第二話 告白はヤンデレルートの中で
僕は自分の部屋のベッドに寝転んだ。
疲れた。
本当に、ただただ疲れた。
今日一日で一年分の気力を使い果たした気がする。
考えるべきことは山ほどあった。
隣家のことや、他のヒロイン候補のこと。そして小早川裕也のこと。
しかし経験上、疲れた頭で考察できることなんてたかがしれている。僕はひとまず考えるべきことを片隅に置き、目を瞑った。
一分もしない内に、僕は泥のように眠った。
バイブレーションが振動する音で僕は目を覚ました。
僕は手探りでスマホを探り当て、電源を入れる。
眠気眼で画面を確認すると、変哲無さんからのLINEの未読コメントが溜まっていた。
変哲無『遅刻ですよ』
変哲無『先生方にはうまく言っておきますから、少し英気を養ってください』
変哲無『その代わり、あとで驕ってくださいね』
そんなねぎらいの言葉が、新しいものになるにつれ険のあるものに変わっていく。
変哲無『今何してるんです?』
変哲無『もう三限目始まってますけど』
変哲無『重役出勤ですか? 気楽なものですね』
変哲無『隣家さんが暴走する危険があることをお忘れなく』
変哲無『四限目なんですけど』
変哲無『バックれるつもりですか? この人でなし』
変哲無『死ね』
僕はため息をついた。
まったく。情緒不安定な人だ。
僕は目覚まし時計を見た。
11時半だった。
ダイ『五限目までには行く』
短いコメントを残し、僕は再び枕に頭を預けた。
しかしすぐにバイブレーションが鳴り、僕の睡眠を阻害する。
僕は舌打ちした。
変哲無『はあ!?』
変哲無『今何してるんですか!?』
ダイ『寝てる。だから邪魔しないでくれ』
変哲無『寝てる!?』
変哲無『いつまで寝てるんですか! 今何時だと思ってるんです!?』
ダイ『11時半だろ。分かりきったこと聞くな』
変哲無『皮肉ですよ皮肉! それくらい分かりきってください! というか何時間寝てるんですか!!』
帰って来たのは夜の八時頃だった。それからすぐに熟睡したから……
ダイ『十五時間とちょっと』
変哲無『寝過ぎです!!』
コメントを超えて、彼女の怒声が聞こえてきそうな勢いだ。
ダイ『身体が睡眠を欲してるんだ。特に僕は睡眠でストレスを解消している節がある。多少寝過ぎるのは仕方がない』
変哲無『はああぁ!?』
ウサギが中指立てているスタンプや、クマが親指を下に向けているスタンプが次々と張られていく。
ダイ『だいたい、五限目まではセーフだろ。僕が高校生の時は五限目に間に合うかどうかで学校に行くか行かないか決めていたぞ』
変哲無『どんな高校生活送ってたんですか!? いいから来てください!!』
変哲無『今すぐに!!』
ご丁寧に、Hurry Up!! と書かれたスタンプまで押してきた。
もう一度眠りたかったのだが、このやり取りで目が覚めてしまった。
仕方なく、僕は登校の準備を始めた。
◇◇◇
「遅刻です!!」
屋上にて待ち構えていた変哲無さんが、開口一番そう言った。
「知ってるよ」
僕は頭を掻いた。
まだ頭の回転が鈍い。本調子まではしばらく時間が掛かりそうだ。
「恋愛ハーレムの主人公がそんなことでどうするんです!? 学校に来ないといベントを逃しちゃうじゃないですか!」
「いや、それはない。仮にあったとしても大した問題じゃないよ。好感度が下がるルートは選択肢で行われるはずだから」
僕はあくびをした。
変哲無さんはイライラした様子で僕を見つめている。
「皺くちゃなシャツ! よれよれのズボン! 直し切れてない寝ぐせ!!」
計三つを、彼女はびしりと指さしてみせる。
「うるさいな。親みたいなこと言わないでくれ」
「あ、あ、あなたねぇ~!! 今から何するか分かってんですか!? 女の子を、オトすんですよ!? 身なりに気をつけないでどうするんですか!!」
なるほど。
確かに、そういう観点で考えていなかった。
「やっぱり君は頼りになる」
「はああああぁ!? あなたいい加減にしないとマジで殴りますよ。マジで!!」
怒り心頭とはこのことだ。
「せっかく褒めたのに、訳の分からない人だな。大概の人が感情や常識の押し付けで怒りをぶつけてくるところだが、君はある程度理屈だって怒りを向けている。それは理性的な人間である証拠だと評価したんだ。な? 怒るようなことじゃないだろ?」
「~~っ! ああもう! いいです!!」
そう言って、変哲無さんは自分を落ち着かせるためか、大きく息を吐いた。
「せめて寝ぐせは直してください。アニメに出て来そうなアホ毛になってますから」
そっと彼女が僕の頭に手を添える。
人に頭部を触られるのは心底嫌いなのだが、彼女はその辺りを心得ているらしい。非常に気を配った繊細な触り方だった。
そっと僕の寝ぐせを直し、手を戻す。
彼女は満足そうに笑みを浮かべる。
ぴょんと、頭の毛が跳ねる感触がした。
「なんでそうなるんです!?」
「僕に言うな」
「髪まで人を苛立たせるんですか!? すごい才能ですねホント!!」
彼女はぷりぷり怒ったままそっぽを向いてしまった。
相変わらず、忙しい人だ。
「さっき図書室で確認してきたんだけど」
「こんな大遅刻してそんな余裕があったなんて、良いご身分ですね」
僕は無視した。
いちいち相手の挑発を拾っていたら話が進まない。
「やはり、僕が思っていた通りだ。日付が6月17日から変わっていない」
それを聞いて、ようやく変哲無さんは食いついて来た。
こちらを向き、眉をひそめてみせる。
「変わってない? どういうことです?」
「実は昨日、編集者なる人物から妙な電話が掛かってきてね」
「……仕事がなくてとうとう妄想を見始めましたか?」
「僕は大真面目に話してる。彼が言うところには、どうやら僕を助けてくれるつもりらしい」
「……何故編集者が?」
「恐らくだが、彼らは作家……つまり呪いを生み出す力を持つ人間を管理しているらしい」
「つまりあなたも呪いを持っていると?」
「ジョーさんは持っているという話だ。危機に瀕すると自分の代理人として僕を向かわせる。名付けて妄想代理人(ゴーストライター)」
変哲無さんは目を瞑り、呆れた様子で額に手をやった。
「あなたと話をしていると頭が痛くなるのは私だけですか?」
「安心しろ。僕だって話していて頭が痛くなる」
まあ僕の場合、寝過ぎたことからくる片頭痛の可能性大だが。
「とにかくその編集者が言うには、現実の世界で小早川裕也は死んでいる。2016年の6月17日にね」
「……え?」
「つまり、この世界は6月17日の世界なんだ。小早川裕也が生きていた場合の」
