでいたのだ。


「アンタが何度言っても聞かないからでしょ!」


おいおい。

マジ喧嘩じゃないか。

ハーレム漫画だともっとこう、穏やかな感じじゃなかったか?


「おい、やめてくれ。周りが不審な目で見てるだろ」


僕が口を出すと、二人は不満ありありな顔でそっぽを向いた。


「この腹黒女が悪いんじゃん」

「暴力を正当化なんて、ありえません」


再び言い合いになりそうなのを、僕は無理やりストップさせた。


「喧嘩がしたいなら僕のいないところでやってくれ。これ以上はさすがに僕も迷惑だ」


僕はそれだけ言って、さっさと歩いて行った。

ただでさえ朝は苦手だというのに、ストレスが掛かって仕方がない。

僕はLINEを開いた。


ダイ『彼女達が鬱陶しい』

ダイ『延々と文句を言っていたら大人しくなるかな?』

変哲無『ぶん殴られたいならやればいいのでは?』

ダイ『むしろ感激して自身の考えを改めるんじゃないか?』

変哲無『ありえません』

変哲無『あなたって本当に楽観的ですよね』

ダイ『失礼な奴だな。ちゃんと論理的に考えた上での予測だ。楽観主義者は予測をたてない。大きな違いだろ?』

変哲無『その予測の的中率って何パーセントですか? 私の経験上、楽観主義者はパーセンテージを算出しないんです。100%当たる予測はもはや予測ではありませんよ』

ダイ『(´・c_・`)』

変哲無『久々にむかつく顔文字を見ました』

変哲無『その鼻へし折ってやりたくなりますね』


僕は思わず笑みを浮かべた。

認めたくないことだが、どうやら彼女とのやり取りがストレス解消には効果的らしい。


変哲無『苛立っているあなたに朗報です』

変哲無『私の家の近所のコンビニで売ってました。あなたの大好きな『いちごオレ』と『チョコフレーク』』


僕は思わず数センチ、スマホに顔を近づけた。


変哲無『仕方ないから買って来てあげましたよ。仕方ないから』

ダイ『君は天使だ』

変哲無『そういうセリフはヒロイン候補の子達に言ってあげてください』


昼休みを楽しみにしていてくださいという彼女の返信に、僕は心躍る思いだった。

『いらない選択肢』のせいで時が進むことが過度のストレスだった僕にとって、この世界に来て初めて待ち遠しいという感覚を味わえた気がする。


「何にやにやしてんの?」


不良絵に言われ、僕はすぐにスマホを仕舞った。


「別になんでも」


僕は頬を緩むのを我慢しながら言った。

今から昼が楽しみだ。


◇◇◇


「……遅い」


僕は屋上で思わずつぶやいた。

昼になり即刻屋上に足を運んだものの、10分20分と待っても変哲無さんはやって来ない。

僕はすぐに不安になった。

人に嫌われることを何よりも恐れる変哲無さんが、時間に遅れるなんてことをするはずがない。ましてや約束を破るなんて、到底考えられないことだ。

何かあったんじゃないかという思いがふつふつと湧き出て来る。


今から教室に戻ろうかと何度か思ったが、入れ違いになるのも面倒だと思い、結局昼は屋上でずっと待機していることにした。

しかし僕の思惑も空しく、とうとうチャイムが鳴った。

結局、変哲無さんは来なかった。



教室に戻ると、彼女はいつも通りの様子で席に座っていた。

変わったところはないように思える。

僕は自分の席に座り、不良絵や読子が語り掛けてくる言葉を上の空で聞きながら、ずっと変哲無さんを観察していた。


授業が終わり、僕は居ても立ってもいられず、彼女の元へ歩いて行った。


「なぁ」


僕が話しかけるも、彼女はすぐに席を立ち、さっさと教室を出て行ってしまう。

