第一話 ドライブ-ダークネス-


【この物語でいらないキャラクターは誰ですか?】


 ダイ

 普遍的隣家

 大人シ読子

☛マッハ・走流乃

 茶倮茶倮不良絵



「ああああぁあぁあ!!!」


僕が選択すると、突然走流乃が叫んだ。

くるりとこちらを振り向くと、先ほどの暴力彩芽のように、ダラダラと目から血を流していた。


「アンタが……アンタが無視した癖に……。だからアタシのエピソードが丸々飛ばされたのに……」

「ご、ごもっとも」

「うわああああ!! アンタのせいだああああ!! アタシ、死にたくない!! 死にたく──」


バリィン!!


そんな音と共にゲージが割れ、ばたりと走流乃は倒れた。


選択しないという選択も、あるにはあった。

しかし先の隣家とのやり取りを見るに、おそらくタイムオーバーは選択肢の中でも最悪の状況を引き起こすものだろう。

全員死ぬ可能性のある選択をするくらいならと、まるで接点がなく、好感度も上がりようのない彼女を選んだのだが……。

ちらと、僕は倒れている走流乃を見た。

ぴくりとも動かず、床に血だまりを作りながらうつ伏せで倒れている。


あ、後味が悪い……。

これは前回よりも遥かにキツいぞ。

前は行動しないというある種消極的な行動で死を見逃してきたが、今回は違う。


僕が殺すのだ。

文字通り、僕が選択して。


……犯人は、僕に恨みのある人間か?

だとしたらまずいぞ。呪いの根源がこの世界にいない可能性も出てきた。そうなると、本当に対処のしようがない。


ふと、僕は他のクラスメートを見た。

全員が、しんと静まり返ったまま死体を凝視して固まっている。

しかししばらくすると、彼女達は動き出した。

手慣れた事務作業をこなすように、二人の死体を教室の外へと運び出し、モップを使って血を掃除し始める。


あまりに異質で、あまりに異常な光景だ。

誰一人叫び出すことなく、黙々と作業をこなしている。

その時、僕はその作業を行っているのが、ヒロイン候補以外のクラスメートだということに気付いた。

ヒロイン候補達は依然固まったままだ。

どうやら、掃除はモブキャラの仕事らしい。


掃除が終わると、彼女たちは先ほどまでいた定位置に戻り、何事もなく喋り始めた。

まるで、さっきの二人などいなかったかのように。


存在意義。

物語におけるヒロインは、主人公と結ばれるために存在する。そのためだけに存在する。

故に、僕が拒否すれば死に、死ねば誰の記憶にも留まらない。

恋愛ハーレムの世界がかくも恐ろしいものだということを、僕は初めて思い知った。


「ちょっと、ダイ。どうしたのよ。もう授業始まるわよ」


硬直の解けた隣家が袖を引っ張って声をかけてきた。

どうやら、先程の異常な光景は記憶にないらしい。


「あ、ああ」


僕は席に座り、すぐに腕時計を確認した。

71:58:12

先程とは違い、タイムリミットまでかなりの時間がある。

どうやら最初のタイムリミットはデモンストレーションだったようだ。僕の危機感を煽るために、わざと早めにタイムリミットを設定した。


「……随分と意地の悪い奴だな」


僕は思わず愚痴をこぼす。

しかし、これではっきりした。

僕が積極的に動いてゲームをクリアしなければ、先程のような光景があと四回も繰り返されることになる。

それに、たぶん事はそれだけじゃ終わらない。僕に恨みがあるのなら、犯人の最終ゴールは僕の死以外にない。


急に鳥肌がたってきた。

前回は何だかんだと言っても、最初から生存率の高いポジションに立つことに成功していた。ある意味で、自分の生存は約束された状態だったのだ。

しかし今度は違う。

次の瞬間には、理不尽なルールで殺されることだってあり得るのだ。

死は怖くない。だが、ジョーさんを残して死ぬことは怖かった。彼女にはまだ僕が必要だ。なら、こんなところで死ねない。死ぬわけにはいかない。


僕は貧乏揺すりを抑えることができなかった。

保健室で隣家への選択肢をミスしたことが、今更ながら心に響いて来た。

どうにかして遅れを取り戻さなければならない。

僕は思わず立ち上がった。

自分の席で肘をつき、ぼーっとしている隣家の前まで歩いていく。


「なぁ隣家。保健室のことなんだけど、ちょっと弁解を──」

「もう先生が来るから後にして」


ダラダラと冷や汗が流れて来る。

とりつくしまもない。こういう時どうすればいいのか、圧倒的に経験値が足りなかった。

他のヒロイン候補に的を絞った方がいいのか?

読子の方を見ると、彼女は依然読書に夢中だった。


「読子」


びくりと、彼女は肩を震わせた。


「何を読んで──」

「ごご、ごめんなさい! 視界に入ってごめんなさい!!」


彼女は本に顔を突っ込むようにして、身体全体で拒否の気持ちを表してみせた。


「……不良絵」

「はあ!? 喋ってくんなし!! マジきめぇ!! ホント、マジきめえ!!」


僕は無言で自分の席へ戻った。


……まずい。

本当にまずいぞ。

どうやって彼女たちの好感度を上げればいいのか、まるで分からない。

今、はっきりと確信した。

僕一人では、この物語をハッピーエンドにするのは無理だ。


しかし、この世界のどこに頼れる人間が存在する?

僕の同居人であるジョーさんは行方不明。以前の事件で知り合った笹草刑事なら助けになってくれるかもしれないが、彼がどこに住んでいるのかも僕は知らない。そもそも、現実世界の人間とまともにコンタクトが取れるとは思えない。

他に……。

他に誰かいないのか?