変哲無さんは、じっと顎に手をやって考えた。
「じゃあ部室で隣家さんが言ってた、入部したての子達と同人誌を作ったっていう話は……」
「十中八九、あのヒロイン候補達だ。彼女達が知り合ってから6月17日に至るまでに構築した人間関係を、僕達は6月17日の世界でなぞっているわけだ。だから同人誌の時のような矛盾が出る」
「ふむ……」
変哲無さんはどこからともなくポテチを取り出し、それを食べ始めた。
「ということは、同人誌を作成したり部活に入ったりすることは、現実の世界でも起きたことというわけですね」
「まあ、たぶんそうだろうね」
「ふーむ」
バリバリと、彼女は豪快にポテチを食べていく。
そのチップスは黄色がかった緑という、ちょっと見ない色をしていた。
「小早川裕也さんからすれば、やっぱり意味のある行為なんですよね。現実で起きたことをやり直すというよりは、あなたに確認して欲しいことがあるって感じですかね」
「どうだろうね。ところでさっきから何を食べてるの?」
「ポテチですが?」
僕の方を見ながら、音をたてて何枚ものポテチが消費されていく。
僕ほどではないとはいえ、比較的瘦せている彼女とその食いっぷりは、どうにも矛盾しているような気がする。
「いやそれは分かるけど、僕の見間違いじゃなければ、その袋に『害虫のエキス味』って書かれてるんだけど」
「そうですが?」
彼女は不思議そうな顔をしながらポテチを食べた。
「……おいしいの?」
「世界に二つとない味ですね」
おいしいということなのかは分からないが、本人は満足そうなのでよしとしよう。
「食べます?」
「……やめとくよ」
この短いやり取りの間に一袋食べ尽くした彼女は、何事もないように次の袋を取り出した。
もう何も言うまい。
「それで、今日はどうするんです?」
「無論、実仁をオトす」
昨日の選択肢で、実仁ルートに進んだはずだ。
隣家がオトせない以上、彼女をオトすしかない。
「私は別になんでもいいんですけど、どうして彼女なんですか?」
「深い理由はない」
「ちっちゃいからですか?」
「だから、深い理由はないって」
「どうだか。あなたが唯一出してる本って、確かちっちゃい女の子が主人公だったじゃないですか」
僕はため息をついた。
「僕に惚れてる理由に一番共感できたから選んだまでだ。だいたい、あの中に僕の好みの女性はいない」
「え、そうなんですか?」
変哲無さんは意外そうに僕を見つめた。
「僕はタイプにうるさい方じゃないから、誰でもいいんだけどね」
「ふーん。じゃ、強いて言うならどんな子が好きですか?」
「そうだな。理想を言うなら、僕より頭の良い大和なでしこ」
「理想高すぎ!!」
変哲無さんが叫んだ。
「別に高くない。ただ、一緒に歩く時も一歩引いて僕をたてるような気遣いのできる女性が──」
「いません! そんな子いません! フィクションの中だけです!!」
変哲無さんはあらん限りの声で捲し立て、盛大にため息をついた。
「まったく。タイプにうるさくないとか、どの口が言ってるんだか」
「君がタイプの子はと聞いたから答えたまでだ。別にそういう子じゃなくてもいいよ」
僕は少し考えた。
「そうだな。僕のことを理解してくれていれば誰でもいいかな」
「へぇ。さっきと違ってずいぶんと妥協しましたね。じゃあ隣家さんなんていいじゃないですか。あなたを理解して色々と気遣ってるし」
「あいつが? 僕には自分の価値観を押し付けているようにしか見えないね。あいつは自分で決めた自分のルールしか見ていない。僕がどう考えてるかなんてお構いなし。それでいて自分は優しい人間だと勘違いしているんだからタチが悪い」
「……ちょっと悪意あり過ぎません?」
「だいたい、あいつには知性が足りなさ過ぎる」
変哲無さんは呆れた目をしてみせた。
「上から目線ここに極まれりって感じですね。だったら読子さんは? たぶん頭良いでしょうし」
「僕の言う知性は知識の多寡やIQじゃないんだよ。自分でものを考えようとする姿勢の話だ。作家や物語、自分の周囲の人間に同調している奴が自分の世界観を持っていると思うか?」
「なんか偉く壮大な話になりましたね。世界観っていうなら不良絵さんは我が道を行く感じですが」
「ヤンキーなんて同調の塊みたいな存在じゃないか。一匹狼なら買うが、周りとツルんで自分を大きく見せようとしてる時点で駄目」
「あ~……大きく見せようとしてるっていう点で、実仁ちゃんも駄目なわけですね」
「そういうこと。変哲無さんなら割と好みなんだけどな」
変哲無さんは固まった。
「……は?」
「頭はそこそこ良いし、自分なりの価値観も持ってる。周りとツルむのもその価値観に則った行動で、終始一貫している。そして僕と会話することで、僕という人間を理解しつつある」
僕は変哲無さんの方を向いた。
「付き合ってみる?」
「はあぁ!?」
彼女は素っ頓狂な声をあげた。
「あ、あ、あなた、何を言ってるか分かってるんですか!? あなたはこの物語の主人公で、ヒロイン候補達をオトさないといけないんですよ!?」
「そういえば思ったんだけど、オトすって具体的にどうすればいいのかな。付き合うことを了承してくれればそれでいいの?」
「わ、分かりませんけど、恋人同士でしかやらないことをするとかじゃないんですか? その……キ、キスとか」
彼女は顔を赤らめながらか細い声でそう言った。
「なるほど、キスか。じゃあやってみる?」
「あなたさっきから変ですよ!? 何の魂胆があるんですか!?」
「実は少し気になっていることがあるんだ。ヒロイン候補以外の人間と恋をして、両想いになったらどうなるのかってね。いくら『お約束』を回避できないといっても、人間の気持ち……しかも主人公の気持ちを変えることは不可能なはずだ。その場合何が起こるのか。君はどう思う?」
返事の代わりに、僕はビンタされた。
「何するんだ!」
「さっきの発言、シラフな頭で反芻してみてください!」
僕は渋々ながらも、言われた通りに先ほどのやり取りを脳内で再現してみた。
……僕は愕然とした。
なんてことだ。まるで恋愛漫画の一シーンじゃないか。
デリカシーの欠片もない主人公の発言そっくりだ。
「理解しました?」
「……うん。ごめん」
いくらこの世界の空気に酔っているからって、この僕があんなテンプレートなやり取りを交わしてしまうなんて。
早くここから出ないと、この世界の色に染まって取り返しがつかなくなるかもしれない。