確かに、教室で話しかけるのはご法度だと決めた。

それを忠実に守っているという風に取れなくもない。

しかしなんだろう。何かが違う気がする。


僕はいつも変哲無さんとつるんでいる子達から話を聞きだすことにした。


「今日の昼、彼女と一緒にいた?」

「え? ううん。変哲無さん、お昼になるといなくなるから」

「いつも何してるのって聞いてもはぐらかされるし。……あれは彼氏と見たね」

「ええー!? ウソォ!?」


僕などいないかのように、彼女達は恋バナに花を咲かせている。


僕は顎に手をやった。

昼になるといなくなる。その一事だけで恋人関係を疑われるのだ。当然、僕と会っていることがばれたら相応の誤解を受けることになるだろう。


授業中、僕は彼女に何度もLINEを送った。


ダイ『何をしてたんだ?』

ダイ『プライベートに介入する気はないけど、なんとなく心配だ。返事をくれ』


全て無視。

既読すらつかない。

一体なんなんだ、と普段ならこう思うはずだった。しかし僕の心には焦燥感ばかりが募っていく。

心の底では分かっていたのだ。今、彼女に起きていることが何なのか。


放課後になった。

僕はすぐさま立ち上がり、変哲無さんのところへ向かおうとした。


「どこに行くんです?」


僕の進行を邪魔するように、読子が立っていた。

にっこりと、彼女は笑っている。

彼女の後ろで、変哲無さんが教室を出て行った。


「どけ」

「そんな言い方、酷くありません?」


僕は無理やり彼女を素通りしようとした。


「きゃあ!!」


わざとらしい声だ。


「ちょっと、どうしたの読子!」


隣家が彼女を庇うように立つ。


「む、むむ、胸を触られました~!!」


しくしくと、彼女は泣きだす。


「はあ!? ちょっと!! あんた、本当にそんなことしたの!?」


イライラする。

いや、これは苛立ちなんていう生易しいものじゃない。

正真正銘の怒りだ。


「ねぇちょっと、聞いてるの!? 女の子にそんなこと──」

「黙れ」


怒りを押し殺して放ったその一言は、僕が思っていた以上に冷たいものだった。


「好感度を下げたいなら下げればいい。教師にでも、警察にでも報告しろ。僕はお前たちに関わってる暇はない」


僕はずかずかと歩いていき、教室のドアの前でぴたりと止まった。


「おい」


そこにいる、いかにもガラの悪そうな女子に声をかける。


「不良絵はどこだ?」

「え、あの……」


僕は彼女の胸倉を掴んだ。


「どこだ?」


◇◇◇


僕は走った。

彼女から聞いた、ほとんど誰も使用しない女子トイレに迷うことなく僕は入った。


そこにいたのは不良絵だった。

彼女は驚き、狼狽した様子で目の前にある閉ざされた個室をちらちらと窺っている。

僕はすぐにそこへ行った。


「あ、あの違うの。アタシがやったんじゃなくて、えっと……」


ドアノブに手を掛け、僕はそれを開けた。


僕は思わず息が詰まった。

予想していた光景が飛び込んで来たにも関わらず、それが信じられない思いだった。


そこにいたのはボロボロになった変哲無さんだった。

身体中が水浸しで、服がはだけ、そこから見える素肌はどこも青あざになっている。

彼女が僕に気付き、服を整えようと動いた。

その時、腕にあった焦げ跡を見つけた。タバコの火を押し付けた跡だった。


僕は黙って、自分の上着を彼女にかけてやった。


「ほ、本当に……アタシじゃなくて……。あの、アタシは隣家が……、隣家が、言うから、やっただけで」


隣家……?

あいつが仕組んだのか?