僕と違ってある程度常識のある人間……ああそうだよ。この際認めてやるよ。僕の考え方は異端だ。常識的じゃない。これで満足か? くそったれ。

昔はどうやったら変人になれるのかと、それだけを考えて行動していたのに、いざ変人になると今度は普通になりたくなる。人間の業というのは本当に根深い。

せめて僕が、何の変哲も無い人間だったら……


「ねぇ、ちょっと変哲無(へんてつなし)ぃ」

「はいはーい。なんでしょうか~」


僕は目を見開いた。

思わず顔を上げ、先ほど耳に入って来た会話の主を見つける。


「アンタさぁ、すげーうざいんだけど」

「えぇ~。そんなこと言わないでよ~。割と傷つくんだけど~」


貶されているにも関わらず、彼女はにこにこと笑っている。

セミショートの髪型で、もみあげの部分がくるんと弧を描くように跳ねている。

僕は立ち上がった。


「じゃ、あの真似やってよ。アンタの十八番。今話題の『プリンセス魔法少女ルキア』の決めシーン」

「別に十八番ってわけじゃ……」

「やるの!? やらないの!?」

「ぷりぷりプリンセス~。私が魔法少女ルキアだよ。きゃるんっ♪」


キレ良く身体を回転させていたかと思うと、両手を広げて彼女は飛び跳ねる。

彼女はちょうど僕の目の前で着地した。


「……」


鼻先数センチのところで、僕達は硬直したまま、しばらくの間見つめ合っていた。


「あ、私ちょっと用事思い出したから──」

「待て」


逃げようとする彼女の腕を僕は掴んだ。


「君、変哲無さんだよね。変哲無さんだよな。そうだよな?」

「な、なんのことですかぁ? 確かに私、変哲無ですけどぉ……」


目が泳いでいる。

この徹底したことなかれ主義。間違いない。

以前の事件で共に巻き込まれた、あの変哲無乙女(へんてつなし おとめ)さんだ。


「誰と間違ってるのか知りませんけど、私がその変哲無だという証拠でもあるんですかぁ?」

「……そうだな。まったく証拠なんてなかった。僕の勘違いだ。ごめん、一見無さん」

「変哲無です」


あ、と彼女は声を漏らした。


「やっぱり! その冷めた口調とツッコミをいれるタイミング。どう考えてもあの変哲無さんだ! なんで君がここにいる!? というか君は前の事件で──」


彼女は慌てて僕の口を塞いだ。


「も、もうしょうがないですねぇ~。ちゃんと勘違いだって教えてあげますから、ちょっとこっちに行きましょうね~」


そう言って、彼女は僕を引っ張って教室をあとにした。


◇◇◇


屋上に着くと、ようやく変哲無さんは僕の手を離した。


「どういうことだ?」

「はあ? それはこっちのセリフです」


こちらに振り向き、腕を組み、舌打ちしながら見下すような視線を送る。

弱気なのか強気なのか、相変わらずよく分からない人だ。


「せっかく私が何の変哲も無い高校生活を送ろうとしてるのに邪魔するなんて、ありえませんよ」

「ありえないというのなら、君の存在もこの世界そのものもありえないよ。とにかく、ちゃんと説明してくれ。なんで君がここにいる?」


髪の跳ねた部分に指をくるませながら、変哲無さんはそっぽを向いた。


「……さあ?」

「さあって……」

「知らないものは知らないんですからしょうがないじゃありませんか。あなただって、どうしてこの世界にいるのか説明できないでしょう?」


む……。確かにそうだが。


「じゃあ記憶だ。君はどこまで記憶がある?」

「それ、教える必要あります?」


白々しい態度で、彼女は言った。


「私はあなたと共闘した覚えも友達になった覚えもありません。何かを知っていたとして、あなたに教える必要もありません」

「いいのか? この世界ではどうやら僕は主人公らしいぞ。君の変哲の無い高校生活を、一見すると何の変哲も無いように見えて実は非日常溢れる高校生活にしてやれるぞ」


今度は変哲無さんが、ぐ……、と口ごもる。


「ひ、卑怯ですよ」

「まあそう怒るなって。喧嘩がしたいわけじゃない。君もここから出たいだろ? なにせ、ここは日常とはかけ離れた場所なんだから」


変哲無さんは何よりも変哲の無い日常を望む。

ならばこの世界は彼女にとって苦痛のはずだ。

変哲無さんは、じっと睨むように僕を見つめていたかと思うと、ため息をついた。


「分かりました。分かりましたよ。協力すればいいんですね」

「さすがは変哲無さん。話が分かる」

「私の何を知ってるっていうんですか……」


ぶつぶつと文句を言っているが、とりあえず僕は無視した。


「まず最初に聞きたい。君はどこまで知ってる?」

「なにも」

「なにも、とは?」

「あなたが知りたいようなことはなにも、ということです。いちいち面倒くさい人ですね」

「……じゃあさっきも聞いた記憶は? どこまで覚えてる?」

「よく覚えてませんよ。前にも何か異常なことに巻き込まれたこととか、そこでありえないくらい恐ろしい目に遭ったこととか、そのくらいです。そのこと自体、なんだか夢のような気がしていて、どっちが現実なのか未だによく分かっていませんけどね。さっきあなたを見つけて、ようやくここが異常なんだと気付いたくらいです」


ある種の記憶喪失みたいだが、それ以外はほとんど僕と同じ状況らしい。

前回でも、彼女は割と都合の良いモブキャラとして存在していた。

主人公には決して逆らわず、状況によっては非凡な能力も見せる。物語を効率良く進めるためには必須の存在といっても過言ではない。

呪いが生み出す文字通り空想のキャラクター。もしかしたら、そういう存在なのかも……。


ちらと変哲無さんを見ると、彼女は小首をかしげている。

この仮説は、彼女には話さない方がよさそうだ。まさか自分が、彼女の大嫌いな変哲のあり過ぎる存在そのものだったなんて知ったら、発狂しかねない。


「なるほど。事情はよく分かった」

「あれ? あっさり信じるんですね。自分で言ってて胡散臭いなと思ってたんですけど」

「それを言ったら僕も同じだからね。自分自身が犯人という可能性も考慮している僕からすれば、十分信頼に値するよ」


僕は壁に背を預けて、その場に座った。


しかしよかった。

知った人間と会話することで、恐怖が抜けてきた気がする。この場所が異常だということを他人を通して再認識することも、気持ちが楽になった要因の一つかもしれない。

今までずっと一人でもいいと思って生きてきたが、こんな場所で他者の存在をありがたがることになるとは思ってもみなかった。


僕の心境など知るはずもない変哲無さんは、不思議そうにしながらも僕の隣に座った。

沈黙が流れる。

ジョーさん以外の人間と黙って過ごすなんて苦痛でしかないと思っていたが、彼女との沈黙は、割と居心地が良かった。


「……いちごオレが飲みたい」

「なんですかそれ?」

「あの至高の飲み物を知らないのか? 人生損してるな」

「いや知ってますけど。なんでこのタイミングで?」

「どのタイミングでもいいだろ。飲みたい時に飲みたいと言ってるんだから。それより変哲無さんさ。その敬語やめてくれない? 一応同級生だろ」

「なんであなたにそんなこと強制されなくちゃいけないんですか」

「まあ、そうだな」


僕達は再び黙った。

ちらと彼女を見ると、ぼーっと屋上からの風景を眺めていた。

自分から積極的に話す気はないが、かといって拒絶するわけでもない、ということか。


「あの名探偵のことは覚えてる? 君も色々と振り回されていたけど」

「……ええ。嫌というほど」


本当に嫌そうに、変哲無さんは言った。


「……またあいつが犯人ということはないのか?」

「また?」


そうか。

彼女は事の顛末を知る前に──。

僕は咳払いした。


「そうだな。仮に何でも願いが叶う魔法のランプがあったとしよう。そのランプの願いで彼女は名探偵になっていた。だから彼女の行くところでは殺人事件が起こり、彼女の推理はどんな荒唐無稽なものでも正しくなる。それが、この世界にも丸々当てはまるんじゃないかって話だ」

「……よく分かりませんけど、あの探偵さんが、魔法のランプで今度は別のお願いをした、ということですか?」


僕は頷いた。


「滅茶苦茶な話だけど、彼女が犯人なら筋は通るんだ。妙にテンプレートな展開を踏襲するところも、読者に優しい名前をつけるところも、非常に似通ってる。彼女なら僕に恨みを持っていてもおかしくは──」

「そうなんですか?」


じっと、変哲無さんは僕を見つめながら言った。

僕は彼女の最期を思い出した。

僕を助けて、笑って逝った彼女のことを。


「……いや、ありえない。彼女は絶対に犯人じゃない」


我ながら根拠のない話だと思う。

だと思うが、不思議なことに、僕は本気でそれを信じることができた。

彼女は犯人じゃない。絶対に、犯人なんかではない。


「勝手に自己解決してないで、ちょっとは私にも教えてくれません? そもそもこの世界が何なのか、異常ということ以外私にはまるで理解できてないんですよ」


そうだった。

彼女は僕と違って、あのゲージが見えないのだ。何も理解できなくて当然だろう。


僕は全てを説明した。

僕がこの世界の主人公であること。

ヒロイン候補が五人いて、それぞれにゲージがあること。

僕の好感度が下がるとゲージも下がること。

そして、時間になると訪れる『いらない選択肢』のこと。


「……なんですかそれ。滅茶苦茶怖いんですけど」


彼女は青ざめた様子で身震いしていた。

どうやら完全に僕の言っていることを信じてくれているらしい。

以前の世界でも、彼女は無意識化で物語のルールを把握している様子だった。これもモブキャラの一つの特性なのだろう。


「私、ヒロインじゃなくてよかった……」


彼女は心底ほっとしている。

もし彼女がヒロイン候補だったなら、リスクを考えて何も行動せず、走流乃のように最初の選択肢で死んでいたことだろう。


僕はそんな変哲無さんの様子を、じっと観察していた。

僕の想定通り、彼女が主人公をアシストする役割なのだとして、犯人は何故彼女を送り込んだのだろうか。

何か意図があるのか。

それとも、彼女は呪いと共についてくる付属品のようなもので、犯人にも制御不可能なのか。


……分からない。

そして、考えても分からないことは考えないのが僕の主義だ。犯人の意図があったとしても、しばらくの間は動きを見せずにこちらの信頼を得ようとするはず。

だったら今の内に、使えるものは使っておこう。


「実は今困ってる」

「はあ?」


彼女は心底嫌そうな顔をした。


「……君、僕に協力してくれるんじゃなかったの?」

「さっきの話を聞いて気が変わりました」


前言撤回。

彼女は変哲無さんだ。犯人の意図などあろうはずがない。間違いなく、彼女は変哲無さんだ。


「隣家への選択肢で下手を踏んだんだ。それをなんとか帳消しにしたい。協力してくれ」

「い・や・で・す! 赤の他人がどうなろうと私は知ったこっちゃないんです! こっちはね。自分の命を守るだけで精一杯なんですよ! ……あ~、なんとなく思い出してきました。そうやって言われるがまま成すがままに行動した結果、凄く酷い目に遭った気がします。故に、私は協力しません!」


くそ。

前回の事件が妙なトラウマになって残ってしまっているな。

僕がどうやって言い包めるか考えていると、変哲無さんが不思議そうに聞いてきた。


「というか、なんであなたはそんなに頑張るんですか?」

「え?」

「この世界を作った……犯人? ですか? その人物は、あなたに恋愛ゲームの主人公みたいなことをさせたがっているんですよね。だったらそれ、無視しちゃったらいいじゃないですか。少なくとも、それで犯人の思惑からは外れるわけです。犯人の目的があなたの命ならどっちにせよ死んじゃいますし、それなら犯人に背いた方がいいじゃないですか。『いらない選択肢』だって、危険に晒されるのは今のところそのヒロイン候補達だけですよね? だったら──」