「あー、変な汗かいた。こんなこと、もうこれっきりにしてくださいよ? ヒロイン候補の誰かに聞かれたらどうなるか分かったものじゃありませんし」
そう言って、彼女はぱたぱたと手で首筋をあおいだ。
「それは大丈夫。ちゃんと屋上のドアは開けてる」
僕は向かいにある開け放たれたドアを見ながら言った。
ドアの先には比較的スペースの広い踊り場があり、この場所からなら階段を上がってきた人間を確認することができる。
僕達の会話を盗み聞きするには、距離を考えてもドアに接触する程度は近づかなければならないはずだ。
「一番厄介なのは、切り取った会話であらぬ誤解を受けることだからね。その辺りの対策は抜かりない」
「それならいいんですけど……、なんだか嫌な予感がするんですよね。危険センサーが反応しているというか」
「またそういうフラグになりそうなことを……」
僕は苦笑しながら顔を横に向け、床にあるスマホにくぎ付けになった。
「……変哲無さん」
「なんですか?」
「君、スマホは持ってる?」
変哲無さんはきょとんとしながら、自分のスマホを取り出してみせた。
「持ってますが」
「そう」
僕の心臓は早鐘を鳴らしていた。
ゆっくりと落ちてあるスマホを持ち上げる。
それは通話状態だった。
おそるおそる、僕はスマホを耳に持って行く。
「……もしもし」
『……それ、あたしの』
隣家の声だった。
『なくしたから、友達に携帯を借りて電話したの』
「…………そう」
ブツ
氷点下の空気のまま、彼女の電話が切れた。
僕は小さく息をつき、音もなく空気を吸った。
「あ、あの……どうかしまし──」
「なんで誰も出てないのに通話状態になってるんだよおお!!!!」
僕の叫びは、天にも届かんとするほどだった。
◇◇◇
『お約束』からは逃げられない。
その定義は、どうやら僕が思っていた以上に広かったようだ。
自発的な回避が不可能であるというだけでなく、自身の行動によって『お約束』そのものが誘発される。
それはつまり、選択肢によるルート選択だけを考慮していれば良いという今までの考えを否定するものだった。
ちょっとした言動、行動にも注意しなければ、事態を悪化させかねない。
「……隣家。これ、お前が落としたスマホ」
「…………」
……こんな風に。
彼女は無言でスマホを受け取った。
血走った目がこちらを睨んでいる気がするが、おそらくは気のせいだろう。授業中もずっとこちらを見ている気がするが、それも気のせい。きっと気のせいだ。
そう自分に言い聞かせながら、針のむしろのような時間を過ごし、ようやく放課後になった。
逃げるように部室へ行くと、そこには僕と実仁しか来ていなかった。
「あ、こ、こんにちは」
どこか緊張したように、実仁はか細い声で言った。
「他のみんなは、今日は休むんだって。変哲無さんからは聞いてないけど──」
「偶然だな。彼女も休みだ」
僕はLINEで変哲無さんに休部するように伝えながら言った。
ヒロイン候補達の休部は偶然ではない。おそらく、昨日の選択肢によって実仁ルートへ話が進んだのだ。
誰にも邪魔されず、実仁にのみ貴重な時間を割くことができる。
これを機に好感度を上げていきたいところだ。なにせ、次の選択肢までは実質あと一日しか猶予はないのだ。
「じゃあ昨日言ってたように、今日は何か書いてみようか」
「うん。……でもわたし、やっぱり何も思いつかないんだけど」
「普段ブログやツイッターは?」
彼女は首を振った。
「やってない」
「じゃ、今日起きたことを書こう」
「……なんか適当じゃない?」
「別に内容は何でもいいんだよ。書くことに意味があるんだ」
「そういうもの? わたし、中途半端なこと嫌いなの。やるならちゃんとしたいから、きちんと教えてね」
「分かってるって」
僕は昨日見ていた同人誌を手に取った。
小早川裕也の小説をもう少し詳しく読み込む必要があったからだ。
「あなた、授業に遅れてきたんですって?」
原稿用紙に文字を書きながら、実仁は言った。
「まあね」
「図書室でもサボってたわよね。あなたちょっと授業をサボりすぎ。わたし、そういうの許せないタチなの」
同人誌のページを捲っていた指が、とある短編の表題で止まった。
「……ルールは守るべきだと?」
「そうよ」
僕はトントンと指で机を叩いた。
「……うるさくて悪かったわね。どうせこんな面倒くさい女、嫌いなんでしょ」
「別に。真面目な奴は嫌いじゃない」
話は合わないだろうけど。
ふと見ると、彼女は顔を赤くしてそっぽを向いていた。
背が小さいことを気にしないだけで男に惚れたり、真面目なことが評価されるだけで顔を赤くするほどうれしがる。
これくらいの褒め言葉、友人がいれば何度も言われていそうなものだ。
少し周りの人間関係が悪過ぎやしないか?
「は、はい! 一応書いたわよ!」
そう言って、実仁が原稿用紙を突き出した。
「ああ」
言いながら、僕はちらと開いていた同人誌に目を移した。
そこには『刑事になったわたし』と書かれた拙い短編小説が書かれていた。作者の名前には、丁寧なことにモザイクがかかっている。
しかしこれは……どう考えても実仁の作品だ。なにせ、この物語の主人公は身長が低いことにコンプレックスを抱いている。投影型の主人公でまず間違いない。
このSNSの時代、ネタバレというのはもはや回避することの方が難しいと言われているが、とんでもないネタバレが隠されていたものだ。
しかし、これで昨日将来の夢について彼女が言い淀んでいた理由が分かった。
警察官になるには、一定の身長を超えている必要がある。そして実仁は、その規定を満たしていない。
彼女からすれば、決して叶わぬ夢というわけだ。
おそらくだが、彼女をオトす算段はこれでついた。
この夢と現実のギャップを埋めてやることだ。それがおそらく、彼女と恋仲になるための恋愛エピソード。
しかし、どうやってゴールまで持っていけばいい?
それもあと二日で。
「ねぇ。どうなの? 黙ってないで感想を教えてよ」
「ん? ああ。そうだな……。この文章にはお前がいない」
「え? なにそれ」
「事実しか書かれてないってことだよ。情報を売り買いする参考書ならそれでもいいかもしれないけど、小説は一つの事実をどういう視点で捉えるかが重要になってくる。真面目な実仁らしいけど、今度は自分の感情を乗せて書いてみたら?」
「……それってダメってこと? あ、ちゃんと正直に答えてね!? わたし、お世辞って大嫌いなの!」
その時、選択肢が浮かび上がった。
あなたはどうしますか?
ダイ
☞そういうわけじゃない
駄目
今日はちょっと蒸し暑いね!