……駄目だ。

今の頭ではまともなことは考えられなかった。


「出て行け」

「で、でも……」

「早く出て行け!!」


これほどの大声を出したのは、人生で二度目のことだった。

不良絵は泣きながらその場を走り去って行った。


くそ。

泣きたいのはこっちだ。


「……立てるか?」

「……今度は、私をオトすつもりですか?」


そう言って、彼女は苦笑した。

精一杯の強がりだということは、その震える身体を見ればすぐに分かった。


「前にも言っただろ。このゲームをクリアするのは僕一人では無理だ。なら、君のコンディションを管理するのも重要な仕事だ」

「……そういう時は、心配だからって一言だけ言っておくのがモテる男の秘訣ですよ」


彼女は立ち上がろうとして、その顔が苦悶に歪んだ。

僕は慌てて彼女に肩を貸した。


足の腫れが酷い。骨は異常ないみたいだが、相当痛めつけられたようだ。

何よりも卑劣だと感じるのは、怪我が全て服で隠せる場所につけられていることだ。


これを見て、僕の中のドス黒い感情が溢れてきた。

今までは、ずっと呪いで操られていたと思っていた。

ヒロイン候補を強要され、この世界の登場人物であることを強制され、やらされたくもないことを延々とやらされているのだと思っていた。

でも、今回の件で分からなくなった。

本当に、彼女達は助けるべき存在なのか?


『この中の誰かがいらない』


僕は思わず自分の顔を殴りそうになった。

しっかりしろ。

再三自分で言っていたじゃないか。誰かに操られている気がすると。

今回の件は……、いや今回の件こそ、犯人による誘導が如実に表れたものだ。

こんなことで思考を乱されては駄目だ。

僕は再び、彼女の怪我を見た。

こんなこと……なのか? 本当に?


トイレから出ると、そこには隣家がいた。

彼女は僕を見ても、変哲無さんを見ても、表情一つ変えなかった。


「あなたがいけないの」


素通りしようとした僕の横で、隣家は言った。


「あなたがあたしを見ようとしないから。ずっとこの女だけを見てるから」


僕は無視して彼女を通り過ぎた。


「あなたがいけないのよ」


背中越しに聞こえるその抑揚のない声が、耳にへばりついて離れなかった。


◇◇◇


僕はすぐに彼女を保健室に連れて行った。

幸いなことに大事には至らないようで、治療の甲斐もあってか、しばらくすると一人で歩けるくらいには回復していた。

変哲無さんは一人で帰ると言って聞かなかったが、僕が半ば強引に意見を押し通し、今現在彼女の家まで送っている最中だ。


ここが現実の世界ならセクハラ案件になっていたかもしれないと思うと、我ながらリスキーな行動だ。

今後は注意しないといけないなと、既に日も暮れた夜道を歩きながら思った。


「……あの子達のこと、悪く思わないでやってくれ。たぶん、悪いのは僕だ」


夜風で頭が冷えたためか、僕は殊勝にもそんなことを言っていた。

ハーレムルートに入ったことで、彼女達の立場は一気に不安定になった。

思春期の女の子からすれば、目の前の好きな男性に好かれるか否かは死活問題だろう。それを僕は、ずっと生殺し状態で放置していたのだ。


告白を断れば死んでしまうとはいえ、僕は敢えて彼女達を不安にさせ、それを解消することを怠った。


……だからハーレム漫画は嫌いなんだ。

現実というものを無視し過ぎてる。

あんな平和な三角関係など、この世には存在しない。


「大丈夫ですよ。伊達に歳食ってませんから」


そう言って笑う彼女の横顔は、下手なキャリアウーマンなどよりよほど恰好良く映った。


「そういえば、君って何歳?」

「さあ」

「さあって……、僕でも覚えてるぞ」


時々忘れてしまって、年齢を記述する時に十秒くらい止まってしまうことがあるのは内緒だ。


「私、そういうの分からないからなー」


変哲無さんは星を眺めながら言った。

どういう意味なのだろうか。

思えば、彼女にはいくつもの謎がある。

一人だけリセットを免れることも、僕を僕だと認識できることも、彼女がモブキャラだという仮説にたてば説明はつくが、当然そうではない可能性だってある。


彼女は一体何者なのだろう。

それも、小早川裕也を殺した犯人が分からないのと同様に、検証不可能なことだった。

しかし、それでいいのかもしれない。

彼女は彼女だ。変哲無さんが変哲の無い乙女であることは、きっとどんな状況になろうと変わらない。なんとなくだが、そんな風に思える。


「……無事に帰れたら、君にも何かお礼しないとな」

「本当!?」


彼女は僕に縋りついて来た。

僕はびっくりした。

こんなにうれしそうな顔を見せるのは、初めてのことだったから。


「私、恋がしたい!」

「え?」

「どんな不細工な奴でもいいの! シチュエーションもどうでもいいし、ハッピーエンドだって望まない。すれ違った男の子にちょっとだけ淡い心を持っちゃうとか、そんな些細なものでもいいの。だから──」