「駄目だ」


僕はきっぱりと言った。


「絶対に、それは駄目だ」


僕は物語の主人公を任されるような人間ではない。周りを引き込む求心力や行動力なんて欠片もないし、どんな状況でも大切なものを忘れない確固たる道徳心なるものを持っているわけでもない。


僕にあるのは二つの自覚だけだ。

僕がジョーさんを支える端役であるという自覚。そして、作家であるジョーさんには救えず、僕なら救える人間がいるという自覚。


作家にとって、物語の主人公は何よりも救済されるべき相手だ。そのためならモブキャラも、あるいはその主人公さえも、彼らは切り捨てることができる。

僕の役目はジョーさんに足りない部分を埋めること。なら彼女が切り捨てざるを得ない人間を拾い救えるのもまた、僕だけだ。

ジョーさんにもできない、僕だけの仕事なのだ。


だから、たとえそれがどんなテンプレートな人格でもどんなモブキャラでも、彼らを救えるのなら、僕は全力で彼らを救う。

それが、以前の事件で僕が固めた決意だ。


変哲無さんは返答を聞くと僕から目を逸らし、どこかすねたような、どこかうれしそうな、よく分からない表情で「そうですか」とだけ言った。


なんとなく、あともうひと押しな気がする。

僕が再び説得しようとした時だった。


ドガ


妙な音が聞こえてきた。


「……何の音だ?」

「さあ」


そんなやりとりをしている間も、ドガ、ドガ、と、まったく音が止む気配はない。

一定の間隔で聞こえるそれが何なのか分からず、二人で辺りを見回していると、どうやらそれが校舎の下の方から聞こえて来ることが分かった。

僕と変哲無さんは、そろりと下を覗いてみる。

ちょうど校舎の裏側に位置するその場所は、まったく人通りがなかった。

そんな場所に、隣家がたった一人、校舎に向かって立っていた。


ドガ!


そんな音をたてて、彼女の拳がコンクリートの校舎に突き刺さった。


「なんで! なんであたしの方を向いてくれないの!! あたし、こんなに尽くしてるのに! こんなに頑張ってるのに!!」


ドガ! ドガ! ドガ!


拳から血が出ていることにすら気付かないようで、一心不乱に校舎を殴り続けている。


「……そっか。あいつの周りに女の子がたくさんいるのがいけないんだ。クラスの女の子があたし一人になったらあたしを見てくれるかな? 見てくれるよね? きっとそうよね」


ドガ! ドガ! ドガ!


隣家は無言で拳を叩きつけている。

こっそりと顔を引っ込め、僕と変哲無さんは互いを見合わせた。


「……なんとかしましょう」

「そうだな。なんとかしよう」


あのままじゃ、ヤンデレルートに突入してクラス全員皆殺しにされかねない。

計らずも、変哲無さんと利害が一致した瞬間だった。


◇◇◇


高校の授業を受けるのは、実に七年ぶりのことだった。

ほとんど学校に行かなかった僕だけど、行った時は夢中で勉強していたから、何故か教師の評価が高いという訳の分からない逆転現象が起きていたのを思い出す。それ故に家では全然勉強していないことが発覚した時の教師たちの落胆ぶりには、なかなか面白いものがあった。勝手に期待して勝手に落胆する様子は、評価というものの曖昧性と残酷さを表していると思う。


僕にとって、ヒロイン候補達の好感度はまさしく評価そのものだ。

正しい選択肢であるかどうかの保証など何もないし、ゴールに到着するのが長引けば、死人は増えていく一方。

全てが曖昧で、果てしなく残酷な恋愛ハーレム。


しかし先の例から考えても、好評と悪評は表裏一体だ。つまり、こちらがコイントスさえしてやれば状況は変わるのだ。


授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、早速僕は隣家のところへ向かった。


「……なに?」


彼女はそっけなかった。

先程、僕に対する恨みつらみを拳に込めて放っていた人物とは到底思えない。


「僕に言いたいことがあるんじゃないかと思って」

「別にないけど」


じゃあその手の怪我はなんなんだ、と問い詰めたくなったところで、変哲無さんの言葉を思い出す。


『いいですか? そっけない態度を取られても、反論せずにひたすら耐えてください。どれだけ拒絶していても、女の子はいつだって自分の気持ちに気付いてほしいんです。壁を作るのは、それを乗り越えて欲しいから。それだけ自分が大事にされていると感じたいんですよ』


気付いてほしいなら譲歩すべきだろ、とか、いくらなんでも受動的過ぎやしないか? などと色々と言ってみたが、変哲無さんに全て一蹴されてしまった。

仕方がない。協力して欲しいと言ったのは僕なのだ。彼女の助言を無視するのは論理的じゃない。

反論したい気持ちをぐっと堪え、僕はひたすら耐え忍んだ。


「……だいたいあんた、さっき変哲無さんと一緒だったじゃない。彼女と仲良くしてあげれば?」


め、面倒くさい……!

恋人の態度ならまだ理解できるが、片思いのくせしてここまでふてぶてしい態度を取れるのは一体なぜなんだ? こいつの頭の中では既に僕とは恋人同士なのか?

もしそうなら、彼女は今すぐその想像力を活かして作家になるべきだ。


僕がどうやって言い訳しようかと考えていた時だった。


「あ、ダイさん。さっき相談に乗ってた隣家さんのことですけど……」


変哲無さんは振り向いた隣家の顔を見て口を手で抑え、「失礼しました……」と小声で言って教室をあとにした。

隣家を見ると、にわかに顔が赤くなっている。


う、うめえー!!

さすがは僕が一見無と名付けただけある。

恋愛のエキスパートだ!


「あ、あたしのこと、話してたんだ……」


見るからにもじもじしている。

ふと教室のドアを見ると、変哲無さんの手だけが伸び、悠然と親指をたてていた。

くそ……! なんて良い女なんだ!! 今すぐ走って行って抱きしめてやりたい!!

しかし今は目の前の隣家だ。

彼女のナイスアシストに応えるためにも、ここで外すわけにはいかない。


「……まったく。言うなって言っておいたのに」


僕はおおげさにため息をついてみせた。


「なぁ隣家」

「は、はい!?」


彼女の声は若干上擦(うわず)っていた。


「僕のこと、怒ってるか?」

「……ええと、その……」


彼女は指を絡ませ、視線を這わせている。


「当然だよな。ちゃんと質問に答えられなかったんだから」

「そ、そんなことない!」


隣家は慌てて言った。


「あ、あたしも……あの時は、ちょっと急かし過ぎたと思う」


謝れ!

僕は逸る気持ちを押さえつけながら、心の中で叫んだ。

ここで彼女が謝れば、さっきの選択肢を帳消しにできる。


彼女がゆっくりと口を開く。

よし、来い!!

僕は握り拳を作り、その時が来るのを待った。


「……ごめngh」

「え?」


ぞっとした。

彼女の一方の口角が、ぴくぴくと吊り上がっている。

まるで見えない釣り糸で上から吊るされているような歪な顔だった。

目は白目を向き、口はゼンマイ仕掛けのロボットのようにガクガクと不規則に開閉している。


「ご、ご、ごg、めめめm、ごごめnghts」


ぴたりと、彼女は止まった。


「……でもやっぱり、あんたのこと許せないよ」


先程までの異常などなかったかのように、隣家は悲しそうに俯いている。

僕は心臓の音を抑えるのに必死だった。


「……じゃあね」


隣家はそう言うと、そのまま去って行った。

情けないことに、僕は彼女を引き留めることはおろか、声一つあげることができなかった。


◇◇◇


「滅茶苦茶怖かった」


昼休み。僕と変哲無さんは再び屋上に集まった。

彼女は自前の弁当を食べながら冷ややかな目で僕を見ている。


「はっきり言って、死体なんかよりよっぽど恐ろしい。君があの場にいなかったのは不幸中の幸いだよ。いたら絶対に失神してた」

「ふうん……」


もぐもぐと白米を噛みしめながら、変哲無さんはそっけなく言った。


「君、信じてないな? あのまま隣家に呪い殺されるんじゃないかと思ったくらいだぞ」

「それが怖くて、私の協力も全てふいにしてしまったと」


ぐ、と僕は口ごもった。


「だ、だから、あれはもう規定路線だったんだ。選択肢で決められたルートから外れることは不可能なんだよ」


その時、突然ぷっと彼女は吹き出した。


「別に怒ってないからもういいですよ。あなたの慌てふためいた顔が見たかっただけです」


僕は茫然とした。

なんて性格の悪い奴だ。僕だって結構いっぱいいっぱいでやっているというのに。


「いやぁ、あなたも人に責められて狼狽することがあるんですね。そういうの、全然気にしない人かと思いました」

「……変にへそを曲げられても困ると思っただけだよ」

「はいはい。そう受け取っておきますよ」


くそ。なんなんだ、この全て見透かされているような感じは。


「それでどうするんです? 許されないことが既定路線なら、もう彼女はオトせませんよ?」

「それだけならまだいいんだけどね」


今はまだ黙々と壁に拳を叩きつけるだけだが、いずれその暴力性が他者に向けられることになるだろう。

そうなれば、本格的にヤンデレルートへ突入だ。


「やっぱり、隣家さんは放っておいて、他の子をオトすしかありませんかね」

「……できれば、それはしたくない」

「何故です?」

「彼女が今のところ、真のヒロインに一番近い存在だからだ。このゲームのクリア条件は、たぶん真のヒロインをオトすこと。そう考えた場合、他のヒロイン候補をオトすのはリスクが絡む」