僕は駄目を選択しようとして、変哲無さんに言われたことを思い出した。
『いいですか? 彼女と二人きりになれば、絶対に選択肢が表れます。その時は、必ず彼女を肯定してあげてください。彼女は生真面目で、たぶん努力家なんでしょう。否定的であっても忌憚のない意見をくれと念を押してくるかもしれません。しかしその言葉通りなら、背の小さいことを肯定するあなたを好きになったりはしません。厳しい現実に晒されて慰めて欲しいのに、他人に甘えられない。生真面目故のジレンマです。だから、否定的な発言は絶対NG! 分かりましたね?』
僕はしばらく考え、選択した。
あなたはどうしますか?
ダイ
☛そういうわけじゃない
駄目
今日は蒸し暑いね!
「……そういうわけじゃないって?」
「悪くないってことだよ。初めてでこれだけ書ける子はそういない」
実仁はそっぽを向いた。
「ふ、ふーん。わたしはまだまだだと思うけどな。あなた、あまり見る目なさそうね。ま、まあ、褒め言葉は一応受け取っておくわ。……ありがと」
言葉に反して、好感度ゲージがかなり上がった。
危ない危ない。
変哲無さんの助言がなければ、第二のヤンデレが誕生するところだった。
「……わたし、書いてみようかな」
「何を?」
「自分の夢のこと」
少し恥ずかしそうにしながら、彼女は言った。
「それはいいね。僕も楽しみだ」
「そう? なら頑張ってみようかな。……あ、もうこんな時間か。わたし、そろそろ帰るね。じゃあ!」
家まで送るよ、という言葉は彼女のドアを閉める音でかき消された。
……まあいいさ。
女性経験のない僕にしてはよくやった方だ。
今日だけでもかなり話は進展したはずだしな。
◇◇◇
夜。
僕はパジャマ姿で冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出し、自室へと戻った。
久しぶりに湯船に浸かり、ゆっくりと風呂に入ったが、なかなか気持ちよかった。
そして何よりもこのコーヒー牛乳だ。これが冷蔵庫に入っていたと知った時は、思わず歓声をあげてしまった。
学校の購買部ではがっかりさせられっぱなしだったが、自宅にある食材の充実度は素晴らしい。
僕は風呂上がりの一杯をとコーヒー牛乳の蓋を開け、ごくごくとそれを飲んだ。
うまい!
たまにはこうやってリラックスする時間を作るのも良いものだ。
僕は何の気なしに隣家の様子を見ようとカーテンを開けた。
僕は思わず固まった。
彼女の部屋はカーテンが閉められていて確認することはできない。しかしそのカーテンの隙間から、隣家の血走った片目がこちらに向けられていたのだ。
しばらく僕の方を見ていたかと思うと、しゃっとカーテンが閉まり、彼女の目は見えなくなった。
僕はゆっくりとスマホを取り出し、LINEを開いた。
ダイ『怖い』
そうコメントを打つと、十秒とせずに返事がきた。
変哲無『何がです?』
嫌われることを極端に嫌う、彼女らしい迅速な対応だ。
ダイ『隣家が僕の部屋をずっと見てる』
変哲無『恋い焦がれた乙女の目と見間違ってませんか?』
ダイ『乙女が瞳孔開いた目でこっちを見るのか?』
二十秒ほど時間が流れた。
変哲無『気にしても仕方ありませんよ』
変哲無『無視が一番です』
ウサギがファイト! と声をかけているスタンプが張られる。
ダイ『そっちに泊まっていい?』
変哲無『おやすみなさい』
それ以降、彼女からの返信は途絶えてしまった。
『ソファでいいんだ』とか『せめて寝付くまで電話させて』など、何度かコメントしたが、既読がつくことはなかった。
これ以上やるとブロックされそうなので、仕方なくスマホを仕舞った。
僕は布団だけ持ってきて、リビングのソファで寝ることにした。
なんでこの家はセコムに入ってないんだ。レオパレスにだってあるのに。
こんな不安を抱えながら寝ないといけないなんて、まさしく悪夢そのものだ。
◇◇◇
翌朝、僕は遅刻することなく学校に到着した。
教室に入る。
変哲無さんがちらと僕を見て、ぎょっとした。
驚くのも無理はない。僕も今朝、鏡を見てびっくりした。
まさかたった一日、恐怖で寝なかったというだけで隈ができてしまうとは。
すぐに知らないフリをするが、さすがの変哲無さんも罰が悪そうだ。
ふん。せいぜい罪悪感に駆られるがいい。君はそれだけのことをしたんだ。
徹夜する上で何よりもキツかったのが、時間を潰す方法だった。
ネットは繋がらず、LINEニュースは見れるかと思って試してみたがそれもダメ。
小早川裕也の部屋にある娯楽といえば、下らないギャグ漫画と青春小説、そして僕がてんで駄目な格闘ゲームだ。
どれもこれも興味のないものばかり。財布に入っている金は高校生相当だし、そもそも夜に外を出歩くのはなんか怖いし。
しかし学校に来てしまえば、公衆の面前ということもあってある程度の安全は担保される。同じ空間に隣家がいるというのはそら恐ろしいが、幸い席は離れているし、多少の仮眠くらいならとれるだろう。
授業が始まったら即刻寝ようと思っていた時だ。
ピロンと、LINEコメントの通知を知らせる音が鳴った。
変哲無さんから謝罪の言葉が聞けるのかと思えば、それは実仁からだった。
実仁『やっぱり書くのやめる』
僕はため息をついた。
正規ルートも、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
◇◇◇
僕は隣のクラスに向かい、すぐにその理由が分かった。
「さっきの続き書かないの?」
「ねぇ~、いいじゃん。ちょっとだけ見せてよ」
実仁の席に二人の女子が屯していた。
彼女は席に座ったまま何も言わずに頭(こうべ)を垂れていて、盛り上がっている女子達はそれに気づいていない様子だ。……いや、気づこうとしていないと言うべきか。
ジョーさんもよくああやってからかわれていた。一等タチが悪いのは、彼らに悪気は一切ないということだ。いやむしろ、良いことをしてあげていると考えているフシがある。だから余計、話がややこしくなる。
結局ジョーさんは、自分の殻に閉じこもることで問題を解決した。
あの時、どうすれば助けてやれただろうか。
僕は未だに答えが出ていない。
僕は教室に入った。
それに気付いた実仁が、驚いた様子で僕を見上げた。
「今書いてるもの、他の子に見せてないだろうな?」
「え、あ……見せてないけど」
「ならよかった」
僕は周りの不審げな女子たちに、精一杯の笑顔を向けた。
「次の同人誌に載せるものを書いてもらってるんだ。部長として、ネタバレは防止しないといけなくてね。気になるんだったら、完成した時に買ってくれ」
「えぇ~。なんか成金っぽい~」
「ちょっとくらい読んでも大丈夫だって。ウチら、口固いし~」
まずいな。
空気を悪くせず冗談めかして断る算段だったが、予想以上に面の皮の厚い奴らだったらしい。
