第三話 101回目のプロポーズはもう誰も覚えていない


明かりもついていないリビングの一室から、僕は短い廊下の奥にある玄関を睨みつけていた。

一定の感覚で、ドアを蹴破ろうとする音が響き渡る。

その合間合間に、隣家の甲高い笑い声が耳を貫く。


やるしかない。

危険は承知だ。それでも今僕にできるのは、デッドエンドを迎える前にハッピーエンドを迎えることだ。


腹を括れ。

僕は自分にそう言い聞かせながら、実仁とのLINEグループを起動した。


ダイ『助けてくれ』


見てくれ……!

懇願しながら、僕はコメントを入力していく。


ダイ『隣家が暴走してる。刃物を持って僕の家の前にいるんだ』


来い。来い……!!

スマホを握り、目を瞑る。

いつまでそうしていただろうか。

しばらくすると、ピロンとコメントが届く音がした。


実仁『すぐに行く』


それは天からのお告げのように、僕の心を温かく包み込む言葉だった。


実仁『戸締りはちゃんとして。身の安全を確保した状態で話しかけてみて。できるだけ穏やかに』


よし。

これで舞台は整った。

僕は常備していた口臭スプレーを口内に吹きかけ、変哲無さんに報告する。


ダイ『実仁が食いついた。彼女が到着次第、攻略に移る』

変哲無『そんなにうまくいきますか?』

ダイ『実仁は警察官である父を犯罪者に殺されたことで、自分のアイデンティティーである正義の執行に疑問を持っている。今の隣家は彼女が克服すべき犯罪者そのものだ。荒療治だが、うまくやれば彼女のトラウマを克服できる』

変哲無『そんなことをしている間に殺されます。相手はヤンデレですよ? たぶん、今までの普遍的隣家というキャラクター性を無視した能力を発揮するはずです』


さすがはモブキャラ代表の変哲無さんだ。よく分かってる。

モブキャラは物語を展開させるために、設定にない特異な能力を付与させられることがある。

今の隣家も同じ状況だ。

主人公をデッドエンドにするための悪意の塊。

隣家もまた、物語に踊らされ暴走した設定なきキャラというわけだ。


カオスそのものともいえる存在を無理やり物語という枠にはめ込むというのは、並大抵のことではないだろう。

しかも、ヒロインをオトせばそれでゲームクリアになると決まったわけじゃないのだ。全て無意味で、僕だけじゃなく実仁まで巻き込んで全員が死亡する最悪の未来にだってなり得る。

しかしそれでも、やると決めたのだ。

座して死を待つくらいなら、立ち向かってやると決めたのだ。

ならもう、心を決めるしかない。


ガシャアン!!


そんな音と共に、ドアが蹴破られた。

およそ女性の力ではない。

隣家は、血走った目と薄気味悪い笑みを絶やさず、玄関から僕を見つめている。


「……隣家。話に応じるつもりはあるか?」


隣家は喋らない。手にした包丁を、ゆらゆらと揺らしている。

彼女はゆっくりと歩を進めた。


「……そうか。残念だ」


その時、隣家がつるんと盛大に足を滑らせて、仰向けに倒れ込んだ。

あらかじめ撒いておいたガソリンだ。

僕は台所にあった百円ライターで、ティッシュと薬品を使って作成した簡易導火線に火をつけた。

火はすぐに玄関へと走って行き、撒かれたガソリンに触れた。


ボッ!


そんな音と共に、暗い室内が急激に明るくなる。

僕は思わず目を伏せた。

さすがに、人が丸焼きになる姿は見たくはない。

しかし、すぐに違和感に気付いた。

声がしない。

暴れているような様子がない。


僕はおそるおそる燃え盛る炎を確認し、愕然とした。

彼女がいない。

そんな馬鹿な。

いくらなんでも、あれだけ盛大に転んだ後に、即座に移動することなんて──


その時、僕の頭を過ぎったのは最悪のシナリオだった。

即座にその場から飛び退きつつ、背後を振り返る。


ヒュンッ!!