真のヒロインをオトすことがクリア条件なら、ヒロインではない女性をオトすことは、おそらくゲームオーバーを意味する。

その可能性を考えれば、軽々に動くのは得策ではない。


「それって隣家さんが犯人、ということですか?」

「分からない。犯人が『いらない選択肢』で選ばれる危険を冒す理由はないから、むしろヒロイン候補に犯人はいない可能性の方が高い」

「犯人ではないけどヒロインで、彼女をオトすことがゲームクリアに繋がると。ちなみに彼女が真のヒロインである根拠は?」

「ないよ。単純に僕のことを最初から知っていて、かつ一番僕を気にかけていたヒロイン候補だというだけだ」


最初から僕を知っていた人間がヒロインであるならば、暴力彩芽も当てはまるわけだし、どうしたって推測の域を出ない。

だが……


「可能性は高くなくとも、現状そう考えられる要素を持っているのは彼女だけ、ということですか?」


僕は頷いた。

他のヒロイン候補とは接点が少な過ぎて、真のヒロインであるという推測もたてられない状況だ。

告白のチャンスが一度きりの可能性がある以上、少しでも期待値の高いヒロイン候補を選ぶべきだろう。


「とは言っても、結局隣家はもうオトせないわけだから、ゲームオーバーになる可能性が高くても、他のヒロイン候補をオトしにかかるしかないんだけどね。その前に、一つ試したいことがあるってだけだ」


変哲無さんは眉をひそめる。

しかし、すぐにそっぽを向いてみせた。


「ま、私は別にどっちでもいいですけど。妙なことに巻き込まれさえしなければ」


相変わらず、彼女はマイペースだ。

普段の僕なら、彼女と同様マイペースに動くところなのに。

僕は小さく息を吐いた。


「……お疲れですか?」

「まあね。よりにもよって、一番不得手なジャンルの主人公をやらされてるんだ。疲れないわけがない」


リアルでもフィクションでも、恋愛の経験があまりに少ないことも影響しているのだろう。

どうすればいいか分からないという状況がストレスを呼び込んでいるのは、否定しようのない事実だった。


「僕は常々、何故ハーレム漫画の主人公は気のない女子をさっさと振ってやらないのかと思っていた。だがこの呪いに巻き込まれて理解したよ。確かにこれは、振るわけにはいかない」

「まあ、振った瞬間血を吐いて死ぬハーレム漫画なんて見たことありませんけどね」


変哲無さんはそう言って水筒のお茶を上品に両手で持って口をつけた。


「じゃあ今日は部活はなしですか?」

「え?」

「部活ですよ。あなた、文芸部でしょ?」


文芸部……?

僕はその時、ふとあの名探偵のことを思い出した。確か彼女も小説を──


「どうかしました?」

「え? あ、ああ。僕って文芸部なの?」

「そうですよ。中学からずっとここの文芸部一筋だったんでしょ?」


だったんでしょ、と言われても、この学校が中高一貫だったということも今初めて知ったくらいだ。


「覚えてないんですか? 体育館で部活紹介してた時、一人だけ異様にはりきってたじゃないですか。このままだと部員が少なすぎて廃部になるって言って。未だに部員は、部長の暴力さんと隣家さんだけですけど」

「ちょっと待て。それはいつの話だ?」

「え? 高校に入学してちょっとしたくらいだったと思いますけど」


そこで初めて、変哲無さんも異変に気付いたようだった。


「……あなたっていつからこの世界に?」

「今日だ。今が何月何日か知らないけど、少なくとも僕自身は部活の紹介なんてしていない」

「おかしいですね。……そういえば、私もずっとあなたと同級生だったわけですもんね。どうして今日に限って、私はあなたを──」

「本物がいるんだな?」


変哲無さんが僕を見た。


「この身体の本当の持ち主がいるんだな?」


茫然と僕を見つめていた彼女が、困惑したように視線を這わせる。


「えと……よく分かりません」

「ごまかさないでくれ。重要なことだ」

「ごまかしてません! 本当によく分からないんです。私がここに来てからの記憶は高校に入学してからです。それまであなたとはずっとクラスメートでした。話をしたことはありませんでしたが、それは間違いありません」


彼女はこの世界におけるモブキャラクターだ。

おそらくこの世界を形作る基本的な情報が記憶という形で頭の中に入っているのだろう。

つまり、僕がこの世界にやって来る前の記憶を彼女は“覚えている”。

しかし、それは全てねつ造なのか? この身体も、あの部屋も、そしてこの学校も、全て偽物なのか?


「あの、それでどうするんです? 部活は……」

「やる」


僕は即答した。


「僕の推測が正しければ、今日部活をすることで文芸部は存続することになる」

「え? それって……」


僕は立ち上がった。

ようやく僕向けの方向に話が進んで来たらしい。


「とりあえず、僕と変哲無さんはあまり接点を持っていると思われない方がいい。普段はお互いにスルーし合って、昼と放課後はここに集まることにしよう」


それだけ言って、僕は一足先に歩き始めた。


「あ、ちょっと! どこ行くんですか!!」

「調べものする時に行く場所なんて、決まってるだろ?」


僕はさっさと屋上をあとにし、図書室へと急いだ。


◇◇◇


図書室のドアを開けると、そこには誰もいなかった。

既に授業は始まっている。

教師がいれば面倒だなと思っていたが、これは好都合だ。


中に入って適当にうろうろしていると、新聞が閲覧できるスペースを見つけた。

有名な新聞社のものが並ぶ中、一刷の地方新聞を見つける。


全てがフィクションのこの世界で、わざわざ地域を限定するような要素を持ち出す意図は何か。

僕は生徒手帳を取り出した。

初めてきちんと確認したが、学校名を中竺(なかじく)高校というらしい。

あれほど分かりやすいネーミングに拘っていたこの世界の主にしては普通の名称だ。


僕は再び新聞を確認した。

上欄にはちゃんと日付が書かれてあった。

2016年6月17日。


僕は自分の部屋から持って来ていたスマホを取り出し、電源を入れた。

日付の部分にモザイクがかかっている。ネットに繋ごうとしたものの、何故か圏外だった。


確定情報ではないのがむず痒いところだが、どうやら6月17日というのが今日の日付らしい。

実際の日付とは少しだけ開きがある。だいたい半年くらい、現実の世界の方が進んでいる。

この日に何か意味があるのか?

新聞の内容に特に変わったものはない。さすがにこの日の新聞を実際のものと比較することはできないが、おそらく現実のものと変わらないだろう。


今度は別の場所を探して、中竺中学校の卒業アルバムを見つけた。

どうやら僕は高校一年生らしいので、最新の卒業アルバムを手に取る。

クラス写真を見ると、今のありえない男女比率ではなく、ちゃんと男子もいた。

同性愛の毛はないつもりだが、これだけ女子に囲まれていると、男子に恋い焦がれるような感情を抱いてしまう。ここに映っている男子一人だけでもいいから、こっちの世界に招き入れたい気分だ。

クラス写真をぱらぱらと確認していき、ぴたりと止まる。

僕は思わず苦笑した。


「……これがお前の本当の姿ってわけか」


そこに映っているのは、紛れもなく自分だった。

正確には、この肉体そのものだった。

背中で隠すように、こっそりと両隣の男子とスクラムし、にこやかに笑っている。朗らかで、おそらくユーモアのある人物なのだろう。きっと周りの人間からも好かれていたに違いない。