「ちょ、ちょっと待て。そんなこと僕に言われても──」


急に我に返ったように、彼女の表情は興奮に満ちた笑顔から、何かが抜け落ちた笑顔へと変わり、下を向いた。

あ、と僕は思った。

その時、自分の中で全てがつながった気がした。

よく分からない。よく分からないが、これではだめだと、心の中の何かが叫んだ。


「すみません。忘れてください。……あ、ここまででいいですから。送ってくださってありがとうございました」


そう言って彼女が去ろうとする。

僕は彼女の腕を取った。

彼女が僕に振り返る。

驚きの表情。戸惑いの表情。

僕は構わず彼女を引き寄せ──


その唇に、キスをした。


◇◇◇


ジリリリリリリ!!!


僕はうるさい目覚まし時計を止めると、眠気眼で洗面所に向かった。


まずいな。

僕は顔を洗いながら、昨日の夜の出来事を思い出した。

あまりにも唐突で、強引なキス。


……どう考えてもセクハラ案件だ。

現実の世界に戻ったら即刻逮捕されてしまうかもしれない。


何故あんな突発的な行動に出てしまったのか、自分でもよく分からない。

こればっかりは、この世界のせいにもしていられない。なにせ、自分自身の行動なのだから。


当面の問題は、彼女に会った時にどう反応するかだ。

いつも通りでいいのか?

いやいや、あんなことをしておいて、なかったかのようにふるまうなんて、それこそクズだ。

……いや、でもなぁ。

なんか気まずいし……。


これが童貞力とでもいうものだろうか。

僕は学校の時間になるまで、そんなどうでもいいことばかりを考えて過ごしていた。



学校に来ると、変哲無さんは普通に自分の席に座っていた。

当然、声はかけない。

教室では声をかけない約束だ。別に逃げているわけではない。

恥ずかしさから顔を合わせられないとか、そんなことはない。断じてない。


一応、またいじめられるようなことになればすぐにでも言うようにとLINEで送ってある。返事はなかったが、既読はついていたので彼女もちゃんと言う通りにしてくれるだろう。


僕はそわそわした気持ちを抑えられず、とうとう教室から出て行ってしまった。

もういい。今日は授業を休もう。どこか適当な場所で時間を潰して頭を冷やして、それから──


と、そこで僕は、ようやくタイムリミットがあと数分であることに気付いた。

なんてことだ。

処理すべき問題が多過ぎて、完全に後回しになっていた。

今回は誰かをオトすこともなく『いらない選択肢』を迎えることとなってしまった。今の段階で、誰を選択するのか考えておかなければならない。


僕は人のいない廊下で、一人腕時計を睨みながらカウントダウンしていた。

前回は誰もいないはずの場所にヒロイン候補達が現れた。今回もきっと同じことになるだろう。


10、9、8、7、6……


5秒前になった時、僕が瞬きをすると、そこにヒロイン候補達が現れた。

普遍的隣家。大人シ読子。茶倮茶倮不良絵。そして……


「え?」


そこにいたのは変哲無さんだった。

彼女が驚いた様子で僕を見つめる。

ドクンと、心臓が大きく脈打った。


……ふざけるな。

こんなこと……あっていいはずがないだろ!!


僕の声なき叫び声が誰にも聞こえないまま、頭の中に選択肢が表れた。


【この物語でいらないキャラクターは誰ですか?】


 ダイ

☞普遍的隣家

 大人シ読子

 茶倮茶倮不良絵

 変哲無乙女



第四話 了


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