空気を切り裂く音と共に、血の滴が視界に映る。

当たり前のようにその場にいる隣家に血が飛び散り、遅れて喉に激痛が走った。

棚に体当たりするような勢いでぶつかり、尻餅をつく。

体中が痛い。しかしそんなものより恐怖心の方が勝った。

首を切られた。血が大量に出ている。

それだけで、即座に死が連想される。

しかしその考えを僕は無理やり払いのけた。

頸動脈が切られていれば即座にショック死しているし、もっと出血しているはずだ。

頸動脈は切られていない。なら致命傷ではない。


自分でそう言い聞かせ、首元を押さえながら隣家を見上げる。

にやにや笑っている彼女は、ガソリンで濡れてはいるものの、火傷一つしていない。

あの姿勢で、導火線が走るよりも早く僕の背後に回ったというのか?

そんな馬鹿な話があるか。足が速いなんてレベルじゃないぞ。


「……いつからこの話はアクションになったんだ?」


僕のぼやきなどお構いなしに、彼女は突進してきた。

僕は瞬時に懐から缶スプレーを取り出し、その前にライターを翳した。

お手製の火炎放射器だ。

隣家の目の前でスプレーを射出。そのままライターの火をつけると、噴出する薬品に火がつき、炎のシャワーとなって隣家を襲った。

隣家はそれを見ると、慣性の法則など存在しないかのように瞬時に後ろへと跳躍。そのまま天上の角に張り付いた。


「ヤンデレになったら物理法則を無視していいなんてお約束は存在しないぞ!!」


僕は叫びながらスプレーで威嚇しつつ、窓を開けて庭へと飛び出た。

必死になって塀を登り、すぐにそこに垂れてあったロープを思い切り引っ張る。

ベランダの縁には石があり、その上空にはロープで括られた消火器があった。引き解け結びなどを使ったその装置は、僕が引っ張ることで見事に機能し、消火器が重力に沿って石へと落下する。