個人写真が掲載されているページで彼を見つけ、名前の欄を読み上げる。


「小早川裕也」


それが僕の身体の本当の持ち主であり、おそらく今回の呪いの……


その時、図書室の奥から、がたがたと音がすることに気付いた。

僕以外に人はいないと思っていたのだが、どうやら思い違いだったらしい。

特に何の気もなく、僕は音の方へと移動した。


そこには、背丈の小さな女の子が、分厚い本を高い棚の上に戻そうと悪戦苦闘している姿があった。

ボブカットで、いわゆる萌え袖といわれるブレザーの着方をしている。おそらく意図したものではなく、物理的にああなってしまうのだろう。


既に授業が始まっていることを考えても、彼女はずっとああやっていたに違いない。

長くジョーさんを見ていた僕には、彼女の気持ちがよく分かった。

ジョーさんが高校生の頃だ。塾があるからと部活を早引きしたのはいいが、部室のカギをうまく締められず、悪戦苦闘している間に部活が終わった部員達と鉢合わせしたことがあった。

あの時は僕も未熟だったため、涙目になって逃げ帰るジョーさんを助けてあげることができなかった。

……くそ。嫌なことを思い出した。

僕がタイムマシンを手に入れたら、何を置いても真っ先にあの時の過去を改変しに行くだろう。


僕は黙って彼女に近づき、その本を棚に戻してやった。

その子は急な僕の出現に驚いたようだった。


「きゃっ!」


バランスを崩し、何故か尻餅をつくくらい。

頭を少し打ったのか、彼女は痛そうに自分の頭部を摩っている。


「大丈夫か?」


僕は彼女を見下ろしながら言った。

主人公と呼ばれる人間なら、彼女が倒れる前にその身体を支えてやったことだろう。しかし普段から反射神経を鈍らせている僕には、そんなこと不可能だ。


ふと、彼女のスカートが大っぴらに捲れていることに気付き、僕はしまったと思った。


「馬鹿ーー!!」


小さな身体から放たれた分厚い参考書の角が、僕の頬に突き刺さった。


「あなた最低! 人のスス、スカートの中を覗──」

「ふざけるな!!」


びくりと、彼女の肩が震えた。


「僕はな。平穏で静かな日常を送りたいんだ。ハーレム? ラッキースケベ? 男が皆そんなものを求めてると思ったら大間違いだ!! そんな下品なもの、僕の世界には必要ない!! 必要ないんだぁ!!」


思わず出た本音だった。

しかし自分で自分の言葉を反芻し、僕は自分の失言を認めざるを得なかった。

いくら理不尽なラッキースケベに僕自身が巻き込まれているからといって、実際に彼女のスカートの中を覗いてしまったのは事実なのだ。そこをおざなりにして怒り叫ぶのはフェアじゃない。

彼女は茫然としながら口を開いた。


「……なんか、ごめん」


……本気で語れば人は理解してくれるのだということを、僕は初めて実感した。

手を取って助け起こしてやると、彼女は俯いたままその場に佇んでいた。


「……もう本は戻せたんだから、早く行ったらどう? 授業、始まってるけど」

「……わたしにだってできた」

「何が?」


彼女は、キッと僕を睨んだ。


「助けてもらわなくても、本を戻すくらいわたしにだってできたって言ってるの!」


じっと、僕は彼女を見つめた。

意地でも食い下がってやると言わんばかりの強気な睨み方。僕に気付かれないように、少しだけ背伸びをしている。


「自意識過剰な奴だな」


彼女は一瞬だけぽかんとした。


「は、はあ!? 誰がなんですって!?」

「誰もお前のことなんて気にしていない。なのにお前は、“自分が”助けてもらったことを気にしてる。自分を意識してもらってると勘違いしている証拠だろ?」

「そんなんじゃない! だってみんな、わたしが困ってたら小さいからとかなんとか言って──」

「僕は僕がやりたいように行動しているだけだ。背が小さいだって? 知るか。そんなことで僕を煩わせるな」


彼女は茫然としていた。

どうやらこいつは、自分のしたことを分かっていないらしい。


「仮に困っているのが背の高い男子生徒だったとしても、僕は同じように助ける。お前のそれは、僕が女の子しか助けない狭量で下心満載な男だと言っているのと同じだ。それは僕の名誉に関わる。二度と言うな」


先程から、妙に険のある言葉を使ってしまっている気がする。

どうやらジョーさんの過去を思い出し、知らず興奮していたのだろう。少し口が過ぎてしまった。

僕はさっさとその場を去ろうとした。

しかし、彼女に裾を引っ張られて思わず止まる。


「じゃあどうして他人を助けることが『やりたいこと』なのよ! そうやって優越感に浸りたいからでしょ!?」

「何言ってるんだ? そっちの方が幸福度指数が高くなるだろ?」

「……は?」


僕はため息をついた。


「いいか、よく考えろ。君はこの本を棚に戻すのに五の労力が必要だった。対して僕はせいぜい一か二だ。つまり僕が君を助けたことで、人類全体で見た場合の苦労は減り、幸福度指数が上がったわけだ。だったらそっちの方が効率が良い。小学生でもわかる算数だろ?」

「……で、でもあなたは二の労力を無駄に使うわけでしょ。それだとあなた自身は損じゃない」

「そうだな」


僕は考え、ふっと笑って三本の指をたてた。


「三だったら、スルーしてたかな」


突然、彼女の顔が赤くなった。


「あ、あ、あの……わたし帰るから。い、一応礼だけ言っとく。じゃ、じゃあ!!」


すごい勢いで、彼女は逃げるように去って行った。

なんなんだあいつはと思って、再び彼女の後姿を見た時だった。

あ、と僕は思った。

彼女の真横には、ヒロイン候補であることを指し示す、あのゲージがあったのだ。


◇◇◇


「狂犬実仁(きょうけん みに)ちゃんですね」


図書室での出来事を話すと、変哲無さんがそう教えてくれた。

これまた分かりやすい名前だ。


「隣のクラスなんですけど、ちっちゃくてかわいい容姿と強気な発言のギャップにやられる女子が多くて、割と人気者なんですよ。負けん気の強い子なんでタフだと思われてるのか、みんなよく小さいことをからかうんですけど、やっぱり気にしてたんですね」