この状況をやんわりと突破するのは、コミュ障の僕には少々荷が重いぞ。
……仕方ない。ここは長期的な会話で信頼関係を築いていくしかないだろう。
「そうか。口は固いのか。それは悪かった。でもそれなら口が固いなりの喋り方をした方がいいと思うよ。語尾を伸ばしてるとなんだか馬鹿っぽい」
「は?」
「ちなみに僕は成金じゃないし、さっきの発言に成金だと思われる要素があった理由もよく分からない。論拠をしっかりして喋ってくれればもう少し知能指数が高いと思われるんじゃないかな」
二人の顔が徐々に強張っていく。
「なにそれ。すげー感じ悪いんですけど」
「あたしが馬鹿だって言いたいの?」
なんだか様子がおかしい。
僕が思っていた反応と違うぞ。
「馬鹿だなんて一言でも言った? それに僕は友好的だ。君達の欠点を指摘してあげただけだろ。勝手に拡大解釈しないでくれ」
「なにそれ? 喧嘩売ってきてんのそっちじゃん」
「だから、いつ僕が喧嘩を売ったんだ? 一体どこにそんな発言があったんだよ」
「なにその上から目線。マジきもいんだけど」
「だから論拠をはっきりしろよ。いつ僕が上から目線になったんだ」
「その言い方が上から目線だって言ってんの」
「人に向かってきもいだなんだ言ってくる奴の方が他人を下に見ていると思うけど?」
僕はイライラしてきた。
彼女達はきもいだの馬鹿だのという言葉を捲し立てていて、どうにも議論できる様子じゃない。
というか、よくよく考えれば議論なんてする必要もない。
僕は実仁の机にある原稿用紙をひったくった。
「部長権限でこれは預かる」
僕はそれだけ言って、彼女たちに背を向けた。
「骸骨男! 標本になって飾られてろ!!」
「メガネしか特徴ないんだよ駄メガネ!」
「死ね!!」
そんな罵声を後ろから浴びせられながら、僕は教室をあとにした。
周りから見れば僕が議論に負けたように思われるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
そういう勝ち負けに拘らないのが大人というものだ。
仮にあいつらが困ったことに巻き込まれても、絶対助けないでおこうと僕は心に誓った。
僕は実仁にLINEを送った。
ダイ『原稿は部室に置いておく。中身は見てないから安心してくれ』
僕は自分の教室に戻り、席に座った。
これでひとまずは問題解決だろう。
しかし時間が経つにつれ、あの対応はどうだったんだろうと思い始めてきた。
実仁にとって、彼女達はおそらく唯一の友人だったはずだ。
ああいう人種は、自分が気に入らない人間の全てを嫌わないと気が済まない。僕の部員仲間というだけで、実仁を排斥する可能性だって少なくないのだ。
もっとうまくやれたんじゃないか?
……いやいや、何を言ってるんだ。
現状と僕の能力を考えれば、あれがベストな行動だった。それをうじうじと悩むのは僕の仕事ではない。
ここに来てからというもの、つまらないことに心を囚われる機会が多くなっている気がする。
どうにも僕らしくないな。
ふと見ると、僕の前の席にいる変哲無さんの頭に、丸めた紙が投げられているのに気付いた。
変哲無さんは気付かぬフリをしていて、くすくすと笑っているのはいつも彼女がツルんでいる女子グループだ。
……無視だ、無視。
隣家の目もあるこの場所で他の女子に干渉することはマイナスにしかならない。
だいたい、彼女だって子供ではないのだ。本当に我慢ができなければ何かしらの対処を考えるだろう。
「あ、変哲無ごめーん。椅子蹴っちゃったぁ」
「いえいえ~。全然だいじょうぶですよ~」
「そう? よかったぁ。人の椅子蹴っちゃうことってよくあるよね~」
「そうですよねー、アハハハ」
変哲無さんはへらへらと笑っている。
気付けば、僕は彼女の腕を掴んでいた。
「ちょっと来い」
「え? ちょ、ええ!?」
狼狽する彼女を無視して、僕は教室をあとにした。
◇◇◇
「どうしたんです? 休憩時間中は声をかけないようにって言ったのはそっちでしょ」
屋上に変哲無さんを連れ出すと、開口一番にそう言った。
「昨日のことは謝りますから、もういいでしょ。ほら、早く教室に戻らないと、変な誤解を──」
「気が散る」
「はあ?」
「いいか。はっきり言うけど、君は明らかにあのグループに向いてない」
そう言うと、変哲無さんは途端に目を泳がせた。
「……そ、そんなことないですよ。みなさんすごく仲良くしてくれますし」
「目を逸らすな」
「うぐ……」
僕は大きくため息をついた。
彼女が同調性を強く意識するのは一つの価値観だ。そこに文句を言うつもりはない。
しかしあれは、軽度なものとはいえ一種のいじめだ。
「なんであのグループに固執するんだ?」
「……別に、固執なんて」
「ほら、いつも教室の隅にいるふくよか女子三人組がいるじゃないか。あのグループに入れてもらえよ。前もポテチ談義に花を咲かせていたぞ」
変哲無さんは、急にもじもじし始めた。
「じ、実は……私も前からちょっと気になっていたんですけど……」
「だったら話しかければいいだろ」
「で、できませんよ! そんなグループをころころ変えるようなこと! すぐ乗り換える浮気女だとか陰で言われて、ぼっちになるに決まってます!」
「大丈夫。あの三人組は元々浮いてるから、そういうのは気にしない」
「まるで自分のことのように……。前々から言いたかったんですけどね。あなたのその自信は一体どこからくるんですか?」
「少なからぬ根拠があるから言ってるんだ。だいたい、君だって理解してるだろ? 彼女達はただ役割を忠実にこなすだけの一種の駒だ。学校生活を演出するためと、死んだヒロイン候補を回収して清掃するだけで、自主性なんて本来は何も──」
言っていて、僕はふと疑問に思った。
「そういえば『いらない選択肢』の時って、ヒロイン候補以外の人間は死体の清掃を……」
僕は変哲無さんを見た。
彼女は髪を弄りながら目を逸らしている。
「やったの!? 死体清掃を!?」
「だ、だってみんなやってるから! やらないと何言われるか分からないじゃないですか!!」
驚きだ。
日本人は同調圧力に弱いとはいえ、そのために死体清掃までする人間は早々いないだろう。
彼女の同調精神は僕が思っている以上に強いらしい。
「私は……いつも日陰者だし、面白いことも言えないし、地味だし……そういうのは無理なんです」
「僕よりはるかにコミュニケーション強者のくせに何を言ってるんだ?」
「あなたが弱すぎるだけで、私は普通です」
僕は思わず首を振った。
「まるで自分のことが見えていないな」
しかし、これ以上言っても彼女は頑なに考えを変えそうになかった。
「ああそう。もう分かったよ。変な気は回さない。これでいいな?」
「……ええ。それでいいです」
僕が教室の席に着いてしばらくすると、変哲無さんが戻って来た。