タイミングを計ったように隣家がその場へ現れた。


バン! と強烈な音と共に消火器が爆発する。

しかし驚異的な身体能力を持つ隣家は、それすらも後ろへ跳躍することで回避した。

が、スプレーの噴出などで至るところに火が燃え移った家屋だ。

意図しない跳躍で、それらの火がすぐさま服についたガソリンに引火した。


「キイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」


人間のものとは思えない咆哮。

僕は慌てて塀を超え、パニックのあまり手を滑らせ、数十センチ下の地面へと落下して強く尻を打った。


僕は悶絶した。

なんて痛みだ。尋常じゃない。

元々、僕は運動神経が良くないのだ。あんな化け物相手にこれだけの戦果を挙げられただけでも奇跡といえる。


僕はびっこを引きながら道へと出た。

あれで隣家が死んだとは思えない。できるだけ離れなければ。

その時、角になって見えない方向から、何者かが走って来る音が聞こえてきた。

僕は思わず身構える。

まずい。もう種切れだ。

ここで隣家に襲われたら……


足音が近づいて来る。

僕は息を飲んだ。


「だいじょうぶ!?」


現れたのは実仁だった。

思わず脱力してしまう。


「……ああ。首の傷も見た目が酷いだけで大したことじゃない」

「でもあなた、びっこ引いてるじゃない!」

「いや、本当に大丈夫だから」

「骨折? それとも捻挫? ちゃんと教えて!」

「…………尻を打った」


妙な空気が流れた。

くそ。だから言いたくなかったんだ。


「……と、とにかく、大怪我じゃないみたいでよかった」


実仁は慌てて言った。

フォローがむなしく心に響く。


「それで、隣家さんは?」

「死んではいないはず。たぶん、しばらくしたらまた追いかけて来る」

「……何をしたの?」


僕は徐々に火の光が漏れつつある場所を指差した。


「僕の家は全焼だろうな」

「……え!? あの中に隣家さんが!? た、大変、助けなきゃ!!」


走って行こうとする実仁の腕を僕は掴んだ。


「言っただろ。しばらくしたらまた追いかけて来るって。犯罪者の恐ろしさは君が一番よく知ってるはずだ」


実仁はごくりと息を飲んだ。

理解してくれたことを確認すると、僕は手を離す。

彼女はもう走り出そうとはしなかった。


「……どうすればいいの?」

「僕を守ってくれ」


実仁は思わず僕を見て、しかしすぐに目を伏せた。


「で、できないよ」

「何故?」

「だって、わたしはチビだし、頼りないし、自分のことすらちゃんとできない人間で……」

「関係ない」

「関係なくないよ! わたしは誰かを守れる人間なんかじゃない!!」


耳を劈くような、悲鳴にも似た叫び声だった。

俯く彼女を、僕はじっと見つめた。


「僕は君に助けて欲しいと思った。隣家に襲われてる時、咄嗟に頭に出てきたのは君だった。君が自分をどう評価しようと関係ない。君なら僕を助けられると僕は思った。それが事実だ」


咄嗟に頭に出てきたというのは事実だし、僕を間接的に助けられるのも彼女だけだ。

嘘は言ってない。


「最初に会った時のことを覚えているか? 僕は僕だと、あの時そう言ったはずだ。誰が何を思おうと僕は僕だし、君は君だ。君は自分が思った通りのことをすればいい」

「……だから、さっきから言ってるでしょ。わたしは何もできないって」

「じゃあどうしてここに来た」

「っ!!」


彼女は図星を突かれたように、驚いた様子を見せた。


「自分には何もできない。何もしたくない。本当にそう思ってるのなら、僕なんて助けに来なかったはずだ。君がここにいるのが僕の言ってることが正しいという根拠。何か反論は?」


突然スマホのバイブレーションが鳴った。

狼狽している彼女を尻目に、こっそりスマホを覗く。


変哲無『もっと優しくボールを投げて』


慌てて周りを見ると、遠くの茂みからこっそりとこちらを覗いている変哲無さんの姿があった。


……ああ、くそ。

やはり僕は、この物語には向いてない。

誤解なく相手に意志を伝えることがどれだけ難しいことなのか。今頃になってまざまざと実感しているくらいなのだから。


「言い方が悪かった。つまり、だな。ええと……君は自分が思ってるよりも強いし、人徳があるし、頼りになる、と思う」

「……うそだよ。だってわたしは……そんな人間じゃない」


そのあまりにも断定した口調に、僕は引っかかりを覚えた。

いつも偉そうだと文句を言われてきた経験が、僕にそれを気付かせた。

この言い方は僕と同じだ。

彼女には、何か根拠がある。


「そう思う理由を聞かせてくれないか?」

「え?」

「勘違いならいい。でも、……もしかしたら、何かあるんじゃないか? 父親の死よりも重い何かが」


彼女は顔面蒼白だった。

目を逸らし、ぐっと唇を噛んでいる。

このまま何も言ってくれないことを覚悟し始めた時、彼女は重い口を開いた。


「パパを殺した人とね。会ったの」


僕はぞわりとした。

それはいわば、生理的恐怖感ともいえるような感覚だった。


「って言っても、会話したとか、そういうんじゃないんだけどね。パパが殺された現場に、わたしもいたの。どうしてもパパが働いてる姿が見たくて、跡をつけて。それで見れたのは、正義が執行される瞬間じゃなくて、正義が悪に負ける瞬間。わたしは遠くにいて、犯人が取り押さえられるまで、茫然と見ていることしかできなかった」


彼女は淡々と話していた。

あまりにも感情を感じさせない声だった。


「犯人が逮捕されて、パトカーに乗せられる時にね。その人と……目があったの。冷たくて、生気がなくて、……本当に、人間じゃないみたいで。わたし……すごく怖かった。裁判になって、マスコミの人達から意見を求められて、わたし立ち向かわなきゃって思った。『父親を殺した犯罪者をどう思いますか?』って言われて、正義の名の元に断罪して欲しいって、そう言うべきだった。なのに……わたしは、何も言えなかった。怖かったの。変なこと言って、報復されたらどうしようって。パパと同じ目に遭わされたどうしようって。あの目を思い出すだけで、怖くて震えて。……何も、言えなかったの」