「やっぱりって、気づいてたのか?」

「そりゃあそうでしょ。私の危険センサーがバチバチいってましたから」


相変わらず、リスクにだけは敏感な人だ。


「つまり、背丈のことを気にしない僕に彼女は惚れてしまったと」

「そういうことですね。それにしてもなんですか、そのセリフ? 三だったらスルーしてた? こんなのでオトすなんて、実仁ちゃんが不憫でなりませんね」

「そんな辛辣な言葉を浴びせられる僕の方が何倍も不憫だよ」


別にこっちはオトす気で使った言葉じゃないんだ。

多少ロマンチックさに欠けるのは仕方がない。


「それに、たぶんこれもお約束なんだ」

「お約束?」

「ああ。ここに来てから、時々妙に表情筋が緩んだり、浮ついたセリフが口から出たりするんだ。おそらくこの場の空気がそうさせるんだろう」

「……それって、洗脳されてるってことですか?」

「いや、あくまでもノリレベルの話だ。酒の席で気が緩んでトラウマの一つも吐いてしまうような気分、といったら分かりやすいか?」

「んー、まあだいたい理解できました」

「おそらく実仁も同じだろう。ハーレム漫画でよくある何気ない一言や行動で相手を好きになるというエピソード。それを僕風に改変した場合、ああなった」

「最悪ですね」


……この人は本当に辛辣だな。


「というか、なんで私がここにいるんです?」


そこは文芸部の部室だった。

真ん中に長テーブルが置かれ、部屋の周りを本棚が囲んでいる小じんまりした部屋だ。

変哲無さんが、じっと僕を見つめている。

僕は表情を変えずに言った。


「保険」

「はあ!? あなたふざけてるんですか!? なんの保険だか知りませんけど、そんなものに協力する気なんてありません! 帰ります!!」


彼女は勢いよく席を立った。


「待ってくれ! 悪かった!! 言い方が悪かった!! ヤンデレルートに入った隣家と二人きりになるのは得策じゃないと思っただけなんだ!!」

「だから知りませんよ! 私のいないところで勝手に刺されてください! 私を巻き込まないでください!!」


僕が彼女の手を掴み、必死で弁明していた時だった。


ガラリ

部室のドアを開けて入って来た隣家が、ちらとこちらを一瞥し、何も言わずに椅子に座った。


「……き、来てくれたのか、隣家。彼女は文芸部の入部希望者──」

「なんかじゃありませんので、お二人で仲良くしてくださーい♪ それでは」


さっさと帰ろうと部室をあとにした変哲無さんを、僕は慌てて追いかけた。


「分かった。白状する。ちゃんとはっきり、自分の気持ちを言う」


そう言うと、ようやく変哲無さんは歩みを止めてくれた。


「今の隣家と一緒にいるのは、その……怖いんだ」

「……は?」

「君はあれを見てないからピンときていないんだ。いつまたあんな恐ろしい顔でこちらを見つめられるかと思うと……」

「え、ちょっと待ってください。私に居て欲しいって、ただ怖いからですか? 二人なら襲われる可能性が減るとか、そんなんじゃなく?」


僕は頭を掻いた。

腕を組み、天井を見上げ、熟考に熟考を重ねた後に彼女と向き合い、こくりと頷いた。


「ぶはっ! アハハハハ!!」


変哲無さんは爆笑した。


「保険とか言って! カッコつけて! 挙句それですか!? アハハハハ!!」

「人間が恐怖心を抱くのは一種の防衛本能だ。恥ずかしがることじゃない」

「アハハハハ!! 恥ずかしがって今まで言えなかった癖に! アハハハハ!!」


僕の顔が俄かに熱を帯びてくる。

これはあれだ。怒りの感情だ。

決して恥ずかしさからくるものじゃない。恥なんていうものは、下らないプライドから派生するものだ。僕がそんなものに囚われているはずがない。


そんなことを自分に言い聞かせている時だった。


「「「あの」」」


突然そう言われて、僕は振り向いた。

そこには、互いに不思議そうに顔で見合わせている三人の女子がいた。

大人シ読子、茶倮茶倮不良絵、そして狂犬実仁の三人だ。


「……もしかして、三人とも入部希望者?」


三人は困惑しながらも、三者三様に頷いた。

ビンゴだ。

この予測が的中したということは、僕の仮説が現実味を帯びてきた証拠だった。

ようやく、この呪いの目的とゴールが見え始めた。


「分かった。じゃあ部室に案内するよ。“四人”とも」


こっそり逃げようとする変哲無さんの腕を掴み、僕は精一杯の笑顔を作ってそう言った。


◇◇◇


部室の中は険悪な空気に満ちていた。

ヒロイン候補達が互いを警戒して終始無言を貫いている。何かほんのちょっとしたことがきっかけで、暴動が起きるんじゃないかと思うくらいだ。

そして、それ以上に変哲無さんが居たたまれない顔をしている。何よりも平穏を望む彼女からすれば、この空気は地獄そのものだろう。


「てかさ。ここって普段なにしてるわけ?」


スマホを弄りながら、不良絵が言った。

隣家が顎に手をやって天井を見やる。


「まあ、普段は読んだ本の感想を言い合ったり、小説を書いたりとか?」

「げ……。マジ? めんどくさ」

「……あなたさ。なんでこの部活に入ったの?」

「そりゃ……」


ちらと、不良絵が僕の方を一瞥した。


「な、なんでもいいでしょ! なんでも!!」


おそらく何百回とコピーペーストされたやり取りだ。しかし彼女たちは大真面目なのだろう。そのことは、不良絵の僕に対する視線の熱量が物語っていた。


唐突に、興奮した読子が立ち上がった。


「私は読書大好きですよ! よく読むのは文学ですけど、SFとかファンタジーとか、……あ! あとライトノベルなんかも最近は──」


全員が読子を見ていることにようやく彼女は気付いたらしい。

先程までの饒舌さが嘘のように、読子は顔を赤らめて椅子に座った。

本のことになると周りが見えなくなる典型的ラノベ文学少女らしい。


「ねぇ。活動内容を教えるなら、実物を見せてくれた方が早いんじゃない?」


実仁が急かすように言った。


「ああ、それもそうね。先週の文化祭で作った同人誌があるから、それを見てもらった方がいいか」


隣家が本棚の一角から同人誌を取り出し、それをテーブルの中央に置いた。

僕はそれを取ってページを開いた。


「ちょっと! なんであんたが見てるのよ!!」


ぱらぱらと捲り、小早川裕也が書いた短編を見つけ出す。

十ページほどの短い物語だ。走り読みした限りでは、文芸部員である男の子が同じ部員の女の子に一目ぼれする話らしい。


「早く返しなさい!」


もう少しきちんと読みたかったのだが、隣家に取り上げられてしまった。


「隣家。僕がこれを書いたのはいつだったか覚えてるか?」

「あんた、あれだけ迷惑かけて覚えてないの? 急に別のものを書きたいとか言い出したのはあんたでしょ。入部したての子達に無理やり書いてもらってページ数調整したり、色々と大変だったじゃない。まあ、部長が辞めるのに便乗してあたしも辞めようとしたりとか、こっちにも悪いところはあるけどさ」

「……今、部員は何人いるんだっけ?」

「なに? ボケてるの? あたしとあなただけでしょ」


ボケてるのはお前だ。

ついさっき自分の口で入部したばかりの人間がいると言ったばかりだろ。

しかし隣家自体は大真面目だし、他のヒロイン候補も特に不審がっている様子はない。だが僕の感覚が正しいのは、目をぱちくりさせている変哲無さんが証明してくれている。


隣家を含む他のヒロイン候補達は、文字通り主人公である僕に囚われている。故に、主人公にいらないと言われた部長、暴力彩芽の存在は記憶ごと抹消されているんだろう。


そしてさっき隣家が言っていた『入部したての子達』というのはおそらく……。


「ちょっと! なにをふさぎ込んで考えてるの!? しっかりしてよ、部長!」


いつの間に僕が部長になったんだ。

まあしかし、退部しようとしていた人間を部長にするわけにもいかないか。


隣家はため息をつき、気を取り直すように笑顔で皆を見回した。


「じゃ、今日はせっかくだし、みんなでちょっと何か書いてみましょうか。物語じゃなくても、詩とか、ブログみたいなものでも全然いいから」

「んなこと言われてもなぁ。アタシ、本すら読んだことないし」

「わわ、私も、読むばかりで書くのはちょっと……」

「……わたしも……よく分からない」


ちらと、変哲無さんがこちらを見た。

分かってるよ。フラグだっていうんだろ?


「うーん、困ったなぁ。でも課題図書もないから感想を言い合うっていうのもできないし、他に活動することないしなぁ」


その時、僕の頭に例の選択肢が表れた。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

☞読子は色々読んでるんだし、コツを掴んだらすぐに書けるようになるよ

 不良絵は好きな漫画とかはないの?

 実仁は前に図書室で分厚い本を持ってなかったっけ?

 仕方ないから今日は隣家がこの前完成させた短編を読んでもらおうか



なるほど。

おそらくこれらの選択肢に外れはない。

絡んだヒロイン候補と好感度が上がる仕様なのだろう。

問題視すべきは、以前選んだ隣家への選択肢がこれでチャラになるか否か。

チャラになるなら隣家一択だが、そうならない可能性を考えれば……。

もう少し考えたいところだが、またタイムオーバーになったらシャレにならない。さっさと選ぶこととしよう。



【あなたはどうしますか?】


 ダイ

 読子は色々読んでるんだし、コツを掴んだらすぐに書けるようになるよ

 不良絵は好きな漫画とか絵本はないの?

☛実仁は前に図書館で分厚い本を持ってなかったっけ?

 仕方ないから今日は隣家がこの前完成させた短編の講評をしようか



「え?」


実仁は話を振られるとは思っていなかったのか、きょとんとしていた。


「あ、あれは……ただの参考書だから」

「へぇ。何の?」

「…………公務員」

「公務員って言ってもたくさん……いてっ!」


ふいに誰かにすねを蹴られた。

見ると、にこりと笑う変哲無さんがいた。


スマホのバイブレーションが反応する。

こっそり見ると、先ほど登録しておいたLINEから、変哲無さんのコメントがきていた。


変哲無『馬鹿ですか? 彼女が言いたくないっていうSOSを出してるでしょ』


そんなの分かるわけないだろ。

あれか? 三点リーダーがいつもより一つ多いところか?


変哲無『今はスルーしておいてください』

変哲無『このことは心に留めておいて、彼女の心に踏み込む時に使うんです』

ダイ『なるほど』

変哲無『女心というか、人の心を理解してないんじゃありません?』

ダイ『失敬な奴だな。僕だってそれくらい分かってる』

変哲無『へぇ。じゃ、私が何を考えてるか当ててくださいよ』

ダイ『面倒なこと全部ほったらかしにして帰って寝たい、だろ?』

変哲無『それ、あなたが考えてることですよね』


僕の指が止まった。


変哲無『馬鹿ですね』

ダイ『馬鹿じゃない。人のことをこの程度の事例一つで判断する奴の方が馬鹿だ』

変哲無『それ小学生の理屈ですよ』

ダイ『そう思うならちゃんと論破できるだろ? やってみてくれよ、聞いてやるから』

変哲無『は?』

変哲無『なんでそんな偉そうなんですか? そんなだから人の気持ちが分からないんですよ』



「あのー……」

「「え?」」


見ると、全員が僕と変哲無さんを凝視していた。


「いや、なんでもないんだけどさ。二人とも、凄い形相で下を向いてたから」


つい夢中になっていたようだ。

それもこれも、変哲無さんが非論理的なことを言うからだ。人を凶弾するなら相応の根拠を示して欲しい。


ごほんと咳払いして、僕は頭を切り替えた。


「じゃあ実仁。その公務員のことを書いてみたらどうだ?」

「え?」

「隣家が言ったように、別に小説じゃなくてもいい。その仕事につきたいなら何でつきたいのか。どういう魅力があるのか、みたいなことをさ。まずは書くことから始めて見ればいい。そうしたら自然と書きたい物語が浮かび上がってくるだろ」

「そ、そうかな……」


実仁は指をもじもじと動かしながら、ちらとこちらを一瞥した。


「じゃあ、あなたも……手伝ってよ」

「別にいいけど」


実仁の顔がにわかに赤くなる。

それと同時に、彼女の隣にあったゲージが少しだけ上がった。


よし!