一応、時間差をつけて戻った方がいいだろうという判断からだ。
変哲無さんは歩きながら、ちらとふくよか女子三人組を一瞥して素通りした。
かと思うと、元来た道を戻り、思い切った様子で声をかけた。
「あ、あの……」
ふくよか女子三人組は、不思議そうな目で変哲無さんを見つめる。
彼女はぱくぱくと口を開け閉めするも、声が出ていない。
しばらく努力していたものの、とうとう顔を赤くして俯いてしまった。
「やっぱいいです……」
「君達のポテチ、害虫のエキス味?」
僕の言葉に、一層体形の大きい女子が驚いてみせた。
「え、すごーい。よく分かるね。マニアしか知らない限定品なのに」
「彼女がよく食べてたから」
そう言って、僕は変哲無さんを指さした。
彼女は慌てた様子で目を泳がせている。
「え! そうなの!?」
「や、あの……別にそんな大したことじゃなく。ただ、それを食べないと一日が始まらない感じがするっていうか」
「ええ!? これ毎日食べてるの!? マジ感激」
その感激はどういう種類の感激なのだろうか。
しかしこの言葉が契機となり、変哲無さんにあった妙な堅苦しさが消え、自然に話ができるようになっていった。
「変哲無さんってすごく話しやすい人ね」
「え? そ、そうですか……?」
満更でもない様子で、彼女は恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「ホントにね。儚げで美人だし、私達なんて眼中にないと思ってたよ~」
「え!?」
「そうそう。だからさっきもちょっとびびっちゃった。何か気に障ることしちゃったかな~って」
「そ、そんなことないですよ!」
変哲無さんが叫んだ。
そのあまりに強い否定に、彼女たちはぽかんとしている。
「あ、えと……いつも楽しそうなんで……その……仲間に、いれてもらえたらなぁって、ずっと思ってたっていうか……」
彼女達にあった戸惑いの空気が徐々になくなり、歓迎のムードに包まれ始める。
「ちっ」
そんな和やかな空間から少し離れたところで、変哲無さんをいじめていた女子が彼女を睨んでいた。
「どうかした?」
僕がそう聞くと、彼女はびくりと肩を震わせ、すぐにそっぽを向いた。
不良絵が僕に一目置いているということもあって、ヤンキー女子の中での株が上がっているようだ。
何もせずともスクールカースト上位に食い込めるとは、ハーレムというのもあながち捨てたものではないな。
再び変哲無さんの様子を伺うと、もはや彼女は完全にふくよか女子三人組の中に溶け込み、談笑していた。
これで心置きなく攻略に専念できるというものだ。
僕にしては少し感傷的な行動だったかもしれないが、一応変哲無さんには攻略の手助けをしてもらっている恩もあるしな。
それに、実仁の件で多少のわだかまりを覚えていた僕からすれば、彼女の人間関係を改善できたことは、まあ、ある種の自己啓発にはなっただろう。
僕は改めて、変哲無さんの楽しそうな顔を見た。
何の変哲も無い乙女。端役の代表ともいえる彼女が幸せになるという物語が一つくらいあったって、罰は当たらないだろう。
ピロンと音をたてて、実仁からLINEが送られてきた。
実仁『……ありがと』
その時、彼女のアイコンの横にゲージが現れて、それが上がった。
どうやら、選択肢以外のものでも好感度は上がるらしい。
しかしこれは気をつけないといけない。好感度が上がるということは、下がる可能性もあるということなのだから。
僕は冷静にそう分析しつつ、先ほどより心が軽くなっている自分に気がついた。
◇◇◇
部室には、昨日と同じく僕と実仁しかいなかった。
心なしか、実仁は昨日よりも表情が柔和になっている気がした。
それが僕の思い上がりでないことは、彼女が小説の続きを喜々として書いていることが証明している。
「いい!? 絶対のぞいちゃダメだからね!!」
「分かってるよ」
そう言うと、彼女は何故か歯を見せて笑った。
その時作用しているであろう複雑な女心は、僕にはまるで理解できない。
一見順調そうな展開進行に、僕は同人誌のページを捲りながら、まずいなと思った。
打ち解けているようにみえるが、僕はまだ彼女から警察官になるという夢を教えてもらっていない。
実仁をオトすには、そのことを彼女の口から告白してもらわなければ始まらない。
明日の朝には『いらない選択肢』で誰かが死ぬ。それまでにゴールしなければならないというのに。
僕は何度か適当な雑談を投げかけたが、そこから夢の話へと発展することはなかった。
無情にも時間だけが過ぎていく。
僕は小さく深呼吸した。
落ち着け。
焦っても無意味なことは再三の失敗で学習しただろ。ここは辛抱強く待つ場面だ。
「ん~、うまくまとまらないなぁ」
実仁が片手で髪をくしゃくしゃとかき乱した。
「とりあえずでいいから完成させたらいい。最初の一作というのは一番難しいものなんだ。でも二作目からは割とすんなり書けるようになる」
「んー……でもわたし、そんなに頭良くないから」
「作家なんて誰でもなれる」
僕は同人誌のページを捲った。
「昔ならいざ知らず、現代の若者は物語にも文章にも慣れ親しんでいる。つまり基礎教養が既にあるわけだ」
「でも、わたし本なんてそんなに読んでないし」
「LINEやブログ、SNSだって立派な文章だ。難しい単語を使ったり洒落た比喩を用いなければ文章じゃないのか? 文字の本質はたった一つ。相手に情報を伝えることだ。故に、若者は文章の教養がある」
僕は先ほどの実仁の言葉を思い出し、鼻で笑った。
「だいたい、文章を書くのに頭の良さが必要だって? どこに論理的繋がりがあるんだ?馬鹿な物書きなんてこの世に腐るほどいるだろ。それを知ったうえでも頭が良くなりたいと思うなら引きこもれ」
「……なんで?」
「引きこもればIQが上がる」
実仁はぽかんとし、急にぷっと噴き出した。
「なに?」
「ううん。なんか、ようやくまともに喋ってくれたなと思って」
「まともに? 今までだって普通に喋ってたじゃないか」
「うーん……、なんていうか。気を遣ってる? みたいな? あなたの言葉じゃない感じっていうか」
確かに、今までは好感度のことばかり考えて、自分の本音を喋っていなかった気がする。
しかし、『あなたの言葉じゃない』、か。咄嗟にそんな言葉が浮かぶ辺り、やはり彼女は素養がある気がする。
「一方的に伝えるだけじゃ、ダメだよね。ちゃんと、相手のことも受け入れないと」
僕は実仁の方を見た。
彼女は原稿用紙に文章を書いている。
「どういう意味?」
「え? わたし、何か言った?」
これをどう解釈すべきだろう。
実仁が現実の世界にいた時のことを思わず口走ってしまったのか、それとも小早川裕也が言わせたのか。
そもそも、これが小早川裕也の呪いだとして、彼は一体何をさせたいんだ?