父親を殺した犯罪者に立ち向かう。

それは一女子高生にとって、あまりにも酷な話だった。


「あの時、わたしはパパみたいになれないって思った。……ううん、違う。なっちゃいけないの。わたしはあの時、逃げたから。あの時、わたしは刑事になる夢も、全部捨てちゃったから。だから──」


その時だ。

突然、爆発音が響き渡った。

おそらくは僕の自宅から、火柱が上がっている。

とんでもないことになってきたな。この調子だと火が他の家に移るのも時間の問題じゃないか?

そんなことを考えていた僕は、すぐに他人の心配など頭から消し飛ぶことになった。


火の光に照らされるT字路から、ゆっくりと隣家が現れたのだ。

火に焼かれたためか、彼女の姿はほとんど裸同然だ。しかしその手には、しっかりと包丁が握られている。

いや、それよりも……


「なぁ。見間違いか、変な光が差し込んでないか?」


隣家の胸と下半身。そこに謎の光が差し込み、きわどい部分が見えなくなっていた。


「何言ってるの! 早く逃げるよ!!」

「いやだって、こんな真夜中に……」


僕の言葉を無視して、実仁は僕の腕を引っ張った。

しかし、ヤンデレ化した彼女の身体能力を前にすれば、逃げたところで無意味だ。


「ちょっと!! 早くしないと追いつかれる……!!」


僕はその場に立ち尽くし、実仁に向かって言った。


「立ち向かおう」


彼女は僕の言葉を聞いて唖然とした。


「な、何を言って──」

「彼女は君が見た犯罪者だ。およそ人間とは思えない化け物。悪意の塊だ。その彼女に立ち向かおう」


実仁は隣家の方を向いた。

にやにやと笑いながらこちらに近づいて来る彼女を見て、実仁は思わず目を瞑った。


「無理だよ! わたしにはできない!!」

「できる!!」


僕は叫んだ。


「君だからこそできるんだ!!」


実仁が目を見開いた。

彼女が僕を見つめる。

そこにある感情は驚きだけじゃない。確かに僕は、そこに一抹の期待と奮起の感情を見た。


このまま押せばいける。

そのように直感するも、しかしそうはさせないのがヤンデレという存在だ。

彼女は一気にこちらへと肉薄すると、まるで僕達を分かとうとするかのように包丁を振り下ろした。

僕も実仁も、その一撃は避けることに成功するも、バランスを崩してたたらを踏んだ。

ここで追撃されたらどちらかが殺される。

しかしそう思っていても、身体は言うことを聞かない。


万事休すかと思った時、隣家の後頭部に石が直撃した。

変哲無さんが後ろから殴ったのだ。

普通なら倒れ込んで悶絶する威力だ。

しかし隣家はその場で踏ん張り、じろりと変哲無さんを睨んだ。


「あはは。し、失礼しました……」


思わず石を取りこぼし、じりじりと後じさる彼女に、隣家はゆっくりと近づいていく。

このままではまずい。


「隣家!!」


ぴたりと、隣家の動きが止まった。


「狙ってるのは僕だろ。さっさと来い!!」


彼女はこちらを向き、にんまりと笑うと、僕に向かって突進した。

落ち着け。落ち着け。

彼女は両手で包丁を持ち、脇に添えるようにして突進している。

あの体制で突き刺そうと思えば、軌道はなかなか変えられないはずだ。

怖がらずにちゃんと包丁の位置を確認していれば、身体能力のない僕でも避けられる。


包丁をよく見て、軌道を読んで……

心の中でそんなことを呟きながら包丁を凝視していた僕の目に、突然光が差し込んだ。

頭が混乱する。

こんな真夜中に、明かりも持っていない彼女が目くらまし?