なんだかんだで、初めてゲージが上がるところを見た気がする。

心なしか、実仁がかわいく思えてきたぞ! 今に僕がオトしてやるから待っていろ!

そんなことを考えていると、再びLINEが送られてきた。


変哲無『キモい』


どうやら、顔に出てしまっていたらしい。


◇◇◇


帰り道。

僕はイライラしながら隣家と一緒に下校していた。

変哲無さんにも側にいて欲しいと頼んだのだが、何をふてくされているのか、そっぽを向いてそのまま帰ってしまったのだ。

確かに先のLINEでは僕も言い過ぎた点はあった。しかしあの程度のやり取りでへそを曲げるなんて、大人げないとしか思えない。


ちらと前を見ると、隣家は僕よりも一メートルほど先を歩いていた。

「一緒に帰らないか?」と誘ったものの、うんともいいえとも言われずに無視された結果だ。


先程まで割と普通に話していたのは、おそらく共通イベントだったからだろう。共通イベントはどのルートを通っても重複するイベントであるため、整合性に欠ける場合がある。ライターの仕事量をケチるためにゲーム会社がよくやる手法だ。

しかし、ここまでは想定内。

問題はここからだ。


何度も言うが、僕は恋愛ハーレムが嫌いだ。

何が嫌いって、あの手の物語は全て、たった二文字の言葉でいつでも完結することができるからだ。

ここが恋愛ハーレムの世界だというのなら、僕なりのやり方でさっさと完結させてもらおう。


「好きだ!!」


隣家がぴたりと止まった。

ヒロイン候補の条件の一つは、主人公である僕を好きであること。

だったら好感度が溜まるのを待つ必要なんてない。


「……さっきなんて言ったの?」


隣家が振り向いた。

先程まで、ずっと無視を決め込んでいた隣家が、だ。

効果がある。

僕は再び叫んだ。


「隣家。僕は君のことが好──」


ビュウウ!!


そんな突風が吹き荒れ、後半の僕の言葉がかき消された。


「……何もないならもう行くから」


隣家が再び歩き始める。


……はあ!?

なんださっきの風は!!

タイミングが悪過ぎるぞ!!


「違う! 聞いてくれ隣家。僕は君のことが好──」


突然、近くにいた飼い犬が鳴き始める。


「君が──」


車のクラクションが鳴った。


「き──」

「いやぁーごめんねぇ!! 信号に捕まっちゃってさぁ!! 大丈夫、言われたものは買ったから!! ホント、すぐ行くから待っててぇ!!」


わざわざ窓を開けて大声で叫ぶウェイ系の男に、僕は本気でキレそうになった。

運転しながら電話するのはまだいい。だがなんでわざわざ窓を開けるんだ! そんな必要性がどこにある!? こいつはただ嫌がらせがしたいだけなのかそうなのか!?


隣家がさっさと先に行ってしまう。

こうなれば、強行突破だ。

僕は走って行き、彼女の腕を強く引っ張った。


驚く隣家。

その肩を掴み、顔を近づける。

これで何があっても声は届く。

そう思って口を開いた時、僕は感じた。

彼女の顔。冷めた目でこちらを見つめる瞳の奥。そこに、ある種の怯えのような震えがあったことに。

やり過ぎた。

そう思っても、もはや言葉は止まらなかった。


「好──」


その瞬間、僕は見た。

先程大声で通話していた男の軽トラック。荷台に積んだ荷物が落ちないように、車の横端をロープで括りつけて押さえているのだが、そこに一羽の鳥がいたのだ。

ロープの部分に器用に止まり、何か不審に思うところがあるのか、そのロープを嘴(くちばし)でつついている。

信号が青になり、先程大声で通話していた男が窓を閉めて発進し、それに驚いて鳥が飛び立った。


ピン


そんな音をたてて、括られていたロープが解けた。その勢いで車の外へとロープが投げ出され、隣家が肩にかけている学生バックの革ひもへ吸い込まれるように絡みついた。


僕の背筋が凍る。

車を確認すると、ロープの端は未だ車に括りつけられたままだ。

僕がバッグを振るい落とそうとするよりも早く、車が発進した。

その瞬間、ワイヤーに絡まった彼女の鞄が引っ張られ、袈裟懸けに掛けていた革紐が、隣家の首に締まった。


「ぐえっ!!」


彼女はそのまま後ろへと倒れ込む。

僕が慌てて彼女を掴もうとするも間に合わない。

彼女は首を絞められたまま車に引きずられて行く。


「止まれ!! その車、止まれえ!!」


あらん限りの声で叫んでも聞こえない。

隣家は引きずられながらも足をばたつかせる。

どんどん車のスピードが上がっていく。

僕は走った。

彼女の顔がみるみるうちに赤くなり、目も充血していく。

反射的に近くにあった石を拾い、僕は思い切り車に投げつけた。


ガシャアアン!!


大きな音をたててリアガラスが割れ、車が急停止した。

ようやく負荷から解放され、隣家は思い切りせき込んだ。


「おいこらぁ!! お前かぁ!?」


車から出てきたウェイ系の男が僕に突っかかろうとして、ぐったりと倒れている隣家の存在に気付いた。


「うおっ! な、なんだなんだ!? オレ、もしかして轢いちゃった!?」


男が慌てて救急車を呼んでいる間、僕は情けないことに放心していた。

様々な可能性を考えていたつもりだった。

しかし、まさかあんな滅茶苦茶な事故まで誘発するとは思ってもみなかったのだ。

そこに至り、僕はようやく思い知った。

『お約束』を覆すことは、たとえどんなことをしても不可能なのだと。


◇◇◇


病室で眠っている隣家を、僕はただただ見下ろすことしかできなかった。

どれだけそうしていただろう。

急に部屋のドアが開き、息を乱した変哲無さんが入って来た。

僕は彼女をちらと一瞥して、再び隣家に目を向けた。


「……LINEで、隣家さんが病院に搬送されたって話が回ってきたんです」


おそらく、モブキャラ達が状況に応じて動きやすいよう、情報は即座に共有できるようになっているのだろう。


「何があったんです?」


僕は重い口で事の顛末を話した。

隣家に告白しようとしたこと。

妙な邪魔が入って失敗するも、無理やり続けようとしたこと。

そして、彼女が巻き込まれた、現実ではありえないような事故のことを。


「間違っていた」


僕は言った。


「ここは恋愛ハーレムの世界だ。その『お約束』がどれだけ理不尽でも、抗っちゃいけなかったんだ。前回の呪いを経験して、それを分かっていたはずなのに……」

「……分かりませんよ、普通。それに、隣家さんが真のヒロインである可能性が高い以上、確かめなくちゃいけないことでした。あなたが気に病むことなんて──」

「無駄に彼女を危険に晒した」


『お約束』を覆せないことは、ルート変更が不可能だったところから推測してしかるべきだ。なのに僕はその予測を怠った。

恋愛ハーレムというジャンルへのある種の偏見から、僕ならすぐに解決できるかもしれないと驕ってしまったのだ。


隣家の髪をそっと撫でる。

僕の推測が正しければ、普遍的隣家という女性は実在する。

実際の彼女は隣家という名前ではないのかもしれない。それこそ、僕のように身体ごと違うのかもしれない。しかし現実に彼女はいて、この世界で命を落とすかもしれないのだ。


これではあの時と変わらない。

死ぬと分かっていながら、何もできなかったあの時と。


「……悪い。少し一人にさせてくれないか?」


やっぱり、僕に主人公は無理なのかもしれない。いや、そのこと自体は分かっていたはずだ。

僕はどこまでいっても端役で、主人公ではないのだから。


ふいに、変哲無さんに腕を引っ張られた。

その勢いで振り向かされると、僕はそのままビンタされた。


「……えぇ!?」


僕は混乱した。

何か殴られなければならないようなことを彼女にしたか?