生前に叶えられなかった愛の告白をやりたいのか。それとも、ヒロイン候補達に復讐でもしたいのか。
どちらにせよ、歪曲的な方法だと言わざるを得ない。やはり、何かしらの役割を僕に押し付けようとしている気がする。
「ねぇ」
しばらく沈黙していると、ふいに実仁が話しかけてきた。
「どうしてわたしに良くしてくれるの?」
彼女は顔を上げず、ずっとペンを走らせている。
「今回だってわたしに教えてくれてるけど、もっとかわいい子も、才能ある子もいただろうし」
変哲無さんの言っていた、彼女の実態というものが明らかになりつつあるようだ。
負けず嫌い。正義感が強い。でもそれ以上に、彼女は打たれ弱く自信がない。
「あいつらは嫌い?」
「え?」
「君の友達だよ」
「……別に。いらない正義感振りかざしてクラスで浮いてたわたしを受け入れてくれたのはあの子達だけだし。……でもわたしは愛玩動物じゃない!!」
ダン、と彼女は机を叩いた。
しかしすぐにはっとして、「ごめん……」と小さくつぶやいた。
「もう正義感を振りかざすのはごめんか?」
「……そんなこと、ない……けど」
「怖い?」
実仁は小さく頷いた。
それから、彼女はすぐに顔を赤らめた。
自分の心情を吐露し過ぎたと思ったのだろう。
「わ、わたしのことはいっぱい喋ったんだから、次はあなたの番。どうしてわたしを選んだの?」
その時、僕の頭の中に例の選択肢が浮かんだ。
【あなたはどうしますか?】
ダイ
☞好きだから
え? 適当だけど?
えーっとねー…………。
……マジか。
これは難しいぞ。一気に難易度が上がった。
狂犬実仁の好感度は今の段階で80%ほどあるが、まだ100%ではない。
隣家に早まった告白をして失敗した身としては、ここで好きだと言っても悪い展開になる未来しか見えない。
……考え過ぎか? ただ好意を示したというだけなら……。
いやでも、これだけ自己肯定感の低い実仁に何の根拠もなく好きだと言っても、そのまま受け入れられるとは思えない。
どうする……。どうする……。
僕は熟考の末、選択した。
【あなたはどうしますか?】
ダイ
好きだから
え? 適当だけど?
☛えーっとねー…………。
「……なにそれ?」
実仁がジト目で僕を睨んでいる。
……言っておくが、ひよったわけじゃない。
ちゃんと論理的に考えた結果だ。
僕は浅薄な恋愛漫画の知識をフル動員し、額を手で押さえてみせた。
「……自分でもよく分からないんだ。恥ずかしいことに」
実仁は怪訝そうな顔をしている。
「でも、実仁を見ていると、その……なんだか放っておけなくて」
そう言って、じっと彼女の目を見つめる。
茫然としていた彼女の顔が、ぼっと赤に染まった。
「な、なによそれ! 馬鹿じゃないの!?」
そそくさと僕から目を逸らし、ガリガリとペンを走らせ始める。
どうでもいいが、そんなに焦って書いていたら推敲の時に大変だぞ。
ふと彼女のゲージを見ると、ググンと好感度が上がった。
おっしゃああああ!!
僕は心の中でガッツポーズを取った。
『ポケットモンスター』というゲームでバトルをしている時、うまく交換読み交換が決まった時のような爽快感だ。
ここで好感度が下がるようなことになれば絶望的だったが、これで首の皮一枚繋がった。
僕は改めてゲージを見た。
あと一度上がれば、おそらく100%に達する。
うまくやれば、明日の『いらない選択肢』の前にゲームをクリアできるかもしれない。
「……わたしのパパが、警察官だったんだ」
来た!!
僕は無表情を貫いたまま歓喜した。
「だからわたしも、自然と警官になりたいって思ってた。でもパパは、強盗犯を追いかけてる途中で、その犯罪者に殺されて……」
なかなかヘビーな過去だな。
胃もたれしそうな話にも、僕は気圧されることなく変哲無さんから教わった相槌、「うん」「なるほど」「そんなことが……」の三つを巧みに使い分けていた。
「パパができなかったことをやらなきゃって。パパみたいに、命を投げ打って正義を行おうって。そう思ってたのに……、現実は、うまくいかないことばかり。……わたし、背が小さいでしょ? 背の小さい子は警察官になれないんだって」
彼女は自虐的に笑った。
「馬鹿みたいでしょ? 友達に自分の気持ちも答えられない奴が、まだ警官になりたいって思ってる」
その時、恒例の選択肢が浮かび上がった。
【あなたはどうしますか?】
ダイ
☞君ならなれる
無理かもね
じゃあ、また明日
僕は即決した。
【あなたはどうしますか?】
ダイ
☛君ならなれる
無理かもね
じゃあ、また明日
「……無理だよ」
僕は立ち上がって彼女の前まで行くと、その小さな両肩を掴んで正面から見据えた。
彼女の頬が赤く染まる。
ちらとゲージを確認すると、好感度がマックスまで上がっていた。
「君ならなれる」
僕は変哲無さんとのやりとりを思い出した。
『そういえば思ったんだけど、オトすって具体的にどうすればいいのかな。付き合うことを了承してくれればそれでいいの?』
『わ、分かりませんけど、恋人同士でしかやらないことをするとかじゃないんですか? その……キ、キスとか』
やるぞ。
初めてだけど、ドラマや映画で最低限のやり方は心得ている。
ここに来る前に口臭スプレーだって吹きかけた。完璧だ。
僕は意を決し、その言葉を唱えた。
「好『ピピピピ!』」
僕ははっとした。
実仁の携帯が鳴っている。
隣家の時と同じ、タイミングの悪過ぎる不運。これは……『お約束』だ!
馬鹿な。ゲージはマックスにしたはずなのに。
僕はよくゲージを確認して愕然とした。
よくよく見ると、完全に上がり切ったと思っていたゲージが、ほんの少しだけ足りていなかったのだ。
「ごめん。ちょっと用事ができちゃった」
携帯に届いたメールを確認しながら、実仁は言った。
ここで帰すわけにはいかない!