その時、僕は彼女が持つ光源を思い出した。

ああ、あの謎の光か……。


それに思い至った時、腹部にとんでもない激痛が走った。

もぞもぞと身体の中で刃物が蠢く感覚があまりにも悍(おぞ)ましい。

それは、ずぶりと音をたてて僕の体内から出て行った。


「そんな使い方、アリかよ……」


もう一度刺そうとする隣家に、変哲無さんが飛びかかった。

死にもの狂いでしがみつく彼女に、隣家も引きはがすのに手こずっている。


僕は一歩二歩と後退し、近くの塀に身体を預けて座り込んだ。

気持ち悪い。吐きそうだ。

めまいがして視界がぐるぐる回っている。

滝のように汗が出て、身体が寒くて仕方がない。


「しっかりして!! ねぇ。ねぇ!!」


だ、駄目だ。喋れない。

痛すぎて、頭が……回らない。

世の主人公たちは、皆こんな痛みに耐えて正義を貫いているのか。

それだけで尊敬に値する。


「わたしのせいだ……」


ふいに、目の前にいる実仁が呟いた。


「わたしが──」

「また誰かのせいか!」


叫んだ瞬間、身体が張り裂けそうな痛みが全身を襲う。

僕は歯を食いしばってそれに耐えた。


「わ、わたし自分が悪いって……」

「自分だろうと、他人だろうと一緒だ……! 誰かのせいにして、それに押しつぶされて終わりか!? 自分で自分を決めつけるな。勝手にレールを作って、そこを辿るな!!」


痛みがなくなってきた。

呂律も回らない。もう何を言っているのか、半分も理解できていない。

しかしそれでも、僕は必死に口を動かした。


「刑事になりたいって言ったな!? だったらなれ! 自分の弱さも全部抱えて、夢が叶わなかった苦悩も全部抱えて、それでも人を救える人間になれ! それが刑事だろ! 狂犬実仁だろ!?」

「……でも、わたしは小さいし」



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☛君ならなれる

 無理かもね

 じゃあ、また明日



「臆病だし」



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☛君ならなれる

 無理かもね

 じゃあ、また明日



「自分のことも満足にできない」



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☛君ならなれる

 無理かもね

 じゃあ、また明日




「わたしは──」

「僕も支える」


弱弱しい声で、しかしはっきりと、僕は言った。


「刺されても、このまま死んでも、何があっても、僕が君を支える。だから……」


その時だ。

変哲無さんを引きはがした隣家が、僕にとどめを刺そうと突進してきた。

僕にはもう、避けようとする気力すらなかった。

殺される。

そう思った瞬間、実仁が僕の前に出た。


隣家の包丁を持つ手が伸びる。

実仁はそれを手で払いのけ、そのまま懐に入った。足を引っかけ、ぐるりと回転する。

たったそれだけで、強大な力を持った隣家が、赤子のように地面へ転倒した。


肩で息をしながら、実仁が僕の方を見た。

上気した顔。何かを振り切った、力強い目。


僕は彼女の胸倉を掴んだ。

驚く彼女。

しかし、もうなりふり構っていられなかった。

ゲージを確認する余裕すらない。

しかし、本能とも呼べる部分が叫んでいる。

ここで僕が取るべき行動はただ一つだと。

僕は彼女を引き寄せ──


「っ!!」


生まれて初めてのキスをした。





















ジリリリリリ!!


僕は目を覚ました。

身体を起こし、辺りを見回す。

何の変哲も無い部屋だ。しかし何かが違うような気がする。

僕は違和感を覚えながらベッドから起きた。

寝ぐせのついた頭をぼりぼりと掻き、クローゼットを開ける。

中には学生服があった。


「……僕って学生だったっけ?」


僕は思わず疑問を口にした。


◇◇◇


学校へ向かう僕の横には、見知らぬ女子が馴れ馴れしくも共に登校していた。

何故よく知りもしない女子と一緒に登校しているのか。論理的説明がまったくできない。


「妙だな……」

「ちょっと。そのセリフ、さっきので何度目? 他に喋ることないの?」


僕はちらと普遍的隣家という名の女子を一瞥し、舌打ちした。

なんなんだこいつは。

急に僕の部屋へ乱入しお節介な母親のように説教垂れたかと思えば、朝食を食べて登校しようとした僕を待ち伏せして共に行動することを強制してくる。

こんな鬱陶しい奴を友人にするほど、僕は人恋しかったのか?