「目が覚めましたか?」

「いや、普通に目は開いてたよね?」

「まったく。ちょっと付き合ってあげたらすぐこれです。私はあなたを慰めに来たわけじゃありませんよ」


慰めに来たわけじゃないから殴ったのか?

彼女の行動がまるで理解できない。


「だいたい、あなたそんな人間じゃないでしょう? 自分のせいで誰かが傷ついて、それに自分が傷つく? あなたがそんな真っ当な人間なら、今こんなところにいやしませんよ」


酷い言いぐさだ。

彼女は僕に恨みでもあるんだろうか。


「とにかく、私は厄介事が大嫌いなんです。私を無理やり巻き込んだんだから、せめて私の安全が確保できるまでは前だけ向いていてください。いいですね?」


変哲無さんはそれだけ言い残して出て行った。

まるで嵐のような女だ。

次から彼女と話す時は、突然殴られないように気をつけなければならない。


……しかし、彼女の言うことにも一理ある。

僕はずっと、何も抱え込まずに生きてきた。僕が抱え込むのはジョーさんだけだ。ジョーさんが自分以外の全てを抱え込み、僕は彼女だけを抱え込む。それが僕の役割だった。


この不慣れな世界にやって来て、面倒な人間関係を無理やり築かされて、僕は自分を見失っていたのかもしれない。

僕はそっと、赤く腫れた頬に触れた。


しっかりしろ。

僕がしっかりしなければ……、主人公がしっかりしなければ、誰がこの物語をハッピーエンドにすると言うんだ。


僕が決意を改めたその時だった。

突然、自分のスマホのコール音が鳴った。

スマホの番号は変哲無さんにしか教えていない。しかし、彼女がこのタイミングで電話を掛けてくるとは考えづらい。

僕は警戒しながら、通話ボタンを押した。


『はじめまして。いや、厳密に言えばお久しぶりなのかな?』


僕は眉をひそめた。

声は聞いたことがない。声音からして、男だということが分かるくらいだ。


「お前は誰だ?」

『そう険のある声を出さないでくれ。しかし想像していたのと随分違う。他人が傷つくことで落ち込むような人間だったとは。そんなことでは、この世界では生き残れんよ?』


僕は窓のブラインドから外を覗いた。監視されている様子はないが、スコープの類を使えばどうとでもなるだろう。


『安心してくれ。君のプライベートはきちんと守っている』

「……その言葉を聞くに、なかなか安心はできないな」


不審な電話を掛ければ辺りを観察すると踏んだのか、それとも本当に監視しているのか。

いや、これはむしろ……


『君は論理的にものを考えられる人間だと聞いた。なら、私の正体で一番可能性の高いものも分かるはずだ』


なるほど。どうやらビンゴらしい。

彼は……外の世界の人間だ。


「ジョーさんはそっちにいるのか?」

『ああ。私が保護している』

「妙な言い方だな。僕を助けてくれるんじゃないのか?」

『どうかな。私達は君達を非常に危険視しているんだ。あまり下手な行動はされたくない』

「君達というのは僕とジョーさんという意味か? それとも──」

『その通り。君達のような力を持つ者のことだ』


僕は一瞬だけ沈黙した。


「力とは?」

『可能性は考慮していたんだろ?』


妙に漠然とした話をしたがる奴だ。

主導権を握っていたいのか?

いやそれより……この妙な冷酷さ。おそらく仲間に近い存在であるはずなのに、いつでもこちらを見放せるように、徹底して客観性を保っているような……。

僕はこういうドライな関係を築きたがる人間を、どこかで見たことがある気がした。


『私達はね。君とジョーさんを危険視しながら、同時に非常に興味深く観察させてもらっていたんだ。あれほどまともな……いや、まともとは到底思えないが、いわゆる人力でクリエイターに打ち勝ってしまったのだからね』

「クリエイター?」

『君たちは呪いと広義的に呼んでいるんだったか? すまないね。私たちはエリート集団だから、洒落た名称をつけたくなってしまうのだよ』

「言っておくが、その名称は既にどこぞのアプリゲームで使われてるぞ」


僕がこっちに来る数日程前に、ジョーさんが「やることなくなった」と言って無常にもアンインストールしていたアプリだからよく覚えている。最高ランクのキャラクターをガチャで引き当ててもアレでは、ゲームというのはつくづく難しいものだなと思ったものだ。


『とにかく、君達が力を使わずに行(おこな)ったことは、まったく前例のないことなのだ。分かるかね? 私たちは、前例のないことが嫌いなんだよ』

「あなた達とは話が合わないことはよく分かった。とにかくジョーさんを出せ。じゃないとそっちの交渉には応じない」

『それはできない』


僕は電話を切ろうとした。


『できない理由がある。何故ならこの呪いは、本来君ではなく、ジョーさんを狙ったものだからだ』


ぴくりと、僕の眉が動いた。


「どういうことだ」


自然、声が険しくなってしまう。

ジョーさんを狙う奴がどこかにいる? ふざけるな。そんな奴が本当にいるなら、僕が探し出して殺してやる。


『まあそう興奮しないでくれたまえ。君がいる限り、ジョーさんは無事だ。それが君の……いや、正確に言えばジョーさんの力だ。私達は妄想代理人(ゴーストライター)と名付けた』


中二病かよ、と僕は心の中で毒づいた。


『この力はジョーさんに向けられた殺意や悪意、今回のような呪いを代理人である君に擦り付ける力だ。……どうだ? ジョーさんを恨む気持ちが出てきたんじゃないか?』

「何が? 僕がわざわざ身を挺して守る必要がないってことだろ。効率の良い能力じゃないか。運動神経は悪い方だしね」

『ふっ。面白いな。ジョーさんの言った通りだ』


僕はしばし考えた。


「小早川裕也という男は知っているか?」

『もちろんだ。私達が目をつけていたクリエイターだからな』

「その名称やめてくれない? 後で色々と問題になる気がするんだ」


アンインストールしたとかどうこう言っている時点で問題になる気がするが、そこは置いておこう。


「小早川裕也は作家だった。それが彼の力の根源だというのが僕の解釈だけど、それで合ってる?」

『ああ、それでいい。仕方がないから君に合わせて、これからは彼らのことを作家と呼ぶことにしよう』


心底どうでもいい話だ。


「それより小早川裕也のことを詳しく聞きたい。現実では彼はどうなってる?」

『こちらで話せることはほとんどない。中学に入ってしばらくした後に文芸部に所属し、そこで小説を執筆していたこと。16歳になった2016年6月17日、不慮の交通事故で亡くなったこと。それくらいだ』

「亡くなった? 死んでるのか?」

『ああ。即死だったらしい』


作家の死。荒唐無稽な、ジャンルを模した世界。

僕の知る呪いの条件にぴったりと一致する。

そして6月17日。やはりこれは……。


「隣家は? 小早川裕也にとっての隣家は、どんな存在だった?」

『さすがにそんな心の機微までは把握していない』


何でも知っているような顔して、使えない奴らだ。

顔は見てないけど。


『ちなみに、現実世界に普遍的隣家という名前の女性は存在しない。大人シ読子も、茶倮茶倮不良絵もだ。彼女たちはこの世界で一つの役割を担っている。そのために真名を失った状態なのだ』


その点に関しては推測通りということか。

もちろん、この男が真実を語っているのなら、だが。


「さっき不慮の事故と言ったな。……本当に事故か?」


男は笑った。

妙に含みのある笑いだ。


『少し長話が過ぎたな。君とコンタクトできる時間は限られている。今のところ、我々は君を救うつもりだ。そこは安心してくれ』

「まったく安心はできないけどね」

『ちなみに、その世界から君を連れ出す方法も未だ分かっていない』

「……本当に安心できないじゃないか。どうするんだ」

『一番簡単なのは、君がそっちでゲームをクリアすることだ。君も薄々気付いているだろうが、これはエゴと願望が織り交ざったゲームだよ。作家の願望と主人公の願望。どちらが勝つかという勝負だ。ゲームにはクリア条件というものが必ず存在する。悪には悪の、正義には正義の敗北条件があるのだ。その世界を作った作家であっても、そのルールから逸脱することはできない。それが物語というものだ。だから君は、それを見事探し出してくれたまえ』


完全に他人任せじゃないか。

使えないなんてレベルの話じゃない。今頃ジョーさんもぶちキレているところだろう。


「最後に聞かせてくれ。お前は一体誰だ?」

『そうだな。…………編集者、とでも言っておこうか』


ブツ、と音がして、電話は切れた。

……なるほど。

道理でいけ好かないわけだ。

どうやら僕は、編集者という存在とはほとほと合わない人間らしい。



第一話 完

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