しかし、下手なことをすれば隣家の二の舞に……!!
「じゃあ、また明日!!」
そんなことを考えている間に、実仁は手を振って部室から出て行ってしまった。
……絶好の機会を逸してしまった。
これでもう、『いらない選択肢』までにゲームをクリアするのは絶望的となった。
「……くそ!!」
部室に取り残された僕は、思わず壁に拳を叩きつけた。
◇◇◇
僕はベッドに横になり、ずっと熟考していた。
明日の朝には再び『いらない選択肢』を迫られる。その時に一体誰を選ぶのかを。
やはり、隣家しかいないのか。しかし……
ふと、僕はこの部屋の勉強机にまだ一度も触れていないことに気付いた。
授業はあるが毎日同じ授業だし、教科書等は既に鞄の中に入っているのだ。机に座るような用事など一つもない。
僕は身体を起こし、勉強机に座った。
勉強するには十分すぎる広さ。良質なものだと思わせる滑らかな肌さわり。
しかし、それ以外に特筆するべき点はない。
せいぜいが、レオパレスに付いている机や椅子とは雲泥の差だなと思うくらいだ。
僕は何の気なしに引き出しを開け、そこで一冊のノートが入っていることに気付いた。
何気なく開いてみて、僕はそれにくぎ付けになった。
『主人公が選択した『いらないヒロイン』は、ヒロイン失格となり排除される』
ノート一面に、まるで血文字のようにでかでかと書かれている。
これをどう見るべきだ?
ゲームの説明書……、いわゆるルール説明なのか。それとも小早川裕也のメッセージなのか。
次のページを捲る。
『主人公の選択で、ヒロインの好感度が上下する』
まったく同じ血文字で書かれたルールだ。
さらにページを捲る。
『主人公はヒロインを選ばなくてはならない』
これは他の二つとは少し違っていた。
ヒロインを選ばなくてはならない? 今のところ、そんな選択を強制されたことはない。……これがこの世界を作った目的なのか?
次のページからは血文字はなく、ごく普通の日記になっていた。
『今日もあの子に告白できなかった。つくづく、自分の不甲斐なさが忌まわしい。しかしそれも当然かもしれない。そもそも、オレは自分に自信がない。勉強も普通。運動神経も普通。飽き性で、趣味といえるようなものもない。小説だけはなぜか続いているけど、それも時間の問題な気がする。誰からも好かれないオレのような人間は──』
ガシャアアン!!
突然窓が割れ、僕は飛び上がった。
「な、なんだ!?」
僕が割れた窓を見ると、そこには隣家がいた。
血走った目で、三日月のような口をして、手には包丁を持っている。
「いひ。いひひひひひ」
僕は護身用にと持ち込んでいたバッドで思い切り彼女の腹めがけて突き刺した。
突然の攻撃に隣家も対応できず、そのまま彼女の部屋まで押しやることに成功する。
こっちは眠れない夜、ずっとシミュレーションを繰り返していたのだ。防衛行動で加減はしない。
僕はあらかじめ中身を抜いておいた本棚を横に倒し、窓を塞いだ。
「いひぃー!! いひひぃいひひひひぃ!!!」
ガン、ガンと衝撃で本棚が大きく揺れる。
僕は必死でそれを押さえた。
「怖い! 怖いって!! なんで笑ってるんだよ畜生!!」
僕は叫び声をあげて自分を鼓舞しながら、本棚をガムテープで固定する。
それでもなんとかして入ってこようとする彼女を必死に押し留めていると、やがてぴたりと動きが止まった。
しばらくその場で固まり、耳をそばたてる。
……諦めたか?
そう思った瞬間、今度は下の玄関からドンドンと大きな音が響いた。
僕は慌てて下の階へと降りていく。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーン
「なに居留守使ってんのよおおおおお!!! あたしがいるのに無視するなよおおお!!!」
家全体が揺れてるのではないかと思うほどの勢いで、彼女は怒り任せにドアを蹴っている。
時々、包丁をドアに突き立てる耳障りな金属音が木霊した。
ドアを破られるのも時間の問題だ。
その時、ピロンと音がしてLINEが届いた。
隣家『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね』
隣家『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね』
隣家『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね』
「僕は隣家とLINEを交換したか!? なぁ、したのか!? どうなんだ馬鹿作家!!」
アドレナリンが大量分泌し、もはやこれが恐怖なのか怒りなのかも判別がつかない。
急激な動悸と息切れで視界がぼやける中、僕の頭の片隅に残っていたなけなしの理性が落ち着けと訴えかける。
僕はできるだけ自分の呼吸を意識し、十秒だけ深呼吸する時間を敢えて作った。
息を吸って、吐いて。
それを何度か繰り返し、ようやく幾分かの平静さを取り戻した。
その間も、ピロンピロンとLINEが届く。
それを聞いて、僕は自分が一人ではないことを思い出した。
隣家のLINEを全て無視し、変哲無さんにコメントを送る。
ダイ『隣家が僕を殺しに来た。どうやらタイムリミットらしい』
変哲無さんはすぐに返事をくれた。
変哲無『大丈夫なんですか?』
ダイ『そんなわけないだろ』
変哲無『なんとかしてください。あなたが死ねばこの世界にいる人間がどうなるか分かりません』
あくまでも自分の保身か。
彼女らしい。
変哲無『すぐに行きますから待っててください』
ダイ『へぇ。死地に自ら? 珍しいこともあるんだな』
変哲無『どうせ死ぬなら抗ってから死にます』
抗ってから、か。
確かにそうだ。
このまま座して死を待つことほど無意味なことはない。
僕は目を瞑って熟考した。
……よし、決めた。
ダイ『この状況を利用する』
変哲無『利用するって?』
僕は逡巡し、しかしすぐにフリック入力でコメントを送った。
ダイ『実仁をこの場に呼ぶ』
変哲無『はあ!?』
ダイ『状況を変えるのは諦めた。その代わり、実仁ルートの展開を無理やり早める』
ダイ『隣家をラスボスにして実仁をオトし、ゲームをクリアする』
すぐに変哲無さんから返事がきた。
変哲無『正気ですか!?』
変哲無『彼女が殺されたらどうするんです!?』
ダイ『これは賭けだ』
僕は正直に言った。
ダイ『信じるしかない。運を、自分を、そして実仁を。何の根拠もなく信じて、それに賭けるしかない』
ガン、ガンとドアの外から音がする。
一層強くなるその音を聞きながら、僕は決意と共にコメントを打った。
ダイ『ヤンデレルートの中で、僕はヒロインに告白する』
第二話 完
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