まったく覚えがないが、記憶を失う前の自分を殴りつけたい気分だ。


そんなことをぼんやりと考えていたからだろうか。

角を曲がる際に、前から来ていた誰かとぶつかってしまった。


「ってぇな! どこに目をつけてんだ!!」


尻餅をついているのは、なんともヤバそうな女子だった。

金髪で、制服を派手に着崩している。

見るからにヤンキー女子といった感じだ。

しかしその強気な顔がすぐに真っ赤になり、はだけたスカートをすぐに直した。


「……見たな?」


じろりと、僕を睨んでくる。

僕はため息をついた。


僕が唯一視聴しているテレビ番組『橋本×羽鳥の新番組』によると、どうやら昨今は女性に触れただけでセクハラになるらしい。

そういう意味では、今の僕はかなりやばい状況にあるといえる。


しかし僕は隣家という女子と共に歩いており、彼女とは視界が遮られた角でぶつかった。

そして相手の女子が走っていたという証言も、この衆人環視の中なら主張できるだろう。僕は立った状態で、相手に指一本触れていないことを鑑みても、このセクハラ案件は不可抗力として処理できる要素が揃っているのではないだろうか。


つまり、きちんと証人の連絡先を確保しておけば、彼女を無視して立ち去ることもできるということだ。


「おいてめえ! なにぼさっとしてやがる! アタシに謝るか、文句を言うか、黙って立ち去るか、どれか選べよ!!」


なんだ、その三流小説家が書いたような説明口調のセリフは。

そんなことを思った時、ふいに頭の中で選択肢が浮かび上がった。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☞文句を言う

 素直に謝る

 無言で立ち去る



……なんだこれは?

身体を動かそうとして、それができないことに気付いた。

限られた視界でよくよく観察すると、どうやら時間が止まっているらしい。

よく分からないが、この選択をしないと話が進まないようだ。

しかしこんなもの、選択肢の内にも入らない。

どれを選ぶかなんて決まってる。

こんなの決まって……



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

 文句を言う

☛素直に謝る

 無言で立ち去る



「悪い」

「なんだよそれ! 全然誠意が籠もってねえな!!」


彼女は僕の胸倉を掴んだ。


「アタシのパンツ見て、タダで済むと思うなよ?」


彼女は乱暴に僕を突き飛ばすと、そのまま舌打ち交じりに去って行った。


くそ……!

ふざけるなよ。なんで僕が謝らなくちゃならないんだ。

こういう不合理なことで謝罪させられるのが一番ストレスになるというのに。

というか、なんでさっきの選択肢で『無言で立ち去る』を選ばなかったんだ。自分の本能のような部分がその選択を拒否してしまった。

今度はそっちを選ぼう。どれだけ本能が拒否しようと、絶対そうしよう。


「あの子、茶倮茶倮不良絵って言って、学校じゃ有名な不良よ。大人のちょっと怖そうな人と恋人だったりしてるらしくて、みんな怖がってるの。目をつけられて災難だったわね」


説明乙という言葉は、こういう場面で使うのだろう。

なかなか皮肉が効いている。


◇◇◇


隣家に案内されるがまま、僕は学校の自分の教室へ入った。

見知った顔は……いない。

寝ぼけているだけにしては、あまりにも記憶がない。

もしかして、記憶喪失か何かなのか? だとしたら病院に行って検査を受けないといけないな。なんて面倒臭いんだ。


しかしどこを見ても女、女、女だ。

こうも女子が多いと、さすがに食傷気味になる。

クラスで談笑している女子は、大抵がグループに分かれているようだった。

ヤンキー女子集団。優等生女子集団。スポーツ系女子集団。

その中で、一つ奇妙なグループがあった。

ふくよかな女子三人衆に、痩せているが美人な女子が一人。

一体何の集まりだ? まるで接点が分からない。

しかしあの痩せた美人は、どこかで見たことがある気もする。……駄目だ、思い出せない。

人の顔を覚えるのが苦手な僕にとって、こういったことは日常茶飯事だ。

後ろを向かれていたら恋人だって判別できない自信がある。恋人なんていたことないけど。


しかし見知った顔がいるということは、あながち記憶喪失というわけではないのかもしれない。


「ねぇってば!」


そこでようやく、隣家に呼ばれていることに気付いた。


「なんであたしのこと無視するのよ。ホンット、あんたって鈍感」

「はあ?」


そろそろ我慢の限界だった。

さっきから、お互いに好意を持っていることが前提の言葉が多用されているが、僕は一切彼女に好意なんて抱いていない。

この女は、なんで自分が好かれていると思っているのだろうか。


「いい加減にしろ」


もううんざりだ。

どうして僕がこんな恋愛ごっこに付き合わなくちゃならない。

僕は彼女の目を見て、言った。


「いいか。僕は君のことが嫌──」


その時だ。

突然何者かに胸倉を掴まれ、ぐいと引っ張られた。

目の前にいるのは、先ほど少しだけ目に留まった女子だった。何の変哲も無いただのクラスメート。

彼女はなぜか、怒りの目を僕に向けていた。


「すいませーん。ちょっといいですか?」


彼女は笑顔でそう言った。

しかしその雰囲気が、未だ怒っていることを示している。

僕は何も言えず、おそるおそる、こくりと頷いた。


◇◇◇


引っ張られるようにして屋上に着くと、彼女はいきなり僕にビンタしてきた。


「何するんだ!」

「まだ思い出せませんか!? これでも!? これでもですか!!」


ばしばしと叩いてくる彼女を手でガードしながら、僕は混乱する頭で必死に考えた。

一体なんだ?

自慢じゃないが、僕の人生で女子と接点があったことなんて皆無だ。

当然、こんな修羅場のような展開も初めての経験。しかも僕は、その原因にまったく心当たりがないのだ。

朝起きたら見知らぬ女性がいて、『覚えていない』という辛辣な言葉を浴びせる人間にはならないでおこうと誓っていたのに。

僕は彼女の手を掴んだ。


「落ち着け! 一体何の話をしてるんだ!!」

「嘘つき!!」


……おいおい。本当に何もしてないんだろうな、僕よ。


「自分で言った癖に!! 私達を見捨てないって、自分でそう言った癖に!!」


私、達……?

ドクンと、心臓が高鳴る。

何か……、何か、とても重要なことを忘れている気がする。


僕は思わず腹部を手で押さえた。

そうだ。僕は確か、すごく痛い思いをした。それもつい最近。


「君、何かが足りない気がする」


彼女は即座にポテチの袋を取り出した。

緑色のチップスは見る人によっては嘔吐感を催しそうだ。

確か、彼女はあれをバリバリと──


「変哲無さん、……か?」


泣きそうになるのをぐっと堪え、彼女は下を向いた。


「そうですよ!! 思い出すの遅過ぎです!!」


その瞬間、走馬燈のように様々な記憶が僕の頭を飛び交った。

ヤンデレ化した隣家。

自信を喪失した実仁。

駆けつけてくれた変哲無さん。

隣家に刺された僕。

そして、最後に実仁とキスをしたこと。



僕は思わず、壁に凭れ掛かるようにして座った。


「全部思い出しましたか?」

「ああ」


言葉短に、僕はそう言った。

未だに信じられない。

あれだけ濃厚な数日間を過ごしていながら、完全に忘れてしまっていた。


「……あれからどうなった?」

「どうもこうも、あなたが覚えてるままですよ。実仁ちゃんとあなたがその……キ、キスをしたら、今日が始まりました」


……なるほど。


「ループしたわけか」

「ループ?」

「僕は実仁を落とし、グッドエンディングを見た。だからゲームを“リセット”したんだ。恋愛ゲームで一人のヒロインをオトした後に、別のキャラクターを選ぶのと同じだ」

「……それはつまり」


僕は頷いた。


「今までの攻略が全てなくなったということだ」


変哲無さんは唖然としている。

僕は黙って床の一点を見つめていた。


「あ、で、でもまあ、よかったじゃありませんか! これで隣家さんのヤンデレ化もなくなったんですよね!?」

「そうだな」


我ながら、その声には覇気がなかった。

実仁との攻略がなくなったということは、彼女が身を危険にしながら隣家に立ち向かった、あの勇気もなかったことになったということだ。

僕がアシストしたとはいえ、せっかく自分の力で過去を克服したというのに。

この世界が作られたものだと分かっていながら、やはりどこか割り切れないものがあった。


ふと、変哲無さんがこちらにちらちらと視線を配っていることに気付いた。

……本当はもう少し感慨に耽っていたかったのだが、彼女にこれ以上心配をかけるのはよくないだろう。


「そういえば、どうして僕を止めてくれたんだ?」

「え!?」


何故か彼女はびっくりしていた。


「いやだって、僕に話しかけなければ何の変哲も無い日常を送れたんじゃないか? 少なくとも、話しかけた方が自分に掛かるリスクは高くなる。元々、僕に協力するのも嫌々だったわけだし」


彼女は狼狽し、目を泳がせていた。


「え、えーっとですね……。それはその、なんていうか……」

「さっき、私達を見捨てないって言った癖にとか叫んでいたけど、そういう風に見てたんだな。意外と──」


急に、彼女は僕の頬を抓った。


「いたたたっ! 何するんだ! 最近、ちょっと暴力が過ぎるぞ!!」


頬から手を離した彼女は、所在無げに床に視線を這わせた。


「あ、あなたの……」

「ん?」

「あなたの記憶が戻った時、恨みを買うのが嫌だっただけです。……それに……このまま、お話できなくなるのも、……ちょっとどうかなと思ったし……」


僕は思わず笑った。


「なんだよ、ちょっとどうかなって」

「あ……」

「なに?」

「いや、初めて笑ったところ見たから」


僕は苦笑した。


「それは主人公のセリフだ」



隣に変哲無さんが座り、僕達は何をするでもなくその場でじっとしていた。

僕は腕時計のタイマーを見た。


「あと五分だ」


変哲無さんは何も言わなかった。

朝の短い登校時間で、『いらない選択肢』の結果だけはリセットされていないことが分かっていた。

僕はここで、また一人のヒロイン候補を切り捨てなければならない。


ふと自分の手を見ると、震えているのが分かった。

……なるほど。仕方がないと割り切っていても、やはり堪えるものは堪えるらしい。


「このまま」


僕は重い口を開いて言った。


「このまま、一緒にいて欲しいって言ったら、迷惑?」


彼女はしばらくじっとこちらを見て、優しく微笑んだ。


「いいですよ、それくらい。私には何のリスクもありませんしね」


僕は再び苦笑した。


「それでこそ変哲無さんだ」


タイマーが秒読みに入る。

あと二十秒。

十秒。


僕が瞬(まばた)きした瞬間、その場にヒロイン候補達が現れた。

なるほど。

あくまでも、僕はこの惨劇を目撃しなければならないらしい。

本当に、今回の犯人はタチが悪い。


ピ、とタイマーがゼロになる音が鳴った。


再びあの時間が来てしまった。

あの、悪夢のような選択の時間が。



【この物語でいらないキャラクターは誰ですか?】


 ダイ

☞普遍的隣家

 大人シ読子

 茶倮茶倮不良絵

 狂犬実仁





第三話完



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